1992年 5月5日

本田美奈子「ミス・サイゴン」自らの可能性に挑み続けた “歌手” としての覚悟

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昨今のミュージカルブームの背景にある音楽界の異種交流


近頃ちょっとしたミュージカルブームが起こっていると言われている。たしかにテレビを見れば井上芳雄、山崎育三郎… 番組のMCを務めたり、CMで見かけない日はないぐらい “ミュージカル界のプリンス” と言われる彼らの活躍ぶりが群を抜いている。しかし、市村正親や石丸幹二などドラマや映画にも進出した大ベテランを除けば、普段は舞台を中心に活躍する彼らにこれほどスポットが当たることもなかった。

一方でテレビで活躍し、名が知れた俳優、タレントたちがミュージカルへ出演するケースも増えている。城田優や上白石萌音、萌歌姉妹、高畑充希や大原櫻子といった、こちらはシンガー兼業で、元々高い歌唱力が備わっていることが前提だ。

変わったところでは、お笑いコンビのトレンディエンジェルの斎藤司が見事にオーディションを勝ち抜いて大作『レ・ミゼラブル』のキャストに抜擢されたことも注目を集めた。

また、ここ最近の特徴は、女性アイドルグループの出身者が少なくないという傾向だ。少し思いつくだけでも秋元才加や宮澤佐江、桜井玲香など、中でも特に乃木坂46のセンターを務めたこともある生田絵梨花の起用は話題となり、彼女目当てのファンの来場も多く一部では “生田無双” とか “生ちゃん売れ” などと言われるぐらい、新たなファン層の獲得に貢献しているということである。

彼女たちは、歌えて踊れて、さらに劇場公演に慣れていてアドリブにも強い。そもそも彼らはオーディションを経てその立場を得ているのだからその素養は十分に持ち合わせていてもおかしくないのだ。… が、こうした起用を “集客目的の話題作り” とみる向きも少なくないのは事実だ。人気者ゆえにどうしても “話題先行” という先入観から逃れることはできない。彼女たちはこのような厳しい目に耐えながら、自らの新たな可能性に挑み続けている。

きっと約30年ほど前、同じ道を辿った先駆者の背中を皆追っているに違いないのだ。

ポップシンガー本田美奈子がデビューしたアイドル受難の時代背景


先駆者というのは本田美奈子(正しくは本田美奈子.)のことである。彼女は1985年「殺意のバカンス」でアイドル歌手としてデビュー。以来ロックヴォーカルにも挑み、バンド解散後にはミュージカルに進出。いくつもの作品で主要なキャストを務めて研鑽を重ね、遂にはオペラのアリアなどを含むクラシックアルバムをリリースするに至る。



そんなあらゆるジャンルをブレイクスルーして誰も成し得たことのないキャリアを持つ彼女であったが、2005年11月6日、その才能を惜しまれつつ、病によりこの世を去った。

まだ38歳という若さであり、わずか20年にも満たない輝かしくも短い歌手生命であった。

彼女がデビューした1985年という年はポップシンガーとしては方向性を見出すのが非常に難しい時期であったと思う。以前、このコラムで同年デビューを果たした森川美穂についても触れたが、バラエティアイドルとアーティストがミュージックシーンを席巻して、テレビの歌番組が形骸化してしまい次々と終わっていった頃である。

この時期、歌手としてデビューしたタレントがドラマやバラエティに活躍の場を求めて兼業化していったが、歌うことに強いこだわりがあった彼女にその選択はあり得なかった。本田美奈子と森川美穂、同年デビューの二人の歌唱力は抜きんでていたが、それ故に目指す方向性が定まらなかったといえるだろう。

「殺意のバカンス」も森川の「教室」もアイドルのデビュー曲としてはシリアス過ぎて微妙である。結局、ヤマハ出身の森川はアーティストのサポートを受けて90年代に本格化するJ-POPのムーブメントを捉えることに成功するのだが、キャラクター的に純アイドル的であった本田美奈子は貴重な存在感を放ってこの逆風下で一定の成功を収めてしまう。

本田美奈子は当初、華奢でキュートなルックスが災い(?)したのか、予想外にアイドル稼業が長引いて方向転換はままならなかった。今となっては後に語られたものを読むと理解できるのだが、当時からマドンナなど欧米のアーティストへの心酔ぶりを公言したり、センセーショナルだった「1986年マリリン」でのパフォーマンスも僕ら世代のリスナーにとっては「何でそっちにいくかなぁ…」と、何となくイタい感じがしたものだ。しかしデビューから彼女の信念は一貫していた。

「人と変わったことをやりたい。人と同じことはやりたくない」

その後、彼女はアーティストのサポートを受けるのではなく、自らがアーティストになることを目指してロックバンドを結成するのである。

暗中模索の末のバンド結成、失意の解散… そしてミュージカル「ミス・サイゴン」との出会い


本田美奈子がバンドをスタートさせた1988年当時、ガールズバンドといえばSHOW-YAやプリンセス プリンセス、ソロとしては中村あゆみや白井貴子の活躍もあって、彼女が結成した「WILD CATS」の市場性もあったように思うが、彼女は自らのパフォーマンスだけでなく自身のために作られたバンド運営に限界を感じて、結局2年足らずで解散に至ってしまう。後年彼女はこの頃のことを振り返り目標を見失ってどん底だったと述懐している。



たしか90年頃のことだったと記憶しているが、当時の芸能ニュースで「本田美奈子が中目黒にカラオケスナックを開店」という報道があった。「ああ本田美奈子も守りに入ったか…」と少し寂しい気がしたのを覚えている。この後とんだサプライズが控えていようとは、おそらくは彼女自身ですら予想していなかったのではないだろうか。

僕らが次に目にすることになるニュースは「本田美奈子がミス・サイゴンの主役に決定」というものであった。

この作品が、1987年から帝劇で上演された『レ・ミゼラブル』の次に東宝が手掛ける大作ミュージカルだという事は前評判から知っていた。80年代は劇団四季による大型ミュージカル『キャッツ』(1983年)や『オペラ座の怪人』(1988年)と話題作が続き、日本のミュージカルは大きな転換期を迎えていたのだ。

「しばらく名前を聞かないと思っていたら、本田美奈子ってこんなことやっていたのか!」と勝手に納得して見せたものだが、実際細身で芯が強そうな主人公キムのイメージは彼女にぴったりで、あの体躯に似合わない声量もきっと舞台映えするであろうことは容易に想像ができた。おそらくはそれまで自らの進む道を散々慮った上で、自分自身で導き出した結論であろうと僕らは勝手に想像していたのだが、どうも事情は違ったようである。元よりこれまでドラマに出演することもなくそれを拒み続けた彼女がいきなりの主役抜擢である。

本田美奈子は彼女が実の父親のように信頼を寄せる所属事務所であるボンド企画社長、高杉敬二と旧知の関係にあった東宝のプロデューサーからオーディションへの参加を勧められる。だが演技経験に乏しかった彼女は特にセリフ回しに苦手意識があり、当初はそれを固辞しようとするが、この作品はオペラがベースになっていて歌だけで物語が構成される画期的な作品であることを聞かされて翻意する。歌うことに執着していた彼女も「歌だけなら自分にもできるかも」と次第に意識を変えたのである。

こうして彼女は再デビューともいうべきミュージカルの世界に飛び込むことになる。

ミュージカル俳優 本田美奈子誕生。「ミス・サイゴン」の主役に抜擢


ミュージカルではどんな作品、どんな配役、どんな候補であっても例外なくオーディションで選ばれるフェアな選考を旨としている。

だが見込みがあり可能性が残されている者ほど徹底してその適性が見極められる。その際、現状での完成度は必ずしも重視されない。十分な準備期間があって徹底的に鍛え上げることでモノになる見込みがあれば、あくまで可能性に賭けるという側面があるらしい。

現に『ミス・サイゴン』の主人公のキム役で本田とのダブルキャストを務めた入江加奈子は、デビューすらしていない現役の大学生であった。大切なキャストを話題作りが目的というだけで決めるほどロンドンのキャスティングチームは甘くないのである。

それから上演まで約1年の間 “スクール” と称した徹底した教育とトレーニングが為される。歌やダンスはもちろん、ベトナム戦争の歴史的な背景や世界情勢の知識、人々の暮らしぶりや習慣などの情報が叩き込まれる。本田美奈子も自らベトナムに飛び現地の食べ物や空気感を肌で感じてきたそうだ。そして出演が決まると、序盤のレッスンで自分に足りないものを自覚し、生半可な取り組みではこの大役は務まらないと判断し、以降1年間は他の仕事を一切断ってすべてのエネルギーをこの準備に注ぎ込んだ。

1992年4月に開幕を迎えた時、運命のオーディションから1年半が経過していた。本田美奈子はトップアイドルの座を捨ててロックシンガーに挑んだが、その後紆余曲折あって4年をかけてミュージカル俳優となった。

徹底したトレーニングで歌唱力に磨きをかけ、絶対音域を広げていった。それは上演中の間にも繰り返され、オーディションでは声が裏返って出なかった音域も克服し、やがて千秋楽を迎える頃になると、開演まもない頃は色眼鏡で見ていた批評家や観衆の一部の声はすっかり鳴りを潜めていた。

『ミス・サイゴン』は1年半というロングランを記録し、興行的にも大きな成功を収める。その頃本国のキャスティングチームは本田美奈子を改めてブロードウェーのキャストとして迎えたいというオファーを出したといわれる。ロンドンで上演されていたオリジナルでは初演以来リア・サロンガというフィリピン出身の女優が主演を務め好評を博していたから、アジア系で有望な俳優がいれば是非にという話だったのだろう。

だがそれは実現することはなかった。あくまで一人のシンガー・ボーカリストでありたいと願っていた彼女は、ミュージカルを終えたら、アルバム制作に取り掛かることを望んでいたというのも理由の一つである。研鑽を積み『ミス・サイゴン』で訳詞者の岩谷時子と邂逅を果たした彼女はその世界観に触れ、彼女の下で持てる力を試してみたいと考えた。

岩谷はキャリアの多くを共に過ごしてきた盟友、越路吹雪を失って以来、ポップスの楽曲を手掛けていなかったが、その頃の本田美奈子の姿に往年のスターの影を重ねたに違いない。彼女はキャリアの晩年の代表曲となる「つばさ」を本田に贈り、アルバム『JUNCTION』のプロデュースに尽力する。



「誰もやらないようなことをしたい」大谷翔平、本田美奈子の共通点


ミュージカル俳優としての地位を固めつつあった彼女には一つの作品を終える頃には既に次のオファーが舞い込むようになっていた。次作『屋根の上のバイオリン弾き』では苦手としていたセリフ回しを克服し、『王様と私』ではクラシックの発声法を駆使してソプラノの難曲に挑んだ。こうしてミュージカルにのめり込みつつ、自らの限界に挑み、その後リリースされるオリジナルアルバムの制作は続けられた。そしてそれはやがて初のクラシックアルバムとなる『AVE MARIA(アヴェマリア)』のリリースへとつながっていく。日本ではおそらく初となるであろう本格的なクラシカル・クロスオーバーのアルバムがリリースされたのである。



彼女はその大きな転機となったミュージカルへの挑戦に際して、当時のインタビューで「世間の人は自分の取り組みをキャリアの “やり直し” と捉えるかもしれない」と語った。だが彼女自身、過去に無駄だったものなど何一つなく、すべての経験が自分の糧となって蓄積されているのだという考えを述べていた。クラシック出身以外でのクラシカル・クロスオーバーといえば、引き合いに出されるのはサラ・ブライトマンぐらいだろう。今なら藤澤ノリマサと平原綾香の歌には近いものを感じることができる。

本田美奈子の功績を考えた時、彼女なら日本のサラ・ブライトマンに成り得ただろうと思うことはあるが、果たしてそれはどれだけの価値があるのだろうか。その答えはメジャーリーガー大谷翔平が教えてくれている。彼はその二刀流での成功について問われるといつも判で押したようにこう答える。

「自分でやってきたことが、決してすごいとは思いません。ただ過去にそれをやろうという人が居なかっただけじゃないですか」

―― と。

「誰もやらないようなことをしたい」

本田美奈子はアイドルだった時代からそう言い続けてここまで歌にこだわってきたからこそ、ミュージカルスターとして自らの適性を開眼させ、アーティストとしてさらなる高みを目指した。本田美奈子もまた、大谷翔平と同じように、「誰もやらないこと」を非常識と捉えずにひたむきに取り組んだからこそ、後進に大きな道筋を作った。今もこの道の上で、幾人もの明日のスターが本田美奈子という先駆者の背中を追いかけている。



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2022.11.06
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カタリベ
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