連載【新・黄金の6年間 1993-1998】vol.30
夏色 / ゆず
▶ 作詞:北川悠仁
▶ 作曲:北川悠仁
▶ 編曲:ゆず&寺岡呼人
▶ 発売:1998年6月3日
デビューのきっかけは路上ライブ
彼もまた、ハマっ子である。
彼とは―― レコード会社、TOY'S FACTORYの代表取締役CEOの稲葉貢一サンのことである。フォークデュオ “ゆず” が所属する音楽事務所、セーニャの代表者でもある。まだ、ゆずの2人が横浜・伊勢佐木町の横浜松坂屋(当時)の前で路上ライブをしていたころ―― 社長の彼自ら、2人をスカウトしたエピソードでも知られる。
言うまでもなく、ゆずの2人―― 北川悠仁と岩沢厚治も共にハマっ子だ。彼らは小・中と横浜市磯子区の同じ学校に通い、中学3年で初めて同じクラスになった。高校は別々の学校に進学するが、高校卒業後に再会して “ゆず" を結成。その1年後―― 前述の路上ライブをしていたところを、たまたま通りかかったTOY'S FACTORY社長の稲葉サンの目に止まり、デモテープを渡したことがキッカケでデビューに至った。
ゆずは最初から出来上がっていた
そう、今日6月3日は、今から26年前の1998年に、ゆずが一躍ブレイクしたファーストシングル「夏色」をリリースした記念すべき日にあたる。そして26年後の今も、同曲はコンサートでラス前に必ず歌われ、ファンの「もう1回!」の掛け声と共に、最も盛り上がる定番曲になっている。
駐車場のネコはアクビをしながら
今日も一日を過ごしてゆく
何も変わらない 穏やかな街並み
驚くべきことに、ゆずが稲葉サンにスカウトされた時、2人はライブハウスの経験もなければ、プロのミュージシャンになりたいとも思っていなかった。つまり、今日のゆずがあるのは、声をかけた稲葉サンのおかげとも。とはいえ、当時の2人の実力がまだプロのレベルに達していなかったかというと、そんなことはなく、稲葉サンは彼らに出会った瞬間、すぐにデビューへの思いに至ったそう。曰く「ゆずは最初から出来上がっていた」――。
実際、女優やアイドルも、自薦(自分からオーディション等に応募)と他薦(スカウト等)を比べると、むしろ後者のほうが逸材を輩出しているとも言われる。例えば、今をときめく北川景子、広瀬すず、永野芽衣、今田美桜、吉高由里子、二階堂ふみ、広瀬アリス、本田翼、中条あやみらトップ女優たちは、自薦ではなく、他薦でこの世界に入った面々である。
音楽業界の風雲児として急成長したTOY'S FACTORY
では、何ゆえ稲葉サンはライブハウス経験もない、ゆずの潜在力をあの時点で見抜けたのか。それは、そこに至るまでの稲葉サンの音楽人生を振り返ると、自ずと俯瞰できるかもしれない。生まれは1959年、横浜市である。お父様は日本ジャズ界のレジェンドの1人、ジャズベーシストの稲葉国光さんで、幼少期から音楽が身近にある存在だった。
当時の横浜は米軍基地の街でもあり、父・国光さんの仕事も米軍の将校クラブが中心だった。その後、日野皓正クインテットのベーシストとして活躍するようになると、一家で東京・杉並へ。稲葉サンは日大二高から日大へ進み、卒業後は、1981年に設立されたばかりの日本テレビ系のレコード会社、バップに入社する。そしてキャリアを積んで80年代半ばからは、LAUGHIN' NOSEを皮切りに、JUN SKY WALKER(S)や筋肉少女帯などを発掘。88年には自ら社内レーベル、TOY'S FACTORYを立ち上げ、バンドブームを牽引する。
90年、かねてより “A&R”(アーティスト・アンド・レパートリー)=アーティストの発掘から制作・宣伝までを担うスタイルを模索していた稲葉サンは、会社(バップ)の勧めもあり、TOY'S FACTORYと共に独立する。そこからインディーズ時代のミスチル(Mr.Children)を発掘して、小林武史サンをプロデューサーに迎えてデビューさせたり、日本テレビの『THE夜もヒッパレ』に出演していたライジング所属の4人の女の子に目をつけて、伊秩弘将サンをプロデューサーに据えてSPEEDとしてデビューさせたりと、TOY'Sは音楽業界の風雲児として急成長する。
稲葉サンがゆずの2人と出会ったのは、まさにそのタイミングだった。ここに至る流れを見ると、彼にダイヤの原石を見つける審美眼が備わっていることに異議を唱える人はいないだろう。とはいえ、予想を超えて会社が急成長したこともあり、稲葉サンはアーティストと二人三脚で歩む理想のA&Rを取り戻したいと、ゆずの2人については 音楽事務所を新たに立ち上げた。セーニャ・アンド・カンパニー(現:セーニャ)である。
1996年3月、ゆず誕生
ここで、ゆずの2人の生い立ちも簡単に記しておこう。前述の通り、横浜市磯子区で小中と同じ学校に通った2人は、中学3年で初めて同じクラスになり、親友になった。音楽に目覚めたのも共に中学時代で、岩沢サンが中1の誕生日に父親からもらったギター、北川サンは年の離れた兄の使っていたドラムセットを叩いたのがキッカケだった。
高校は別々の学校に進学して、一旦2人は離れる。高校卒業後、北川サンは役者の道を志し、一方の岩沢サンは音楽の専門学校へ。そんなある日、北川サンが、伊勢佐木町の路上で弾き語りをする岩沢サンを見かけて、2人は劇的な再会を果たす。それを機に、北川サンは岩沢サンのバンドにドラマーとして加入して、なんと他の2人のバンドメンバーには内緒で、岩沢サンにデュオの結成を持ち掛ける―― 時に1996年3月、後の “ゆず” の誕生である。
それから2人は、不定期に伊勢佐木町で路上ライブをするようになった。そのうちバンドが解散して、2人だけが残って “ゆず” の活動に専念する。しかし、97年3月、岩沢サンは専門学校を卒業、一方の北川サンも役者業が安定せず、2人とも人生の岐路に立っていた。そのタイミングで彼らに声をかけたのが、前述の稲葉サンだった。
稲葉サンの行動は早かった。自身の原点であるA&Rの活動がしやすいように、前述のゆずの音楽事務所を立ち上げ、2人には不定期演奏ではなく、ファンが付きやすいように毎週決まった日時と場所で演奏するように伝えた。件の毎週日曜夜10時の横浜松坂屋前の路上ライブがルーティン化するのは、そこからである。そして稲葉サンは、FM802やスペースシャワーTVといった感度の高い媒体に声をかけて、路上ライブを見に来てもらった。その効果は絶大で、口コミも手伝い、定例の路上ライブは週を追うごとに観客が増えていった。
プロデューサーはジュンスカ時代から懇意にしていた寺岡呼人
それからインディーズアルバムを出すにあたって、稲葉サンはプロデューサーを連れてきた。ジュンスカ時代から懇意にする寺岡呼人サンである。1997年8月31日―― この日、アルバムに収録するために、定例の路上ライブにレコーディング用のマイクが置かれた。そして同年10月25日、ゆずにとっての初のアルバム『ゆずの素』が発売される。全7曲中5曲を岩沢サンが作り、1曲を北川サン、残る1曲は2人の共作だった。
さらに、翌98年2月21日―― ゆずにとってメジャーデビューとなるアルバム『ゆずマン』がリリースされる。今度はスタジオで録音され、全7曲中5曲を岩沢サン、2曲を北川サンが手掛け、全アレンジをプロデューサーの寺岡呼人サンが担った。同年3月3日には初のワンマンライブが渋谷公園通り劇場で開催され、4月6日には初の全国ネットの冠ラジオ『ゆずのオールナイトニッポンR』(ニッポン放送)が始まった。4月29日から初の全国路上ライブサーキットもスタートした。
舞台は整いつつあった。この頃になると、ゆずの2人は音楽好きの若者たちの間でカルト的な人気を帯び、定例の路上ライブも立錐の余地のない状況になりつつあった。あとは、打ち上げ花火のようなヒット曲を待つだけだった。そう、稲葉サンはこの時を待っていた。同年6月3日、満を持してファーストシングル「夏色」をリリース。作詞・作曲:北川悠仁。定例の路上ライブでは、ややスローなアコースティック調のナンバーだったが、寺岡呼人サンのアレンジでバンド編成のポップチューンに生まれ変わった。
この長い長い下り坂を
君を自転車の後ろに乗せて
ブレーキいっぱい握りしめて
ゆっくりゆっくり下ってく
文字通り夏にかけてロングヒット
耳馴染みのよいメロディに等身大の歌詞、そして岩沢サンのハイトーンボイスに2人の爽やかなハーモニー。海辺で無邪気に戯れる2人のミュージックビデオとも相まって、同曲は文字通り夏にかけてロングヒット。ゆずを一躍全国区にした。それは、“坂の多い街” ―― 横浜のソウルソングでもあった。そう、ゆずの2人ばかりか、同じくハマっ子の稲葉貢一サンの原点の地でもあった。そして、70年代に流行った “フォークデュオ” は、90年代には一周回って新しさがあった。そう、時代は回る――。
メジャーデビュー前、ゆずを音楽面からリードしたのは岩沢サンだった。高い音楽性と抜群の歌唱力―― しかし、シングルのリリースにあたり、稲葉サンが選んだ楽曲は、北川サンが作った「夏色」だった。そこには、誰の耳にも心地よい大衆性―― ポピュラリティがあった。彼のソングライティングの才能を開花させたのは、稲葉サンの卓越した “眼力” だった。2人をカルト人気で終わらせず、全国区のスターにするための戦略だった。
新・黄金の6年間とは、1993年から98年に至る6年間、主にエンタメ界でニューカマーたちがビッグヒットを放った現象を指す。キーワードは「スモール」「フロンティア」「ポピュラリティ」―― ゆずのブレイクは、稲葉サンが描いた小回りの利くレーベルを軸足に、フォークデュオなる1周回った新たなるフロンティアへ漕ぎ出し、そして耳馴染みの良い楽曲を放つという、まさに三拍子が揃っていた。
1998年8月30日、「夏色」のリリースから3ヶ月弱となるこの日をもって、安全上の理由から毎週日曜夜10時の横浜松坂屋前の定例路上ライブが終了する。台風直撃の中、詰めかけたファンは7,500人を数えたという。
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2024.06.03