1976年 8月25日

都倉俊一【最新インタビュー前編】ピンク・レディー誕生秘話と阿久悠とのヒット曲創作術

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ピンク・レディー、ヒットチューンの作曲・編曲を手がけた都倉俊一


2026年8月25日にデビュー50周年を迎えたピンク・レディーは、この人物がいなければ生まれなかった。オーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)の審査員としてミイ(現:未唯mie)とケイ(現:増田惠子)を合格に導き、“ピンク・レディー” と命名、デビュー曲「ペッパー警部」以降、ほとんどのヒットチューンの作曲・編曲を手がけた都倉俊一である。本年3月まで文化庁長官を務めるなど、多年にわたり音楽産業の振興に尽力してきた都倉へのインタビュー。前編はピンク・レディー誕生の舞台裏と、ゴールデンコンビと言われた作詞家・阿久悠との創作について話を聞く。

―― 都倉先生は先日、東京のLINE CUBE SHIBUYAで開催されたピンク・レディーのトリビュート・コンサート『ピンク・レディー デビュー50周年 トリビュートプロジェクト Legend, Now and Forever』をケイさん(増田惠子)とともに観覧されました。終演前のサプライズとして、MCの藤井隆さんから紹介されたケイさんは観客に感謝を述べるとともに、出演者の素晴らしいパフォーマンスに感動したとおっしゃっていました。先生はいかがでしたか?

都倉俊一(以下:都倉):ピンク・レディーで育ったベテランから20代の若手まで、さまざまなジャンルのアーティストが存分に実力を発揮されていて、実に見応えのあるステージでした。トークコーナーでは各楽曲の魅力について熱く語る方が多くて、作り手としては、それも嬉しかった。最後に全員総立ちで「UFO」を歌い踊る光景を見ながら、ピンク・レディー伝説は不滅だと改めて感じましたね。まさに(プロジェクトタイトルの)“Legend, Now and Forever” だなと。

「スター誕生!」決戦大会の本命ではなかったピンク・レディー


―― トリビュートプロジェクトのタイトルは都倉先生が考案されたとか。そもそもピンク・レディーというユニット名もカクテルにちなんで先生が命名されたものでした。50周年という大きな節目ですので、『スター誕生!』での出会いからお聞かせください。

都倉:後楽園ホールで収録されていた『スタ誕』の本選でしたね。彼女たちはサロペットを着た素朴な女の子といった出で立ちで、フォーク系の歌を歌ったんです。たまたま僕が講評することになっていたので、2人の歌を聴きながら何を言おうか考えていたのですが、“ひと通りサマになっていて、動きもハーモニーも揃っている。大絶賛とまではいかないけれど、落とす理由がない” と評したわけです。

―― 資料によると、ミイさんとケイさんが本選に出場したのは1975年12月17日(1976年1月11日放送)。みごと合格して、決選大会に進みます。1976年2月18日(放送は3月14日)のことでした。

都倉:その決戦大会で注目されていたのは清水由貴子さんでしたね。スターを志す若者たちをプロの世界へ送り出すのが『スタ誕』の使命ですから、次の決戦大会では誰が目玉になりそうか、番組プロデューサーやスタッフの間の評判はわれわれ審査員の耳にも入ってくる。ですから2人は本命ではなかったんです。

キャンディーズを一度も意識したことはなかった


―― それでも8社のプラカードが上がり、事務所は新興のT&C、レコード会社は大手のビクターに決定しました。先生と阿久悠さんが彼女たちの楽曲を手がけることになったのは、どういう経緯だったのでしょう。

都倉:『スタ誕』の場合、プロデューサーの池田文雄さんや、日本テレビ音楽の砂土居政和さんたちによって構成される委員会があって、そこにT&Cやビクターの幹部が加わって作家を決めたのだと思います。当初は彼女たちをフォークデュオとして売り出そうとしていたようですが、僕と阿久さんは、それでは面白くないと考えていました。その前に阿久さんと組んだ山本リンダにしても、フィンガー5にしても、既成概念にとらわれずに作ろうというのが僕たちのやり方でしたから。

―― 当時、ガールズグループとしては渡辺プロダクション所属のキャンディーズが人気を集めていました。

都倉:レコード会社は無難な路線を取りたがる傾向がありますから、当然キャンディーズのことは考えていたでしょうね。実際、彼女たちのプロジェクトはプロの集団が作った完成度の高いものでしたから。でも僕は一度も意識したことはなかった。それは山口百恵を担当したときに、天地真理や桜田淳子のことを考えなかったのと同じです。前に誰かがいるのであれば、それとは違う、新しいことをやろうとするのが作家というものでね。そうでないと自分が関わる意味がない。それは阿久さんも同じでした。

―― デビュー曲を任された先生は2人のボーカルレッスンも担当されたとか。どういう印象を持たれましたか。

都倉:2人の呼吸がぴったり合っていたので、フィールドは違うけれども、初期のビートルズに通じるものを感じました。要するに2人でひとつの声なんです。ジョン・レノンとポール・マッカートニーが一緒に歌っていた頃のビートルズは、ジョンの強い声とポールのソフトな声が合わさってビートルズの声になり、それがいい世界を作っていました。その点はピンク・レディーも同じで、それぞれの個性を敢えて抑えることが、プロジェクトの柱となった。だから僕はどの曲に関しても、ソロをとらせようと思って作ったことはありません。

「ペッパー警部」というタイトルは意味とか理屈ではなく感覚的なもの


―― それはユニット名を “ピンク・レディーズ” と複数形にしなかったことにも表れていますね。“今までにない新しいことをやろう” という考えのもと作られたデビュー曲「ペッパー警部」はどういう手順で制作されたのでしょう。

都倉:僕と阿久さんの間では山本リンダ以来、独特のやり方がありましてね。まずタイトルとテーマを先に決める。それをもとに僕が作曲し、アレンジまで完成させて、メロディはピアノかスキャットで入れる。その方が作詞の際にイメージしやすいからですが、阿久さんはその音源をもとに歌詞をはめていくんです。ピンク・レディーもその手法で、あるとき阿久さんから示されたタイトル候補のなかに「ペッパー警部」があった。

―― 一見、意味不明ですが、インパクトは抜群でした。1973年にドクターペッパーという炭酸飲料が売り出されていましたが、一体どういう歌なのか、興味をそそられるタイトルです。

都倉:ときどき “どういう意味ですか?” と訊かれることがありますが、僕らの間でそういう会話をしたことはほとんどありません。意味とか理屈ではなく感覚的なものなので、2人が “面白い!” と感じればそれでいい。「ペッパー警部」のときも敢えて質問はしなかったし、逆に阿久さんが作曲や編曲に関して意見を言うこともなかった。お互いに干渉し合わないのが暗黙のルールで、だからこそ長くコンビを続けられたのだと思います。なかには膝詰めでやるのが好きな作家もいたようですが、僕は自由に作るのが好きだったので、阿久さんとのやり方が性に合っていました。



ピンク・レディーは冒険ができる土壌があった


―― コンビを組んで多くのヒット曲が生まれていましたし、阿吽の呼吸といったところでしょうか。ピンク・レディーに関しても、それまでのアイドル歌謡にはない斬新な楽曲が誕生しました。それに伴いユニット名も当初有力視されていた “白い風船” から、カクテルの名前に由来する “ピンク・レディー” に変更。レコード会社は驚いたのではないですか。

都倉:僕が新人だったら通らなかったかもしれないけれど、阿久さんも、僕も、その時点でかなりのヒットを出していましたからね。それにピンク・レディーは冒険ができる土壌があったんです。あまり期待されていない新人だったから(笑)。

―― 確かにエスタブリッシュされた人気歌手ではなかなか冒険できないですよね。阿久・都倉コンビが手がけた山本リンダさんは長い低迷期を経てイメージチェンジが求められていましたし、フィンガー5もレコード会社を移籍しての第1弾でブレイクしました。阿久さんはピンク・レディーをリンダさん、フィンガー5に続く “第3の絵空事路線” と位置づけていましたが、先生はいかがでしたか。

都倉:それは僕も同じです。阿久さんも、僕も、それぞれが持つおもちゃ箱がありましてね。阿久さんのおもちゃ箱にはいろんな言葉やタイトルが、僕のおもちゃ箱にはリズムパターンとか新しく出てきた楽器が入っていて、そこから使えそうなものを随時取り出していた。そういう遊びができるのは、やはり新人なので、僕が手がけたアーティストはほとんどが新人でした。

制約を受けてものを作るのは自分のスタイルに合わない


―― そういえば先生が1977年から1979年にかけて2年間、司会を担当された『レッツゴーヤング』(NHK)でも、番組内ユニットのサンデーズからデビューする新人の楽曲をほとんど書かれていました。

都倉:ピンク・レディーに限らず、色のついていない新人だと自分の裁量が大きくなるわけです。僕は制約を受けてものを作るのは自分のスタイルに合わないと思っていましたから、必然的に新人を手がけることが多くなりましたね。

―― 『レッツゴーヤング』では、狩人「あずさ2号」(作詞:竜真知子)、太川陽介「Lui-Lui」(作詞:石原信一)、倉田まり子「グラジュエイション」(作詞:山上路夫)などを手がけて、彼らを新人賞に導きました。阿久さん以外の作詞家とも多くの仕事をされていますが、手法としては曲先(メロディを先に作って、あとから歌詞をつける制作方法)が多かったのでしょうか。

都倉:そうですね。でも「あずさ2号」とか歌詞先行で作ったものももちろんあります。なかにし礼さんと組むときは詞先が多かったかな。阿木燿子さんが歌詞を書かれた「ハリウッド・スキャンダル」(郷ひろみ)はコンセプトが先だったような記憶があります。プロデューサーの酒井政利さんとはほとんどがそういう作り方でしたから。

―― “こういう世界観で” みたいなオリエンがあるということでしょうか。

都倉:そうです。酒井さんは言葉にこだわる方だったから、作詞家は大変だったと思いますよ。“てにをは” まで直しを求めることがありましたからね。

作詞家・阿久悠との特別な関係


―― そういうお話を聞くと、タイトルやテーマだけで多くを語らずとも分かり合える阿久悠さんとは特別な関係だったことが窺えます。しかもお二人は “絵空事路線” だけでなく、ペドロ&カプリシャスの「ジョニィへの伝言」や「五番街のマリー」のようなバラードもヒットさせています。

都倉:「五番街のマリー」は阿久さんと一緒に1週間、同じ船に乗っている間に作ったんです。ニッポン放送の主催で、現役のクリエイターが作詞や作曲の講義をする洋上セミナーに参加したのですが、船が横浜埠頭に到着したときに、作った曲をディレクターに渡さなくてはならないスケジュールでね。だからといって船内で “ああでもない” “こうでもない” と話し合うわけではなくて、阿久さんは自分の部屋でコツコツ書くし、僕もひとりで曲を作る。食事どきなどで多少のやり取りはあったかもしれないけど、いつもどおりのやり方でした。



「ペッパー警部」はブラスを使ったソウルフルなロックンロール


―― 話をピンク・レディーに戻すと、頭サビで始まる「ペッパー警部」は冒頭からものすごいインパクトがありました。先生としてはどういう遊びを仕掛けられたのでしょう。

都倉:アレンジ的にブラス(金管楽器)を使いたかったんです。洋楽では1970年代初頭にシカゴやブラッド・スウェット&ティアーズといったブラスロックのバンドが出てきて、フィラデルフィア・サウンドなどソウルミュージックも進化していた。特にアース・ウインド&ファイアーを初めて聴いたときはぶっ飛びましたから、「ペッパー警部」はブラスを効かせたソウルフルなロックンロールにしたんです。

―― ビクターの上層部は、先生たちがB面用に作った「乾杯お嬢さん」をA面にしようとしたと聞いています。

都倉:ピンク・レディーのディレクターは『スタ誕』で彼女たちにプラカードを上げた飯田久彦さんでしたが、当時の彼は駆け出しでね。社内での発言権は無きに等しかったんです。あとで知ったことですけど、プラカードを上げたのは彼の独断で、会社としては乗り気ではなかった。だから「ペッパー警部」よりは無難な「乾杯お嬢さん」を社としては推したのでしょうね。

―― その判断を覆すために、先生が直々にビクターの編成会議(新譜の発売を決定する、社内で最も重要な意思決定機関)に乗り込んだとか。どういう話をされたか、憶えておられますか。

都倉:ずいぶん昔のことだからね(笑)。細かいことは憶えてないけれども、飯田さんの援軍として、T&Cの相馬一比古さん(『スタ誕』で2人をスカウトした制作部長)と一緒に出席したんじゃなかったかな。もちろんケンカ腰ではなくて、ニュアンス的に “そこまでおっしゃるなら、全部引き上げてもいいんですよ” ということをやんわり伝えたような記憶はあります。

初のオリコン1位を獲得した「S・O・S」


―― その結果「ペッパー警部」がA面となり、ピンク・レディーは1976年8月25日にデビュー。とはいえ当初の動きは鈍く、上昇気流に乗ったのは11月に入ってからでした。セカンドシングルの「S・O・S」(11月25日発売)はその状況が生まれる前にレコーディングされたと思いますが、どんな狙いで作られたのでしょうか。

都倉:頭にあったのはサーフィンサウンドです。当時の僕はいろいろなサウンドをやりたくて、このときはビーチ・ボーイズなどのウエストコーストサウンドを採り入れたかった。それを本格的に展開したのが3年後の「波乗りパイレーツ」(1979年7月)で、シングルのB面に収録したバージョンではロサンゼルスに行ってビーチ・ボーイズのメンバーに演奏とコーラスをやってもらいました。高校時代に彼らの洗礼を受けた僕にとっては楽しいレコーディングでしたよ。

――「S・O・S」は1977年2月に初のオリコン1位を獲得。一躍トップアイドルとなったピンク・レディーはメガヒットを連発し、子供たちがこぞって振り真似をするほどの社会現象となります。ご本人たちは睡眠時間を削って過酷なスケジュールをこなしていきますが、都倉先生も、阿久さんも、数多くのプロジェクトを抱える多忙の身。日本中がピンク・レディーの新曲に注目するなか、制作チームはどういうコミュニケーションをとられていたのでしょう。

都倉:僕と阿久さん、そして振付師の土居甫さんは『スタ誕』にも関わっていましたからね。番組の収録があるたびに顔を合わせていたので、打合せはそういうときにやっていたんです。



ピンク・レディーの魅力に欠かせない土居甫の振り付け


―― 先生のメロディとサウンド、阿久さんの歌詞に加えて、ピンク・レディーの魅力は土居さんの振り付けも大きな要素でした。

都倉:それまで振付師というのは縁の下の力持ちで、表に出てくることはあまりなかったと思いますが、1970年代は山本リンダの振り付けを手がけた一の宮はじめさんや、キャンディーズを担当していた西条満さんが業界で注目され始めて。土居さんもそのひとりでしたが、振り付けの仕事だけではやっていけない時代だったので、彼は『スタ誕』のステージングも担当していたんです。

―― 出演者の登場の仕方やダンサーさんの配置などを決めるお仕事ですね。

都倉:そうです。とにかく毎週のように会っていましたから、そこで “次はこういう曲でいくよ” という話をしてね。ピンク・レディーの人気が過熱すると、雑誌の『明星』『平凡』をはじめ各メディアはいち早く新曲の情報をとろうと躍起になっていましたが、こちらも前作を超えるというか、ある意味で世間を裏切るアイデアを出すために必死でした。土居さんは当然、新曲ができてから振り付けを考えるわけですが、国民的な人気となって “テレビで早く歌ってほしい” という要望が高まってくると、その時間が削られてしまう。ですから、“少しでも参考となれば” との思いで、先にできたイントロだけを渡すこともありました。


*後編では当時のスタジオワークやサウンドに関する話、そして時代を超えて愛される楽曲の条件などについて伺います。

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2026.09.06
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