1989年の僕は東京中を歩いていた。 渋谷の中古レコード屋に高円寺の古本屋、クラブなんて言葉がさほど普及していなかった時代の新宿のライブハウス。それにヤオン。頭の中では、その頃に出逢った世界一単純なリズムの(と無邪気に信じていた)音楽、レゲエが常に鳴り響いていた。 4分の4拍子の最初の拍で右の一歩。2拍目に左足。それからまた右で、4拍目にやはり左の一歩。僕の中でレゲエと二足歩行は結びついていた。 とりわけミュート・ビート(MUTE BEAT)の「ハット・ダンス」。1987年のシングルでも同年の『FLOWER』のアルバムヴァージョンでもなく、『MUTE BEAT LIVE』(1989年)というライブ盤に収録された、他のヴァージョンよりやや緩めのテンポが歩くたびに想いだされた。 カリブ海に浮かぶ小さな島国ジャマイカで1950年代に生み出されたスカは、1960年代のロックステディ、ラバーズロックを経て、70年代のレゲエに発展し、ボブ・マーリーの登場を待って全世界を席巻する。 一方、70年代末のイギリスでは、スカを源流としパンクを融合させた2トーン・スカ(単に2トーンともいう)が誕生した。これをスカとレゲエの二大潮流とすると、1981年に活動を開始した日本が世界に誇るダブ・バンド、ミュート・ビートはそのいずれにも似ていない。 ミュートはエンジニアを正式メンバーの一人に数えた日本初のダブ・バンドだ。ドラムの屋敷豪太(脱退後に渡英、ソウル Ⅱ ソウルやシンプリー・レッドに参加)、キーボードの朝本浩文(UA「ミルクティー」のプロデュースで大ブレイク)が抜けた後、1989年に中心人物であったトランペットの “小玉” 和文も脱退を表明、そのまま解散してしまった。 同じ年、スカフレイムス(The Ska Flames)はザ・トロージャンズのギャズ・メイオールをプロデューサーに迎え、ロンドンでファーストアルバム『Ska FEVER』を録音した。アルバムのトップを飾るファーストシングル「Tokyo Shot」(1988年)は重厚なホーンセッションを配したアップテンポの佳作だった。 また、今(2016年)の人の耳には奇異に響くかもしれないが、1980年代末の日本のロックシーンでレピッシュはしばしばレゲエに分類されていた。「パヤパヤ」(1987年)でメジャーデビューを果たした後、3枚目のシングル「RINJIN」で一気に大衆の人気を獲得するのも1989年。当時流行していたいわゆるタテノリにスカのリズムを組み合わせた自称「アニマル・ビート」は、狂市(杉本恭一)のギターと相まってレゲエの新しいジャンルを思わせた。 同じ1989年に華々しくデビューしたのが東京スカパラダイスオーケストラ(スカパラ)。結成は1985年らしいが、われわれの耳にファーストアルバム『東京スカパラダイスオーケストラ』が届いたのがこの年。ロシア民謡のカヴァーで始まり、ジャズの名曲「スキャラバン」を入れるなど、よく知られた曲のスカヴァージョンを披露して、レゲエ、スカのファン層を一気に押し広げた。スカフレイムスと比べると、スカパラの音は少々不安になるくらい軽やかで、視覚的にもエンターテインメント性に富んでいた。 90年代にも、ミュートの衣鉢を継いでミックスの内田直之を正式メンバーに入れたドライ・アンド・へヴィ(Dry & Heavy)、フィッシュマンズやリトルテンポ(LITTLE TEMPO)が活動を開始したり(両者とも少なからずミュートの “こだま” 和文さんと縁がある)、全く異なる系統から生まれたいわゆる「ジャパレゲ」なるジャンルがもてはやされたりする。日本にはいつの時代でも一定数のレゲエファンがいるのだ。 僕はミュート解散前、ミュート解散後の両方に片方ずつ足を突っ込んでいたが、僕の熱狂あるいは執心とはほとんど無関係に、1989年という年は日本のレゲエ史上の転換期にあたっていたのだと思う。 つくづく思う、レゲエは特殊な音楽だ。その洗礼はあまりに強烈で、レゲエだけが演奏する側にも聴く側にも選択を迫る。レゲエか否か。レゲエに囚われた人に、そのリズムは一生つきまとう。
2016.11.22
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