2026年 3月11日

久保田利伸デビュー40周年!日本にブラックミュージックを根付かせた先駆者の軌跡(前編)

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久保田利伸のベストアルバム「THE BADDEST 〜Son of R&B〜」発売日
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久保田利伸が1986年にデビューして、今年で40周年を迎えた。日本におけるブラックミュージックの第一人者として、40年の間その地位が揺るぐことはなく、いまも後進たちからリスペクトを一身に受け続けている。そのヴィジュアルやパフォーマンスからは、現在63歳という年齢が信じられない。3月11日にはデビュー40周年を記念したベストアルバム『THE BADDEST 〜Son of R&B〜』のリリースが予定されており、そのキャリアを前後編で振り返ってみたい。

作曲家として田原俊彦に提供した「It's BAD」


久保田利伸は1962年静岡県生まれ。1970年代後半のディスコブームの時期に多感な時期を過ごしたことになる。1981年に駒澤大学入学のために上京。大学時代には様々なコンテストに出場したり、時にはメジャーアーティストの作品に顔を出したりしながら、徐々にその名前が知られていったようだ。在学中には、デビュー以降も活動を共にするギタリストの羽田一郎と出会っている。そして、1985年の卒業と同時にプロとしての活動を始めることになる。

久保田は自身がアーティストデビューする前にキティ・アーティスツと契約を結び、作曲家としてデビューしていることはよく知られている。1985年には田原俊彦に「華麗なる賭け」と「It's BAD」を、岩崎宏美に「月光」を提供。中でも「It's BAD」は初期の久保田の代表曲の1つであり、黒いフィーリングのラップを歌謡曲に導入した最初の例として知られている。

この頃、業界を騒がせたデモテープがあった。通称 “すごいぞテープ” と呼ばれたその作品は、久保田がスタジオの空き時間を使わせてもらって制作したものだ。A面にはデビューアルバムに収録される曲のデモが、B面にはカバー曲などが収録されていた。特にすごかったのが、B面の最後に収録されている洋楽のヒット曲メドレーで、その構成力と多重録音の技術は、デビュー前のアーティストとは思えないほどだった。

そしてもう1つ注目すべきは、「It's BAD」の久保田バージョンが収録されていたこと。田原が歌ったものとは別の歌詞がついており、後に久保田自身のパフォーマンスでテレビで披露されたことがある。このテープは趣味で作ったものといわれているが、プロモーションを目的に事務所のバックアップで作られたものと考えた方が自然だろう。

日本における新しいソウルミュージックの先駆けとして認知される


前評判も上々の中、久保田は1986年6月21日にシングル「失意のダウンタウン」でデビュー。当時の音楽シーンはニューミュージックからロックへ移行していこうとする時代だったが、そんな中で久保田の躍動感あるボーカルパフォーマンスは異色だった。『ジャパニーズR&Bディスクガイド』(DUブックス刊 2026年2月10日発売)の中でも1980年代の日本のR&Bシーンの概要について書かせてもらったが、1970年代には踊り場=ディスコ文化があったが、それ以降にはブラックミュージックのシーンなどなかったのだ。

久保田のデビューが絶妙だったのはそのタイミングだ。1985年にアメリカでホイットニー・ヒューストンがデビュー。これによってアメリカでも本格的にブラック・コンテンポラリーの時代に突入する。その翌年にデビューした久保田は、日本における新しいソウルミュージック(当時はまだR&Bという呼び名ではなかった)の先駆けとして認知されることとなる。

しかし、「失意のダウンタウン」やその年の9月にリリースされたファーストアルバム『SHAKE IT PARADISE』には、いわゆるソウルミュージック調の曲はない。特に人気があったのはアルバム収録曲のバラード「Missing」で、シングル曲を差し置いて歌番組などで披露されることもあった。アレンジ次第ではブラコン的なバラードに仕上がる可能性もあったが、ここではポップス的なテイストの仕上がりになっている。




さて、なぜ久保田はソウルミュージック全開の曲を作らなかったのか。これは想像になるが、1つはレコード会社の方針だ。当時の日本ではソウルといっても売りにはならず、よりわかりやすいポップス〜ロック調の曲を求めたことは想像に難くない。もう1つは、久保田自身の音楽性だ。スティーヴィー・ワンダーが好きというその嗜好からは、流行のスタイルに乗るだけではなく、ジャンルすらも飛び越えていこうとするクリエイターとしての自負が見え隠れする。

そもそもブラックミュージックというのは、シンガーとクリエイターが分業になっていることが多く、流行のスタイルにいかに乗っていくかということがヒットの大前提となる。日本でも1990年代以降はそういったスタイルが主流となっていくが、久保田はあくまでもシンガーソングライターのスタイルを貫き通している点で、ブラックミュージックのルールからは逸脱しているのだ。前段が長くなり過ぎた。ここからはアルバムの流れと共に活動を追っていこう。



3枚目のアルバム「Such A Funky Thang!」で初の1位を獲得


シングル「TIMEシャワーに射たれて…」と「GODDESS〜新しい女神〜」に続いて、1987年にセカンドアルバム『GROOVIN'』がリリースされる。楽曲的にはファーストアルバムの路線を受け継いでいるものの、デビュー前からの仲間であるバックバンドの “MOTHER EARTH” が​​担当していることもあり、格段にファンキーな仕上がりになっている。2枚目のアルバムにしてサウンドの主導権を握ったことは驚きだが、さらにシングル曲が収録されていないことも驚きだ。 



なお、MOTHER EARTHのキーボーディストである杉山卓夫はファーストアルバムにおいてもアレンジを担当するなど、バンドのリーダー格といえる人物。そして1986年から加入したもう1人のキーボード、柿崎洋一郎はファンキーサウンドの担い手として、東方神起のバンマスを担当するなど、現在に至るまでセッションミュージシャン界の重鎮として第一線で活躍し続けている。コーラスグループのAMAZONSも、ファーストアルバム『SHAKE IT PARADISE』時のツアーから参加している。



1988年リリースの3枚目のアルバム『Such A Funky Thang!』は初のオリコン1位を獲得した作品。アルバムからのリード曲となった「Dance If You Want It」は、日本で初めてニュージャック・スウィングを取り入れた楽曲で、(一義的には)最初のニュージャック・スウィングであるキース・スウェットの「I Want Her」からちょうど1年後のリリースとなった。この曲はリミックス入りの3曲入りの8センチCDとしてリリースされたが、なぜかミニアルバム扱いだった。これがシングルとしてチャートを上っていれば、日本産のソウルミュージックも違う局面を迎えていたのではないかという気がする。



1988年9月4日には久保田が中心となって、東京ベイNKホールで『NEW BLOOD '88-'89 SPECIAL IN CONCERT』を開催。このライブではGWINKO、MINNIE、AMAZONS、遠藤由美、富樫明生(m.c.A・T)、清水美恵、高橋洋子、ゲストに米米CLUBらが参加。日本のファンキーなミュージシャンが一堂に会する前例のないコンサートとなった。さらに、翌1989年12月には “FUNKA HIPS ALL STARS” と名を変えて、日本武道館でライブを開催。これらのライブは、P-FUNK的な大人数のミュージシャンが入り乱れるステージを目指したものと思われる。1990年にはFUNKA HIPS ALL STARS名義でシングル「OUR SONG」をリリースする。

1989年10月にはアルバム未収録だったシングル曲などをまとめたベスト盤『the BADDEST』をリリース。ここで活動を一段落させたように思えた久保田だったが、1990年には、P-FUNKの総帥、ジョージ・クリントンらが参加し、アメリカ録音となったアルバム『BONGA WANGA』をリリース。これを序章として、より貪欲に自身のルーツを追求し、その音楽性はよりマニアックに発展していく。


後編へ続く

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2026.03.06
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おすすめのボイス≫
1970年生まれ
倉重 誠
記事の内容について1点指摘いたします。
記事の中に以下の記載がございます。

「Dance If You Want It」は~(中略)~なぜかミニアルバム扱いだった。これがシングルとしてチャートを上っていれば

現在のオリコンでは「Dance If You Want It」と,同様にリカットされた「Indigo Waltz」「High Roller」はいずれも【アルバム】扱いですが,1988~89年当時,これら3曲はオリコンチャート上では【シングル】として扱われ,シングルチャートにランクインし,以下の最高位を記録しています。(後年,取り扱いがアルバムに変更されたのですが,その変更の経緯は当方も詳細を把握できておりません)

「Dance If You Want It」 1988年12月5日付 2位
「Indigo Waltz」 1989年2月6日付 6位
「High Roller」 1989年4月3日付 11位

アルバムをあまり聴いていなかった当方は,当時,これらの曲で久保田利伸のスゴさを再認識したりしていましたので,一定のインパクトは与えていたと推察します。ただ,リカットシングルということもあり,売上が大きかったり,ランクインが長かったり,ということにはなりませんでした。先行シングルとして出していたら,また違った評価になっていたかもしれません。
2026/03/08 01:19
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カタリベ
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池上尚志
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