『伊藤銀次が一番好きなイカ天バンドを紹介!番組が残した大きな功績ってなに?』からのつづき
「イカ天」が流行語大賞・大衆賞に
『三宅裕司のいかすバンド天国』、通称イカ天は、あれよあれよというまに、出演者の僕も驚くほどの人気番組になってしまった。当時関係者から聞いた話では、土曜の深夜だというのに、なんと7%も視聴率があったそうで、「イカ天」という言葉が、その年の流行語大賞の大衆賞を取ってしまうほどの勢い。そんな状況だったので、それまで気軽に歩いていた街がなかなかそうもいかなくなった。
特に中学校や高校の近くはやばくて、学生たちに見つかった日にはもう大変。「おぉ! 伊藤銀次が歩いてるぞ!」と大騒ぎ。その頃は極力、学生街は避けるようにしていたものだった。大滝さんにこの話をすると、
「僕なんかはぜんぜん平気だよ。誰にも気づかれないからね」
―― と自慢気に言われたものだ。あんなにアルバムが売れた大滝さんだけど、その顔を知ってる人が少ないというのはちょっとうらやましくなるほどで、テレビに出るということのスザマジさを体験をもって知ることができた時期だったね。
武道館で開催された「輝く!日本イカ天大賞」
そんなイカ天人気のピークは、それまで番組を盛り上げた人気バンドが大挙して出演した1990年1月1日に武道館で開催された『輝く!日本イカ天大賞』、レコード大賞のイカ天版ともいえる、一大イベントだろう。
大賞はやはり下馬票通り、「さよなら人類」のたまが獲ったのだが、驚くことに武道館は超満杯。この番組に出るまではまったく無名だった彼らも、この時点ではすでにみんな人気バンドとなっていて、押し寄せたファンと、“今が旬” のバンドたちとが作り出す熱気に終始満たされ、まさにそのイカ天人気を具現した大盛況のライヴイベントとなった。
実は番組のホストである三宅裕司さんもベンチャーズなどのギターインストが得意だというので、スタッフのほうから、「せっかくだからこれまで審査ばかりしていた僕と吉田建と村上 “ポンタ” 秀一と三宅さんとで審査員バンドを組んで出演しませんか」という話があった。
「これはおもしろい! いいとも!!」
―― とふたつ返事で引き受けたものの実は当日けっこうパニクった瞬間があった。
ちょっと「ドラゴンクエストV:天空の花嫁」の主人公みたいなコスチュームに身を固めたポンタ、吉田建、僕がステージに順に登場。ちょっとポリス風な演奏で盛り上げたところへ、いわゆる「せりあがり」でステージにあがってきたリードギターの三宅さんがおもむろに「Walk Don’t Run」のメロを弾き始めたのだが、三宅さんは僕らと離れていて僕らの演奏がよく聴こえなかったみたいで僕らと演奏がずれていたのだ。
これにはパニクったね……。「おぉ… やばいぞ…」と思ってとっさに三宅さんに合わせたら、広い武道館、ポンタ、建、銀次のステージ上の立ち位置がかなり離れていたのにも関わらず、全員ピタっと同時に合ったときは、今度は逆にちょっと感激。
さすがの三人!! いつもえらそうに審査しているだけじゃないところを見せることができてよかった!
萩原健太さんの決断、全員でイカ天審査員卒業
それほどの人気を誇ったイカ天も、このイベントを境にその人気に翳りが見えてきた。その頃からインパクトの強いバンドが減ってきたのか、なかなかイカ天キングを決めにくいことが多くなってたのだ。ちょうどその頃、審査委員長の萩原健太さんが本業の評論家の仕事に専念したいので番組を降りたいと言っていることを小耳に。
実は僕もこの頃は本業のミュージシャンとしての仕事よりも、他のバンドコンテストの審査員や、この番組で吉田建とともに「辛口」で売っていたせいなのか、女性誌の人生相談に応えるというような仕事も多くなっていて、これでいいんだろうかと思っていたところだったので、健太さんのこの決断に押されて、番組を降りることにしたら、他の審査員のみなさんも同意見で、それならばと全員でイカ天審査員卒業となったのでした。
ブームから30年。今振り返ってみて “あの異常なまでの人気は何だったんだろう” と思う今日この頃。いまだから言える話だけど、実は人気絶頂のあの頃、JRだったか、健太さん、中島さん、グーフィーさん、建、僕の審査員5人で列車旅行するCMに出ないか―― という話があった。
結局みなさんでお断りして実現しなかったんだけど、もしそれに出ていたらどうなってたんだろう? 出てたほうがよかったんだろうか? 出なかった方が正解だったんだろうか? もし出演していたらきっと今とは別のパラレルワールドにいたのかもしれないと思うと、ほんと人生はつくづく不思議だね。
―― さて、ここまできたら、せっかくだから、次回は “アンコール” ということで、イカ天その後のお話を!!
▶ 伊藤銀次のコラム一覧はこちら!
2023.03.30