1983年に13歳だった僕のような少年にとって、ビリー・ジョエルは洋楽の入口だった。そして、『イノセント・マン』は、特別な意味をもつレコードだった。というのも、このアルバムに収められた曲の多くは、まさしく僕らのことを歌っていたからだ。 ビリー本人が語っている通り、歌の登場人物たちは「今、恋をしていてご機嫌」であり、「求愛の儀式、つまり、うまく話をつけてデートの約束をし、恋に落ち、スローダンスに誘うといったことや、それにともなう不安、ロマンスにつきものの様々な情熱を楽しんでいる」ところだった。それは、町はずれにある中学校で毎日繰り広げられていた僕らの日常とも、なんら変わりないように思えた。 そしてすべての曲が、ビリーが少年時代に聴いていた音楽にもとづいていた。ラジオから流れるオールディーズ、ロックンロール、モータウンのヒット曲、フォー・シーズンズのようなコーラスグループ、街角で歌われるドゥーワップ等々。曲の向こう側では、僕の知らない音楽が確かに鳴っていた。 ビリーは数週間で全10曲を書き上げると、仲間と楽しみながら作ったこのアルバムは大ヒットを記録した。そして、僕にとっては、洋楽の入口で出会った忘れがたい指南書となった。 「あの娘にアタック(Tell Her About It)」や「アップタウン・ガール」はもちろん、ビリーによる多重コーラスが楽しい「ロンゲスト・タイム」も素敵だったが、一番のお気に入りは故トゥーツ・シールマンズの美しいハーモニカソロが聴ける「夜空のモーメント(Leave a Tender Moment Alone)」だった。恋をしたときの繊細な気持ちを歌った曲だ。 昔、好きな女の子と一緒にいるとき、彼女が退屈しているのではないかといつも気になった。「つまらなくない?」と訊ねそうになるのをぐっと堪え、かといって沈黙にも耐えられず、ついどうでもいいことを口にしてしまう。そして、後悔する。そんな繰り返しだった気がする。 恋愛にはいつだってふたつの相反する感情がついてまわる。天にも昇るような幸せな気持ちと、どうしようもなく不安な心だ。でも、それこそが「最高のフィーリング」なのだとビリーは歌っている。トゥーツのハーモニカが恋することの喜びそのものなら、戸惑い気味な表情を浮かべるビリーのヴォーカルもまた恋そのものだ。そのどちらもナイーヴで、とても優しい。 僕は恋をしているけれど ときどきひどく不安な気持ちになる なにか話さなきゃと思うと よくないことを口にしてしまいそう ふざけたことを言うのに ふさわしい時じゃないのはわかっている 会話が途切れないようにしているけど 心は怯えてわけがわからないんだ でも、僕がそう感じているのなら この気持ちこそ最高のフィーリング それだけは間違いないんだ この優しいひとときをそっとしておいて 今ではこうした繊細な感情に心を支配されることもなくなった。誰だっていつまでもナイーヴではいられないものだし、そのことにほっとしたりもする。でも、不意に想い出すときもある。「夜空のモーメント」のイントロダクション、トゥーツのハーモニカが輝く星々の間を抜け、そのもっと先まで届くとき、胸がちくりと痛むのだ。 そして、あの懐かしくも優しい気持ちに包まれるのだ。
2018.03.11
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YouTube / kittyliveson1
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