遅咲きのシンガーソングライター、ハワード・ジョーンズ
ハワード・ジョーンズの「悲しき願い(No One Is to Blame)」は、いくら求めても手が届かないことや、どんなに願っても叶わない想いを綴った歌だ。1986年の夏、ラジオから流れてきたこの曲の儚さに、胸を打たれたことを覚えている。
ハワード・ジョーンズといえば、奇抜なヘアスタイルとシンセサイザーを多用したサウンドから、ポップスターのイメージが強いかもしれない。けれど、同時に骨格のしっかりしたメロディーが書ける優れたシンガーソングライターでもあった。デビューも28歳と遅く、僕はそんな彼のどこか落ち着いた佇まいが好きだった。
「悲しき願い」テーマは“誰のせいでもない”
淋しげなメロディーにのせて、ハワード・ジョーンズは歌う。「メニューを見ることはできても、何も食べられない」、「プールに足を浸たすことはできても、泳がせてはもらえない」、「まるで罰を受けているみたいだと思うかもしれないね。何も罪など犯していないのに」。
歌はつづく。「マンションを建てることはできるけど、君がそこに住むことはない」、「君は誰よりも速く走れるけれど、勝つことは許されない」、「パズルの最後のピースはあっても、君がそれをはめ込むことはできない」
人生は思い通りにいかないことばかりだ。大切なものは損なわれ、かすめ取られ、踏みにじられていく。幾多の希望が、まるで砂のように指の間からこぼれ落ち、自分を置き去りにしていく。それでも僕らは何かを求めることを繰り返す。
そして、君は彼女を求めているし
彼女も君を求めている
僕らは誰かを求めている
そう、君は彼女を求めているし
彼女も君を求めている
誰も 誰も
誰も責めることなどできない
誰も責めることなどできない。つまり、誰のせいでもない。それがこの歌のテーマだ。そうやって僕らは自分を慰め、現実を受け入れていく。受け入れることで、また歩き出すことができる。
尾崎豊追悼アルバムのタイトルに使われた「No One Is to Blame」
僕がこの曲と再会したのは、1992年の秋だった。その年の春に尾崎豊が急死し、彼のツアーバンドがリリースした追悼アルバムのタイトルに、この曲の原題 “No One Is to Blame” が使われていたのだ。
大学の先輩に頼んでCDを貸してもらった。曲はアルバムのラストに収録されていた。胸を打つ美しい演奏だった。前年のツアーではオープニングに使われていたことを知り、これはバンドから尾崎豊へのレクイエムなのだろうなと思った。尾崎はニューヨークで暮らしていた頃に、よくこの曲を聴いていたという。おそらく何か胸に響くものがあったのだろう。
誰も 誰も
誰も責めることなどできない
生きていればうまくいかないことだってあるし、それは仕方のないことだ。挫けて、嘆いて、そこからまた歩き出せばいい。それは誰のせいでもないのだから。
※2018年1月17日に掲載された記事のタイトルと見出しを変更
2021.03.15