今年、僕はこのリマインダーで「黄金の6年間」と題したコラムを集中的に書いている。
黄金の6年間とは、1978年から83年にかけての6年間のこと。東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代である。
扉を開けたのは、75年4月のサイゴン陥落だ。ベトナム戦争が終結し、若き米兵たちは帰国して、太陽の下でテニスやサーフィンに夢中になった。アメリカンニューシネマは衰退し、代わって『スターウォーズ』が全米を席捲した。ヒッピーたちは街へ戻り、着飾ってディスコへ繰り出した。要するに―― 政治の季節が終わった。
その風は日本にも飛来した。創刊されたばかりの『POPEYE』は西海岸の文化を伝え、フォーク歌手たちはニューミュージックへの脱皮を図り、文学の世界では2人の村上―― 龍と春樹が時代を語り始めた。気が付けば、エンタテインメントが新しい時代の旗印になっていた。
そう、黄金の6年間とは、様々な分野でエンタテインメントが試行錯誤を繰り返した時代である。ジャンルの壁は取り払われ、ボーダレス化が進んだ。毎年のようにファッションが上書きされた。誰も正解なんて分からなかった。
そのタイミングで TBS の『ザ・ベストテン』は始まる。時に1978年1月―― それは、まさに黄金の6年間が幕開けた瞬間だった。ランクインした楽曲は群雄割拠のごとく多岐にわたり、アイドル、演歌、歌謡曲、フォーク、ニューミュージック、ロック、洋楽、童謡、コミックソング、ムード歌謡―― そう、ムード歌謡なんてのもあった。
少々前置きが長くなったが、それが今回のテーマである。時に、今から40年前の今日―― 1979年9月21日にリリースされたロス・インディオス&シルヴィアの「別れても好きな人」を、紐解いてみたいと思う。
別れた人に会った
別れた渋谷で会った
別れたときと同じ
雨の夜だった
まず、誤解してほしくないのは、1979年の時点で、既にムード歌謡は過去のジャンルだったのだ。ムード歌謡と言えば、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」とか、水原弘の「黒い花びら」とか、石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」とか、大体1950年代半ばから60年代にかけてのもの―― 。
実際、「別れても好きな人」もカヴァーだった。オリジナルは、1969年に松平ケメ子が歌い、半年後にパープル・シャドウズにも歌われた。更に、75年にはシルヴィアが入る前のロス・インディオス自身も歌っている。だが、いずれもヒットしなかった。
ところが―― 79年9月にロス・インディオス&シルヴィアのデュエットソングとして出すと、ミリオンセラーの大ヒット。不思議なことに、僕自身、当時この曲を、それほど古いとは感じなかった。
同曲が『ザ・ベストテン』にランクインするのは、リリースの翌年、80年の7月からだが(当時、楽曲がヒットするのは、それくらい時間がかかることもあった)、同時期にランクインしたのは、「青い珊瑚礁」の松田聖子であり、「哀愁でいと」の田原俊彦であり、「ダンシング・オールナイト」のもんた&ブラザーズだった。彼らの中に入っても、特に違和感はなかった。
なぜ、同曲は時代に溶け込んでヒットしたのか? ―― シルヴィアだ。彼女のおかげでヒットしたと言っても過言じゃない。
簡単に、彼女のプロフィールを紹介すると―― 本名・松田理恵子、もちろん日本人である。生まれは大阪。長身を生かして実業団のバレーボール選手として活躍するも、その後、歌手を目指して地元のクラブで歌っていたところをスカウトされ、ロス・インディオスに加入。時に21歳。で、いきなり「別れても好きな人」である。
傘もささずに原宿
思い出語って赤坂
恋人同志にかえって
グラスかたむけた
実は、シルヴィアが歌うにあたり、同曲は歌詞を一部改訂している。それが上記のシルヴィアのソロパートのところ。オリジナルは原宿ではなく、青山だった。
なぜ変えたのか? 70年代、原宿はカメラマンやコピーライター、イラストレーターらクリエイターたちが数多く事務所を構えるセントラルアパートを中心に、レオンやペニーレイン、ミルクといったオシャレな店が増え始め、アート志向の若者らが集う街へと進化していた(原宿に来る層が低年齢化するのは80年代以降)。イケてるお姉さんのシルヴィアが口にするに、相応しい街だったのだ。同様の改訂は2番にもある。
歩きたいのよ高輪
灯りがゆれてるタワー
おもいがけない一夜の
恋のいたずらね
ここも彼女のソロパートだが、オリジナルは高輪ではなく、狸穴である。そう、麻布の狸穴だ。だから、「灯りがゆれてるタワー」なのだ。狸穴から東京タワーはよく見える。一方、高輪から東京タワーは見えない。なぜ、そんな不自然な文脈になるのを承知で変えたのか?
狸穴は大人の街で、若い女性が好んでいく場所じゃない。一方、高輪には高輪プリンスホテルがあったりと、洒落た界隈である。これも21歳のシルヴィアに合わせた改訂なのは容易に想像がつく。
つまり―― オリジナルが発表された60年代には、大人の街を舞台にした大人のムード歌謡だった同曲が、79年に21歳のシルヴィアが、ロス・インディオスの棚橋静雄サンとのデュエットで歌うにあたり、大人の男性と若い女性とのラブソングに変貌したのだ。実際、アレンジもオリジナルと比べて、歌いやすいように歌謡曲風に寄せてある。
歌いやすいように―― そう、同曲がヒットした核心に、いよいよ近づいてきた。実は、面白いことに、同曲のシングルレコードは、B面がカラオケである。90年代以降、シングルCD のカップリング曲にカラオケが入ることは珍しくなかったが、79年の時点ではかなり先進的だった。
もう、お分かりですね。ロス・インディオス&シルヴィアの「別れても好きな人」が売れた最大の要因―― それはカラオケである。
日本でカラオケが大衆化したのは、1970年代後半である。ただ、当時のカラオケはスナックやクラブで歌うもので、当然、見知らぬ客の前で披露することもあり、身内で楽しむ今のカラオケボックスとは、かなり様相が違った。歌に自信がないと、なかなか歌えないシロモノだった。
だが、スナックやバーで歌うカラオケには一つ、メリットもあった。それは、お目当ての店の女の子とのデュエットである。その種のリクエストは多いので、彼女たちは有名どころのデュエットソングは一通りマスターしていた。ということは、勇気を出して彼女を誘えば、2人は3分間の疑似恋人になれるのだ。
これは練習せずにはおられない――。かくして、世のお父さんたちはB面にカラオケが入った「別れても好きな人」を購入し、日々、棚橋サンに近づこうと歌唱を磨いたのである。行きつけのスナックの “シルヴィア” を落とすために――。
シルヴィアこと松田理恵子さんが亡くなられて、早や9年。デビュー曲のリリース40周年、おめでとうございます。貴女の歌声は永遠です。
2019.09.20
YouTube / tomoko31103
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