1994年 8月31日

渋谷系最大のヒット「LIFE」小沢健二は時代のど真ん中にいて震えるほどカッコよかった

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■ 小沢健二「LIFE」
発売:1994年8月31日


オマージュによって、その “スタイル” が継承された「琳派」


江戸時代の日本絵画の流派の一つに「琳派(りんぱ)」がある。

「琳派」とは、江戸時代の初期に俵屋宗達によって創始され、江戸中期の尾形光琳の手で発展し、後期の酒井抱一の時代に完成を見た流派である。大和絵の伝統を基盤としながら大胆な構図を取り入れたり、「たらしこみ」と言われる今日で言うグラデーションの技法を編み出したり、それまで特権階級の御用文化(狩野派=幕府がパトロン、土佐派=宮廷がパトロン)だった芸術を、広く町人も親しめる大衆文化へと開放した。欧州の印象派にも影響を与えたと言われる。

そんな琳派の最大の特色が、他の流派が世襲による継承だったのに対し、私淑―― 今日で言うオマージュによって、その “スタイル” が継承された点。オマージュ元と継承者の間に直接的な師弟関係はなく、時代も違った。宗達と光琳の間には70年、光琳と抱一の間には100年もの時差があった。更に言えば、そのオマージュは単純なトレースではなく、新しい解釈が加えられたり、再構築されるのが常。例えば、宗達が描いた『風神雷神図』は後に光琳、更には抱一にも模写されるが、三作品は微妙に趣が異なる。それも琳派の持ち味だった。

僕は、そんな琳派の成り立ちを見て、ふと、思い当たる節があった。―― 1990年代の音楽界で異彩を放った “渋谷系” である。フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴらに代表される系譜で語られる彼らは、まさに時代を超えて先人たちへのオマージュが深く、それらをトレースしつつも新しい解釈と再構築が持ち味だった。何よりメロディにおけるポピュラリティ(大衆性)が明解だった。

また、「琳派」というワードが、当人たちは用いず、後世の人々によって名付けられたように、「渋谷系」も周囲の人々によってカテゴライズされ、むしろ当人たちはその名称に戸惑った点も、両者に同じ匂いを感じる。

「琳派」とも言える渋谷系最大のヒット、小沢健二「LIFE」


さて―― そんな現代の琳派とも言える「渋谷系」にとって、最大のヒット作が今回のテーマ。今から29年前の今日、1994年8月31日に発売され、96年にかけて50万枚以上のロングヒットとなった稀代の名盤、小沢健二のセカンド・アルバム『LIFE』である。

 とおり雨がコンクリートを染めてゆくのさ
 僕らの心の中へも侵みこむようさ
 この通りの向こう側 水をはねて誰か走る

アルバムのリード曲は、先行シングルカットされた「愛し愛されて生きるのさ」である。歌い出しから耳に馴染むメロディは、あのゴダイゴの「銀河鉄道999」のサビがモチーフになったとも。言うまでもなく、エンタメにおけるクリエイティブとは、0から1を生む作業ではなく、1を2や3にアップグレードする作業。優れた過去作品にインスパイアされ、それと分かるように再構築するのは、何ら問題ない。



もっとも、小沢健二―― オザケンの楽曲作りにおけるオマージュの醍醐味は、「999」のような誰もが知る楽曲よりも、一般には知られていない楽曲から、あるパートを引用・再構築して、リスナーに元ネタを探してもらうところにある。

例えば、同曲の間奏に入る台詞――“家族や友人たちと 並木道を歩くように~” にも元ネタがあり、イギリスのネオアコのグループ「Pacific」の名曲「Barnoon Hill」の冒頭に流れる日本人女性が語る詩 “家族と友人たちへ たとえ月日が流れ去っても~” がそう。ちゃんと元ネタと分かるように、アタマのフレーズを合わせているあたり、オザケンなりのウィットと元ネタへのオマージュが見える。

かように、アルバム『LIFE』は渋谷系の総本山のごとく、オマージュの宝庫なのだけど(褒めてます)、詳しい楽曲解説は後でするとして、まずは、そこへ至るオザケンのパーソナリティから紐解きたいと思う。そして、本コラムのサブテーマである「新・黄金の6年間」とオザケンとの親和性も合わせて言及したい。

ちなみに、新・黄金の6年間とは、バブル崩壊後の1993年から98年までの6年間を指し、当時、エンタメ界を中心に新しい才能たちが次々とビッグヒットを放った現象を、僕はそう呼んでいる。キーワードは「スモール」、「フロンティア」、「ポピュラリティ」―― 彼らは、比較的小回りの利くチームで動き、新しい開拓地を求め、直接大衆に語りかけた。

“名家” で育ったオザケン少年、小山田圭吾との出会い


さて―― そこで小沢健二である。

生まれは1968年、神奈川県相模原市の出身。父はドイツ文学者の小澤俊夫、叔父に “世界の小澤” こと指揮者の小澤征爾がいる。父方の祖父に戦前の民族主義者の巨人・小澤開作もいる。一方、母は心理学者の小沢牧子で、母方の親族は経済界の名門・下河辺家である。まぁ、早い話がいいとこのおぼっちゃんだ。

この辺のネタは、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ系)にオザケンが初登場(1994年12月12日)した際のダウンタウンとの座りトークで、「トイレが家に3つしかない」とか「書庫がある」等々、当時バズった話題なので、覚えている人も多いだろう。

そんな “名家” で育ったオザケン少年は、小学校時代から秀才で鳴らし、中学は私立の名門・和光中学へ進んだ。ここで同級の小山田圭吾―― 小山田クンと出会う。だが、当時はそれほど話す間柄ではなく、2人が接近するのは、オザケンが神奈川県立多摩高校へ、小山田クンが和光高校へ進学した後。共に西新宿の小滝橋通りの中古レコード屋街(80年代の中古レコード屋と言えばこの一帯でした)に通ううち、互いに音楽の趣味が似ていることで意気投合した。

2人の天才を擁するフリッパーズ・ギター


そして、オザケンは一浪した後、東京大学の文科三類(文学部)に合格する。そのタイミングで小山田クンからバンドに誘われ、加入したのが「ロリポップ・ソニック」―― 後のフリッパーズ・ギターである。1980年代のイギリスの “ネオアコ” をオマージュした音作りが同バンドの持ち味だった。当初は5人組の編成だったが、89年8月にファーストアルバム『three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった』でメジャーデビューした直後、オザケンと小山田クンの2人組の編成に――。



当時、この5人から2人になった経緯が色々と取り沙汰されたけど、冷静に考えてほしい。バンドの中に小沢健二と小山田圭吾がいるのだ。どちらか1人じゃなく、2人も天才がいたのだ(笑)。まぁ、自然とそうなったと考えるのが妥当だろう。事実、当初から曲作りは全てこの2人で行い、ライブもロリポップ・ソニック時代から、お客のほとんどは2人目当てだったと聞く。選択と集中、そういうことである。

1991年9月、フリッパーズ・ギターはサードアルバム『DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-』を発表した直後、ツアーを残して、突然解散する(正式発表は10月)。業界関係者は騒然となったが、オザケンと小山田クンの2人にとっては必然だったのだろう。ちなみに、「新・黄金の6年間」で言えば、90年代初頭にバブルが崩壊して、エンタメ界で色々なことがリセットされる中、レコード会社主導の時代から、より小回りの利くプロデューサーやアーティスト主導の新時代へのターニングポイントが、この少しあと。2人は時代の変化をいち早く読んでいたのかもしれない。

ただ、フリッパーズ・ギターが残した3枚のアルバムは、後世に大きな影響を及ぼすことになる。それが―― “渋谷系” だった。耳馴染みの良いポップなメロディ、リアルとセンスの塊のような詞、そして宝探しのように過去の作品から引用(サンプリング)して、オマージュを前面に出したクリエイティブワーク――。元ネタを探すファンとのやりとりも、彼らは楽しんだ。更には、ファッションを始め、プロモーションビデオやCDジャケットなどのアートワークも脚光を浴びた。

渋谷独自の音楽文化、渋谷系の誕生と小沢健二のソロデビュー


諸説あるが、渋谷系なるワードが登場するのは、1992年あたりと言われる。旗艦となったのはHMV渋谷店だ。かの店の邦楽売場で、解散したフリッパーズ・ギターを始め、ピチカート・ファイヴ、ORIGINAL LOVE、東京スカパラダイスオーケストラ、スチャダラパーといった面々をフィーチャーしたところ―― 来店する若者たちが即座に反応。その波は共鳴するように渋谷の他のレコード店にも広がり、やがて渋谷独自の音楽文化を形成する―― 渋谷系の誕生である。

その当時、当のオザケンは何をしていたかと言うと、本人曰く、友人であるスチャダラパーの3人と毎夜、青山や渋谷あたりのクラブに出かけては、酒と音楽に浸っていたという。だが、そんな何をするでもない夜から2年後―― “♪ダンスフロアーに華やかな光 僕をそっと包むよなハーモニー” と、あの日々を歌った彼らのコラボ曲「今夜はブギー・バック」が生まれる。

1993年7月21日、オザケンは朝日新聞(夕刊)に全面広告で「小沢健二ソロ・デビュー」とぶち上げ、シングル「天気読み」をリリースする。あのフリッパーズ・ギターの突然の解散から1年10ヶ月―― そのド派手な登場に世間は驚いた。続いて、9月にはファーストアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』を発売する。



しかし―― それらは音楽的には一定の評価を受けるも、かつてのフリッパーズの音楽を期待したファン層からは、そのシンプルな旋律とダウナーな空気感に、やや戸惑いも見られるという結果に。一方、同じ時期に小山田クンもソロユニット「Cornelius」(コーネリアス)として「THE SUN IS MY ENEMY 太陽は僕の敵」でソロデビュー。こちらはかつてのフリッパーズを思わせるポップなメロディで、従来のファンからは歓迎される。

この意図せずして、同じ時期にソロデビューするあたり、バイオリズムというか、かつて “二卵性双生児” と言われた彼ららしいエピソードだが、その対照的な作風に、フリッパーズ・ギターに対する互いのスタンスの違いが垣間見えて、ちょっと面白い。もっと言えば、結果的に2人がソロとしてブレイクするのは、このデビュー時のスタンスから更に真逆の―― オザケンはポップに回帰し、小山田クンはアバンギャルドな作風に移行してからというのも面白い。

50万枚以上の大ヒットを記録した「今夜はブギー・バック」


少々前置きが長くなったが(長すぎる!)、いよいよ本コラムのテーマであるオザケンのセカンドアルバム『LIFE』の話である。先にも記した通り、発売は今から29年前の1994年8月31日―― ファーストアルバムの11ヶ月後だったが、重要なのは、その間にリリース(1994年3月9日)された、例のスチャダラパーとコラボしたシングル「今夜はブギー・バック」の存在である。なんと、50万枚以上の大ヒット。世間一般に “小沢健二” が見つかるのはこのタイミングだ。



僕は、この「今夜はブギー・バック」こそ、音楽史におけるサブカルとメインカルチャーが逆転したターニングポイントだったと思う。それ以前―― 80年代末からのバンドブームにしろ、フリッパーズ・ギターにしろ、渋谷系にしろ、サブカルの扱いだった。彼らは深夜番組には出ても、ゴールデンの番組には呼ばれなかった。スマッシュヒットしても、セールス的には数万枚に過ぎなかった。渋谷系で騒いでいるのは10代と20代の若者たちだけだった。

それが、「ブギー・バック」の大ヒットで世間の風景が変わった。僕は、同曲のブレイクは、楽曲の良さもさることながら、時代の変化の波に上手く乗れたのが大きかったと思う。つまり、「新・黄金の6年間」で言うところの「ポピュラリティ」―― “大衆(お茶の間)” が、この辺りのタイミングで世代交代したのではないかと、僕は見ている。

分かりやすく言えば、それまで一家のテレビのチャンネル権はお父さんにあり、若者や子供たちは親の目を盗んでは、時々、フジテレビや深夜番組を見ていたのが、この辺りのタイミングでテレビが一家に一台から一部屋に一台となり―― 若い世代がチャンネル権を手に入れたのだ。そうなると、ドラマは恋愛ものが増え、フジテレビの専売特許だった若者向けバラエティも他局が追随するようになり―― 気が付けば、テレビは恋愛ドラマとバラエティばかりと、オールフジテレビ化する。

「今夜はブギー・バック」はそのタイミングで売れたのだ。ちなみに、同曲は『タモリのスーパーボキャブラ天国』(フジテレビ系)のテーマソングにもなった。オザケンとスチャダラパーの名も大衆(お茶の間)の知るところとなり、そんな時代の変化を肌で感じたオザケンが、ファーストアルバムから急遽、路線変更したのが『LIFE』だったのではないか。

自分たちの世代のクリエイティビティを、正面から堂々と売る―― 例えて言えば、それまで肉屋の片隅でこだわりのコロッケを馴染みの客だけに売っていたのを、堂々とコロッケ屋の看板を掲げて、商店街の客全員に向けて売る―― そんな心境だったのではないか。

「A LONG VACATION」にも近い動機で作られた「LIFE」


とにかく “売れるアルバムを作る”―― ある意味、大滝詠一の『A LONG VACATION』にも近い動機で作られた『LIFE』は、かつてのフリッパーズ・ギター同様、耳馴染みの良いポップミュージックで彩られた。いわゆるポップスの黄金時代である―― 60〜70年代のアメリカンポップスやモータウン、オーケストレーション、ソウル、ディスコミュージック等々へのオマージュからサンプリングが施されたのである。

例えば――
■「ラブリー」~Betty Wright「Clean Up Woman」より
■「ぼくらが旅に出る理由」~ポール・サイモン「You Can Call Me Al」「Late in the Evening」より
■「ドアをノックするのは誰だ?」~ジャクソン5「I Will Find a Way」より
■「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」~WAR「Smile Happy」、Dr. Buzzard's Original Savannah Band「Sunshower」より

もちろん、これまでも繰り返し述べてきたように、エンタメにおけるクリエイティブとは、0から1を生み出すものではない。優れた旧作を掘り起こし、1を2や3にアップグレードする作業である。元ネタがそれと分かるよう、巧妙にサンプリングされた楽曲たちは、オザケンの100%のクリエイティブと捉えて、何ら問題はない。

―― とはいえ、ここまでの手法なら、フリッパーズ時代とさして変わりない。オザケンはこれに、時代の変化を読み取り、大衆に受け入れられる、ある “魔法” を施した。それが――“ベタ” である。気取らず、斜に構えず、社会を語らず、小難しい英語に逃げず、アーティストぶらず――。ある意味、それらはすべてフリッパーズ・ギター時代の真逆の要素とも。そう、ここへ至り、オザケンはそれが最も自分らしいという境地に至ったのだ。かくして、全曲ハッピーな世界観で彩られた、ご機嫌な一枚に仕上がった。

そう、「ラブリー」はどこまでも甘く、聴くほどにハイになるし、「ドアをノックするのは誰だ?」は ”♪マークはずす飛びこみで僕はサッと奪いさる” の歌詞に毎回クスッとするし、「ぼくらが旅に出る理由」は遠距離恋愛なのに、やたら勇気をもらえるし、全編を通してリアルな東京の情景が浮かび、なぜか僕らは秋から冬にかけての季節を連想した。

 それで LIFE IS COMIN' BACK 僕らを待つ
 OH BABY LOVELY LOVELY こんなすてきなデイズ
 世界に向かってハローなんつって手を振る
 OH BABY LOVELY LOVELY 気嫌無敵なデイズ



あの時代―― テレビのゴールデンタイムで、ベタベタな歌詞の「ラブリー」を独特の手の振りで歌うオザケンは間違いなく時代のど真ん中にいて、震えるほどカッコよかった。

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2023.08.31
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カタリベ
1967年生まれ
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