1976年 6月21日

山口百恵の功績とは?それまでのアイドル歌謡になかった理屈抜きのカッコよさ

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1970年代に圧倒的存在感を示した山口百恵


1月17日は山口百恵の誕生日。

彼女は14歳の時(1973年)に「としごろ」(作詞:千家和也、作曲:都倉俊一)でデビューし、1980年に21歳で引退しているから活動期間は約7年ということになる。これだけ見ると10代の若さを売り物にしたアイドル歌手というイメージを持たれるかもしれない。しかし、その若さにもかかわらず山口百恵は1970年代に圧倒的存在感を示して鮮やかな軌跡を描いて駆け抜けた本物のスター(流星)だった。

山口百恵は、70年代初期、天地真理、南沙織などによって生まれたアイドル色の強いコラム女性シンガーのシーンに少し遅れて登場してきたという印象がある。天地真理や南沙織がデビュー時に10代後半から20歳だったのに対して、山口百恵は中学生とはるかに若かった。そして、同じ1973年にデビューした桜田淳子、前年にデビューした森昌子と “花の中三トリオ” としてクローズアップされることになる。

山口百恵がデビューした前後には、アグネス・チャン、太田裕美、浅田美代子、チェリッシュなども登場し、まさに “第一次アイドルブーム” とも言うべき盛り上がりを見せていった。

「横須賀ストーリー」に感じる女性の “意志”


一気に広がっていった女性アイドル歌手シーンにおいて、山口百恵をクローズアップさせるためにとられたのがセカンドシングル「青い果実」(1973年)から打ち出された “幼い性” 路線だった。

年端もいかない少女にあえて “性” を連想させる歌詞を歌わせることで、他の “清純” “可愛い” アイドル歌手とは一線を画した存在感をアピールしようという作戦は功を奏し、「青い果実」「禁じられた遊び」(1973年)「ひと夏の経験」(1974年)などが立て続けにヒットし、山口百恵は脚光を浴びる存在になっていく。しかし、こうした売り出し方には、僕はあまり好感を抱けなかった。

けれど、1976年に発表された「横須賀ストーリー」によって、僕の山口百恵に対するイメージは一変した。

「スモーキン・ブギ」「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」などで一世を風靡していたダウンタウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童が作曲、宇崎のパートナーである阿木耀子が作詞した「横須賀ストーリー」は、ロックのテイストが歌謡曲に持ち込まれたかなり早い例になるんじゃないかとも思う。とにかく、それまでのアイドル歌謡には無かった理屈抜きのカッコよさが強烈に感じられた。楽曲もカッコ良かったけれど、なによりも山口百恵のパフォーマンスが素晴らしかった。



「青い果実」の頃は、無垢な少女が意味も理解せずにきわどい歌詞を歌う(歌わせられる)という倒錯した感覚が目立った(たぶん、それが売りのひとつだった)。けれど「横須賀ストーリー」では、歌に彼女自身の “意志” が感じられたのだ。「横須賀ストーリー」にも性的なニュアンスがあるのだけれど、主人公はあくまでも自分の想いで行動しているし、その行動の結果を受け入れようとする潔さがあった。奔放に見えても、彼女は "流されている” のではなく、明確に自分の意志を持っている。歌謡曲で、これほどしっかりとした主体性を感じさせるヒロインはほとんどいなかったんじゃないか、とも感じた。

それまでの歌謡曲に登場する女性は、あくまで男の仕掛けを “待つ” 存在として描かれていた。洋楽ポップスにおいても “ボーイ・ミーツ・ガール” という言葉に象徴されるように、アクションを起こすのは男とされていた。1970年代になっても、ようやく一部のフォークソングに自分を主張する女性が歌われるようにはなっていたけれど、やはり圧倒的に歌謡曲は “男の願望” で作られていた。

「横須賀ストーリー」に女性の “意志” を感じられたのは、歌詞が女性によって書かれたということも大きかっただろう。阿木耀子はダウンタウン・ブギウギ・バンドでロックの歌詞を手掛けていることもあって、歌詞に女性のリアリティを投影していくという発想が持てたのではないかとも思う。さらに「横須賀ストーリー」というタイトルから、阿木耀子が横須賀市出身の山口百恵と重ねて、どこかドキュメントの匂いがあるキャラクターを想定したのではないかとも想像できる。

宇崎竜童×阿木耀子が磨き上げた女性像とは?


宇崎竜童×阿木耀子が山口百恵に楽曲を初めて提供したのはアルバム『17才のテーマ』(1976年)だが、それはスタッフサイドの意向ではなく山口百恵本人の要望だったという。その時の提供曲に「横須賀ストーリー」も含まれていたが、この曲は次のシングル曲としてキープされたという。この段階から山口百恵と宇崎竜童×阿木耀子との信頼関係が生まれていたのではないかということをうかがわせるエピソードだ。



宇崎竜童×阿木耀子は、「横須賀ストーリー」に続いて「夢先案内人」「イミテーションゴールド」(1977年)、「プレイバックPart 2」(1978年)、「美・サイレント」(1979年)、「ロックンロール・ウィドウ」(1980年)など山口百恵にコンスタントに楽曲を提供し、後期の山口百恵のイメージの軸となるしなやかで凛とした女性像を磨き上げていった。たとえば「プレイバックPart 2」でも描かれているが、男を前にしても一歩も引かずに立ち向かっていくような “アクティブな女性のカッコよさ” は、他の歌謡曲歌手が歌う女性像とは一線を画したものだった。その存在感は当時のロックやニューミュージックのフィールドを見渡しても突き抜けたものだったと思う。

当時、僕は山口百恵のシングル曲ももちろん聴いていたけれど、むしろアルバムをよく聴いていた。なかでも、ロンドン・レコーディングの『GOLDEN FLIGHT』(1977年)、『曼珠沙華』(1978年)、ロサンゼルス・レコーディングの『L.A. Blue』(1979年)などのアルバムは、シングル曲に比べて注目度は低かったけれど、内容的にはシングルの表現をさらに超えた聴きごたえがあった。

だから僕は、後期の山口百恵をどちらかと言えばアルバムアーティストだと思っていた。



山口百恵の吸引力が生んだ名著とは?


この時期の山口百恵が放っていた歌謡曲の範疇に止まらないオーラにはさまざまなフィールドの人が引き寄せられていった。この時期のフィールドを越えた山口百恵の吸引力が生んだ著作の代表が、1979年に出版された平岡正明の『山口百恵は菩薩である』だった。

平岡正明は1960年代から活動している批評家で、新左翼系反体制運動のオーガナイザーでもあった。彼がテーマとしたのは政治的課題だけでなく、文学、映画、音楽などの “文化” から “社会” “政治” との関係性を読み解くなど、その後の “サブカルチャー評論” の先駆け的存在だったとも言えるだろう。

平岡正明が評論の主題として好んで取り上げたのは、文学では筒井康隆を筆頭とするSF小説であり、音楽では山下洋輔をはじめとするジャズだった。そうした時代を切り拓くパワーをもったアーティストに託して時代の文脈を語ってきた平岡正明が、1970年代末という時代を読み解くための象徴として取り上げたのが山口百恵だった。

平岡正明は、山口百恵の生い立ちだけでなく、大衆音楽が社会や時代に対して持つ力や可能性を分析し、その系譜上に山口百恵の楽曲を置き、そこに彼独自の解釈や推論を加味しながら、山口百恵が同時代に果たしている功績を追求していく。そして、その結論として生まれたのが “山口百恵は菩薩である” という歴史に残るフレーズだった。

この本を見た時に、山口百恵の歌手活動を、“菩薩の慈悲” になぞらえる発想は、さすがだと感じたのを覚えている。なによりも、山口百恵が引退を発表する前の、まさに現在進行形の山口百恵の歌から伝わるエモーションを、同時代における “慈悲” と喝破してみせた平岡正明のひらめきは見事なものだと思う。

“山口百恵は菩薩である” という書名は、今となってはかなり大袈裟なレトリックと感じられるかもしれない。けれど、あの時代の山口百恵の歌には、確実にいわゆる “歌謡曲としての楽しさ” を超えるインパクトがあったし、山口百恵本人からも “どこか超越した気高さ” が感じられた。

実際、僕もあの時代にこれほど強烈な存在感をもった “歌謡曲歌手” は山口百恵だけだったんじゃないかと思う。そんなカリスマ的魅力をもった女性に、平岡正明が感性と知的探究心を強烈に刺激されたに違いないことは想像できる。



柳田國男の『妹の力』に示されているように、古来から日本にあった “女性の霊力” に加護されるという信仰は、現代心の奥底にも息づいているのだろう。そして、平岡正明の心の深層に眠っていた “妹の力” への畏敬が、山口百恵によって呼び起こされたとも言えるのではないだろうか。

もちろん、それは山口百恵だけに限ったことではない。時代の中で突出したカリスマをもった女性が登場するたびに繰り返された現象でもあるとも思う。日本の歌謡史で言えば、もちろん美空ひばりにも当てはめることができるだろうし、最近で言えばAKB48現象を巡って、いくつもの論考が社会学者などによって書かれたことなども、同じ流れに置いていいのではないかと思う。

80年代に入って松田聖子、中森明菜らに継承された動きとは?


山口百恵が残した功績について、少しだけ補足しておきたい。

作家として山口百恵の軸となる世界観を構築したのは宇崎竜童×阿木耀子だったけれど、さだまさし(「秋桜」1977年)、谷村新司(「いい日旅立ち」1978年)をはじめ、浜田省吾、丸山圭子、杉真理などのシンガーソングライターが楽曲を提供している。こうした、歌謡曲と新たな音楽の流れを融合させていく動きは、80年代に入って松田聖子、中森明菜らに継承されて広がっていくことになる。



さらに、「横須賀ストーリー」以降に描かれていった “自分の意志で動くヒロイン” 像も、松田聖子、小泉今日子らによって、よりナチュラルな形で発展していったことも指摘しておいていいだろう。

山口百恵は、1980年に三浦友和と結婚して21歳で引退した。

これも古い慣習に流されているように見えて、実は彼女の強い意志が伝わる選択だった。人気絶頂の歌手が引退することはけっして簡単ではない。それがビジネスである以上、周囲の多くの人たちに大きな影響を与えてしまうからだ。しかし、山口百恵は自分の選択を貫き通し、それ以降ほぼ表舞台には登場していない。

こうした “去り際” の鮮やかさも、山口百恵の伝説を印象的なものにしている大きな要素になっているだろう。

そして、山口百恵は歌手としての活動を断ち切ることで、自らが育んだいくつもの “種” を次の時代に届けた。それも彼女の大きな功績だったと思う。

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2023.01.17
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カタリベ
1948年生まれ
前田祥丈
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