「洋楽ロック」も聖地「BUDOKAN」もチープ・トリックが教えてくれた
1977年にセルフタイトルのアルバム『チープ・トリック』でデビューして今年で45年。以前のコラム
『チープ・トリック奇跡の再ブレイク!元祖パワーポップとして息の長い存在感』で書いたが、僕にとってチープ・トリックは、洋楽ロックを聴くきっかけになった特別なバンドだ。そんな彼らがデビュー当時のバンドイメージのままに、シーンの第一線で変わらずロックし続けている姿には敬意の念を抱いてやまない。
まだ小学生だった洋楽ロック初心者の僕に、チープ・トリックは “洋楽ロックの聖地としての武道館” の存在も教えてくれた。東京に在住の方なら日本武道館は当然、身近なものだっただろう。けれども地方在住のロックファンにとっては、物理的な距離が遠いだけでなく、感覚的にも別世界のように感じる場所だった。
僕の地元の福岡には、かつて九電記念体育館という洋楽ロックの聖地があって、実際、チープ・トリックの初来日ツアーの初日が、1978年4月25日にここで行われている。福岡KBCラジオの名物DJだった松井伸一さんが、チープ・トリックの来福時に自身の番組で、ライヴの模様やリック・ニールセンらメンバーとのやり取りを、楽しげに語っていたのをおぼろげながら覚えている。
チープ・トリックを担当したCBSソニーの名ディレクター、野中規雄さんの述懐によると、松井さんはチープ・トリックを日本で一番最初にプッシュしたDJだったらしく、いまだにメンバーに覚えられているという。確かに僕がチープ・トリックのファンになったのは、地元で絶大な影響力を持つ松井さんが推していたからであり、福岡の若者がチープ・トリックファンになった比率は、ほかの地域に比べて高かったのかもしれない。
困難な日本発のライヴアルバムを具現化!世界にもたらした想像を超える影響力
福岡公演の3日後、28日と30日に行われたのが日本武道館でのライヴだった。その模様をレコーディングしようと発案したのが、前述の野中さんだったのは有名な話だ。僕もレコード会社のディレクター時代に、ライヴ・イン・ジャパンの類を提案して、実際にリリースに何とかこぎつけたのだが、国内外の様々な関係者との調整等とにかく煩雑面倒であり、大変なところに足を突っ込んでしまったと後悔したものだ。
今はレコーディングもプロトゥールスで簡単にできるし、ライヴ後の音の修正もぶっちゃけ容易だ。海外とのビジネス上のやり取りもネットを介して行えるけど、当時のトレーラーに録音機材を装置したモービルユニットを準備して失敗が許されない状況下でのレコーディング手配など、恐ろしくて震えてしまう。海外とのやり取りの手段も限られた時代に、ライヴ音源を日本発の企画として成立させ、チープ・トリック最大のヒット作のひとつへと結びつけた敏腕ぶりには心底脱帽してしまう。
ライヴの模様は武道館だけでなく、27日の大阪厚生年金会館でも収録され、マスターテープを受け取った名プロデューサー、ジャック・ダグラスの判断で、実際には武道館だけでなく大阪公演の音源も多く使われている。さらに当日演奏された19曲のセットリストから、日本のマーケット向けに厳選した10曲のみが収められた。大好きな「カリフォルニア・マン」がオミットされたのは残念だったけど、後年にコンプリートヴァージョンで初めて聴けたときは嬉しかったものだ。
「チープ・トリックat武道館」世界中にこだました日本の女の子達が生み出す黄色い歓声の威力!
『チープ・トリックat武道館』として後世に残された音源は、1曲目の「Hello There」から凄まじくポジティヴなエナジーを放出する、理屈抜きで楽しいチープ・トリック流儀のロックンロールワールドが全開だ。ライヴバンドの面目躍如といった具合で、個性的な4人の脂の乗り切ったパフォーマンスは素晴らしく、とりわけロビン・ザンダーの歌の巧さを改めて実感させられる。
それでも、このライヴにおける本当の意味での主役は、会場に駆けつけた女の子達の終始響き渡る黄色い歓声なのかもしれない。今どきのジャニーズや韓流アーティストのファンも真っ青の終始やまない歓声と、チープ・トリックが奏でるロックンロールとの何たる親和性の高さだろうか。名曲「サレンダー」や「今夜は帰さない」を初めてライヴヴァージョンで聴いた後でスタジオ・ヴァージョンに戻ったとき、なんだか物足らなく感じたものだ。「甘い罠」にいたっては、“Cryin” のスタジオヴァージョンでのディレイの下りを、女の子達がアレンジし再現しているさまは、もはや感動すら覚える。
本作は『Cheap Trick at Budokan』として、日本発で世界に向けて発売されたが、日本の女の子の熱狂ぶりに度肝を抜かれたことだろう。そして、アルバムの大ヒットとともに「BUDOKAN」は、日本を代表するロックの聖地として、世界にその名を轟かせることになる。海外のロックバンドとして初めての公演を行ったビートルズでもなく、チープ・トリックこそが世界中のロックファンに「武道館」を「BUDOKAN」として知らしめたのだった。
洋楽ロック黄金時代! その中心にそびえ立った、洋楽ロックの聖地としての武道館
武道館では、60年代のビートルズに始まり、70年代にはチープ・トリック以前にも、『ライヴ・イン・ジャパン』で有名なディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、キッス、80年代に入ってもマイケル・シェンカーや、NHKヤングミュージックショーで放映されたTOTO、ジャーニーをはじめとした多数の洋楽アーティストが、幾多の名演を繰り返した。
僕自身も90年代後半、遅ればせながら夢にまで見た武道館でライヴを観る機会に恵まれた。けれどもその頃にはすでに老朽化が進み、言葉は悪いが、この程度の格のアーティストでも武道館でライヴができるのか? という公演まで行われ始めた時期だった。さらには新しい大規模な会場も都内近郊に次々に作られ、かつての武道館の位置づけとはすっかり様変わりしてしまった。
振り返れば80年代頃までの武道館が、洋楽ロックファンにとって真の意味で聖地だったといえるのだろう。それはまるで日本における洋楽の栄枯盛衰とリンクするかのようだ。それでも、ここがチープ・トリックがかつて名演を繰り広げた場所なんだ、と思うと感慨が湧き上がり、微かでも確かな痕跡を感じ取ることができた。
レコード会社時代に、ある海外アーティストを武道館の前に連れて行ったことがある。「ここでライヴをやるのが夢なんだ」と言い、憧れの表情を浮かべていたのが印象的だった。世界中に同じような想いを持つアーティストやロックファンを生み出したのは、『Cheap Trick at Budokan』によって「BUDOKAN」の名が世界に知れ渡ったからこそだ。
そんな伝説となった初来日公演以来、幾度も日本の地を訪れ、変わらぬ最高のロックンロールを日本のファンに届け続けてくれたチープ・トリック。もし『チープ・トリックat武道館』の発売から50周年の2028年、日本武道館公演が実現したなら、最高の一夜になるだろう。そんな妄想をするのも楽しい。
PS:44年前、武道館で黄色い歓声を上げていた女の子達は、今もロックを聴いているんだろうか? ちょっと気になったりする。
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2022.11.24