1985年デビュー、ひときわ輝いていた本田美奈子
アイドル好きの間ではよく知られていることだが、1985年デビューの新人たちは有名な豊作年の1982年に勝るとも劣らない秀でたメンバーが顔を揃えていた。歴代スケバン刑事となった斉藤由貴、南野陽子、浅香唯のほか、中山美穂、芳本美代子、井森美幸、森口博子、そしておニャン子クラブ。その中でひときわ輝いていたのが本田美奈子である。
90年代に入ってからミュージカル女優として開眼し、『ミス・サイゴン』のヒロイン、キム役や『レ・ミゼラブル』のエポニーヌ役を務め、その後クラシックに傾倒してソブラノ唱法で歌われた「AVE MARIA」なども高い評価を得た。けれども、個人的には80年代までのアイドル時代が圧倒的な魅力に溢れていたと思っている。ただし1988年に結成されたバンド “MINAKO with WILD CATS” での一年ほどの活動は、ロックが苦手な自分にはちょっとつらい期間だったけれども…。
アイドル時代、何度かあった生歌を聴く機会には、その歌唱力に圧倒された。普段は無邪気な振舞いで、周りのスタッフにすべてを委ね、自分では何も出来ないし分からないといった素振りを見せているのに、いざマイクを持つと別人格が乗り移ったようにしっかりした面持ちになり、素晴らしい歌声を聴かせてくれる様子に驚かされた。デビュー曲に決まっていたという「好きと言いなさい」に自ら異を唱え、積極的なアプローチの結果、「殺意のバカンス」でのデビューになったという有名なエピソード(結局「好きと言いなさい」はセカンドシングルとしてリリース)が彼女の芯の強さを象徴している。
新人賞を総なめ、人気を決定づけた「1986年のマリリン」
本田美奈子は1967年7月31日、東京都に生まれ、葛飾区から埼玉県朝霞市へ転居して幼少期からほとんどを過ごした。歌手を目指して1982年に『スター誕生!』第44回決戦大会に出場するもスカウトされるには至らず、1983年に高校に進学。翌年出場した『第8回長崎歌謡祭』でグランプリを受賞したのがデビューの直接のきっかけとなり、1985年4月20日に東芝EMI から念願のデビューを果たしたのだった。
さらに、『メガロポリス歌謡祭』の最優秀新人ダイヤモンド賞、『日本歌謡大賞』の放送音楽新人賞を受賞した後、12月には早くも日本武道館でコンサート『ザ・ヴァージンライヴ』が開催され、さらに同月には『FNS歌謡祭』で最優秀新人賞を受賞、大晦日の『日本レコード大賞』で新人賞を受賞するなど破竹の勢いを示した。
全国区となる人気を決定づけたのは、1986年2月に出された5枚目のシングル「1986年のマリリン」のヒットだろう。腹部を露出した衣装で激しく腰を振りながら歌い踊る姿は、他のアイドルとは明らかに一線を画していた。アイドルと呼ばれることを好ましく思っていなかったらしい当時の彼女にとって、最高の楽曲であったことは確かである。だからこそ、同年のシングル「the Cross-愛の十字架-」はゲイリー・ムーアが楽曲提供したり、後の WILD CATS へと発展してゆくわけだが、その間にテレビドラマ『パパはニュースキャスター』の主題歌に採用された「Oneway Generation」の様な、万人に支持される曲も登場している。
虚像ではない本田美奈子、望まれれば “そこも勝負の場”
可憐であどけない表情も見せていた少女の頃には、華奢な体で水着グラビアなどにも果敢に挑んでいた。当時のアイドルの定番だったとはいえ、最初から強い意志を持って芸能界に臨んだ彼女にとって、望まれれば “そこも勝負の場” と真剣に対峙したであろうことは想像に難くない。その頃出されたいくつかの写真集で見られる彼女の表情は迷いがなくて本当に美しい。果物を持って微笑むいかにもアイドルらしい姿からも、決して虚像ではない本田美奈子の一番可愛らしい部分の本質を見ることが出来るのだ。
公式に反するのかもしれないが、自分としては本田美奈子の名前の後には「.」は付けたくない。未来を拓くどころか悲しい出来事を引き寄せてしまった姓名判断がいかに意味のないものだったかの負の証明となってしまったから。この稿もあくまでも「本田美奈子」のことを書いている。自分より後に生まれたのに先に逝ってしまった人たちには特別な想いがある。今もこの世にいて欲しかったと思う本当に数少ない人間のひとりだ。ちなみに自分が好きな本田美奈子の楽曲ベスト3はずっと変わらず「好きと言いなさい」「Temptation(誘惑)」「Oneway Generation」なのであります。
※2019年11月6日に掲載された記事をアップデート
2020.07.22