新・黄金の6年間 ~vol.11 ■ 篠原涼子 with t.komuro「恋しさと せつなさと 心強さと」
作詞:小室哲哉
作曲:小室哲哉
編曲:小室哲哉
発売:1994年7月21日
ビートルズと小室哲哉の共通点とは?
1963年1月、ビートルズは2ndシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」をリリースして、突然覚醒した。
その前の2年間―― ドイツ・ハンブルク巡業時代の彼らは、他のミュージシャンの楽曲を演奏するコピーバンドに過ぎなかった。それが、62年8月にリンゴ・スターが加入し、同年10月にオリジナルの「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューすると―― 前述の通り、2ndシングルで覚醒。そこから出す曲、アルバムすべて大ヒット。60年代を通して、時代を象徴する世界的スーパースターとなったのは承知の通り。そして70年4月、事実上の解散を遂げると、まるで憑き物が落ちたように、4人は等身大のアーティストに戻った。
かのプロデューサー・小室哲哉にも同じことが言える。奇しくも、「新・黄金の6年間」の初年度―― 1993年2月に、trf(現・TRF)のデビューシングル「GOING 2 DANCE / OPEN YOUR MIND」でプロデュース業に進出した彼は、翌94年5月にリリースした同グループ6枚目のシングル「survival dAnce 〜no no cry more〜」で、プロデューサーとして初の1位を獲得。そこから、手掛けるアーティストたちの楽曲がことごとく大ヒットし、97年にかけて “小室ファミリー” が日本の音楽界を席巻する。しかし、新・黄金の6年間の最終年にあたる98年を最後に、その勢いは失速。彼もまた、等身大のアーティストに戻った。
新・黄金の6年間とは、バブル崩壊後の1993年から98年にかけての6年間を指す。その時代、エンタメ界で新しい才能たちがビッグヒットを連発した現象を、当Re:minderで僕はそう呼んでいる。テレビドラマは若いプロデューサーと脚本家のタッグが次々と名作を生み、音楽界は作詞・作曲・編曲を兼ねるプロデューサーの出現が、ヒット曲を量産した。いずれも、新・黄金の6年間のキーワードの1つ―― 小回りの利くクリエイティブな体制 “スモール” が成功の原動力となった。
小室哲哉が目を付けた篠原涼子の可能性
何ゆえ、プロデューサー・小室哲哉は覚醒し、そしてブームは終焉したのか。ブレイクのキッカケは、先のtrf6枚目のシングルだったが、その “成功方程式” を盤石なものにしたのは―― その次に小室サンがプロデュースする篠原涼子 with t.komuro名義のシングル「恋しさと せつなさと 心強さと」だった。リリースは、1994年7月21日―― そう、今から29年前の今日である。
恋(いと)しさと せつなさと 心強さと
いつも感じている あなたへと向って
あやまちは おそれずに進むあなたを
涙は見せないで 見つめていたいよ
作詞・作曲・編曲:小室哲哉。同曲のメインボーカルを務める篠原涼子サンは当時、アイドルグループ「東京パフォーマンスドール」(以下、TPD)のメンバーだった。時に二十歳。小室サンはTPDにも数多く楽曲を提供しており、同グループのライブ会場に足を運ぶうち、目に止まったのが彼女だった。
篠原サンは1989年、高校1年の時に雑誌主催のオーディションに合格、高校を中退して芸能界の道へ。翌90年4月のTPDの発足と共に、アイドルデビューを果たした。91年12月からは、フジテレビのバラエティ番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』のレギュラーとなり、体を張ったコント演技が評判を呼ぶ。小室サンが篠原サンに目を付けたのも、そんなコントとアイドルのギャップに惹かれてのこと。「振り幅がすごい。彼女には可能性を感じる」―― 後年、女優・篠原涼子のブレイクを見るに、小室サンの目は正しかった。
シングル「恋しさと せつなさと 心強さと」は、オリコン初登場週は28位ながら、同年8月に公開されたアニメ映画『ストリートファイターⅡ MOVIE』の主題歌に起用されたことで話題となり、徐々にランクアップ。2ヶ月後の9月26日付で首位に立った。結局、94年の年間シングルチャートの第3位になり、Wミリオンを達成する。
プロデューサー・小室哲哉を覚醒させた方程式とは?
それにしても―― 同曲の少し前に、小室サンがTPDに楽曲提供していたシングルは、どれも60〜30位台。お世辞にも売れたとは言い難かった。一体、それらと、「恋しさと せつなさと 心強さと」は、何が違ったのか。端的に言えば、それが、プロデューサー・小室哲哉を覚醒させた方程式――「ポップ」、「キャッチーなサビ」、「タイアップ」、「アイドル」の4要素である。
遠い空を あの日 眺めていた
やりかけの青春も 経験もそのままで
永遠を 夢見ていた あの日を今
もう二度と繰り返さずに 戻らずに生きること
僕は以前、当Re:minderに
『新・黄金の6年間《1993-1998》小室哲哉が本格始動!90年代最大のヒットメーカー』と題して、小室サンがtrfのプロデュースに至るまでの経緯を書いた。その中で、彼のプロデュース力が最も発揮された事例として、同グループのデビュー曲がオリコン圏外の不発に終わった際、セカンドシングル「EZ DO DANCE」で早くも軌道修正を図った “小回りの良さ” を指摘した。
具体的には―― ①サビをポップなメロディにしてハードルを下げ、②プロモーションの場を深夜0時で閉まるディスコから、通信カラオケの導入で最新のヒット曲を歌えるカラオケボックスに移し、③その際、カラオケの背景に流れる映像を、アーティスト本人が出演するミュージックビデオにするよう、自ら営業をかけた―― と。
実際、trfはセカンドシングルでチャート15位に初ランクイン。5枚目のシングル「寒い夜だから…」では、その方向性を更に進め、最高に “キャッチーなサビ” を仕込んで初のベスト10入り。そして、6枚目のシングル「survival dAnce 〜no no cry more〜」において、初めてテレビドラマ『17才-at seventeen-』(フジテレビ系)との “タイアップ” を図り、遂にオリコン1位&ミリオンを達成する。
そう、タイアップ――。これも小室流プロデュースにおける成功方程式の重要なカギの1つ。実は、小室サンの目的はタイアップそのものより、番宣などのCMの大量投下にあったという。15秒や30秒で繰り返し流れるCMは、お茶の間に楽曲をPRするのにうってつけ。その際、キャッチーなサビは強力な武器になる。小室サンは番宣の出稿量を増やしてもらう代わりに、かかる楽曲の使用料を一切受け取らなかった。
ここへ至り、小室プロデュース術の方程式が固まりつつあった。大衆にウケる「ポップ」路線でハードルを下げ、メディアとの「タイアップ」で大量のCMを投下し、類い稀なる「キャッチーなサビ」でお茶の間をトリコにする――。実際、trfはその手法で頂点に立った。
出来なくて あこがれて
でも少しずつ理解(わか)ってきた 戦うこと!!
オリコンランキングの首位に立った、「恋しさと せつなさと 心強さと」
だが―― 小室サンはまだ手を休めない。次に、彼が目を付けたのが “アイドル” だった。アイドルとは、いわばキャラクター商品である。楽曲につくファンは曲のクオリティに左右されるが、一度アイドルについたファンは、そう簡単には離れない。そこで、彼はこれまで積み上げたプロデュースの方程式に、新たに「アイドル」を加えることにした。
その時―― 彼の目に飛び込んできたのが、先にも述べた、楽曲提供する東京パフォーマンスドールのメンバーの一人、篠原涼子サンだった。テレビのバラエティ番組で見せる体を張った表現力と、ライブで見せるクールな表情のギャップが面白い。キャラクターとして申し分なかった。
タイアップ先に選んだのは、かの有名な「ストⅡ」こと、対戦型格闘ゲーム「ストリートファイターII」のアニメ映画版『ストリートファイターII MOVIE』(監督:杉井ギサブロー)だった。公開は1994年8月6日だが、楽曲のリリースはその2週間余り前の7月21日――。即ち、映画の前宣伝で流れる大量のCM投下が、小室サンの真の目的だった。ここでキャッチーなサビをお茶の間に発信できれば、彼らは自ずとCDを買ってくれる――。
恋(いと)しさと せつなさと 心強さと
いつも感じている あなたへと向って
あやまちは おそれずに進むあなたを
涙は見せないで 見つめていたいよ
篠原涼子 with t.komuroの「恋しさと せつなさと 心強さと」は、9月26日にオリコンランキングで首位に立つと、翌週一旦陥落するも、再び10月10日に首位に返り咲いた。
プロデューサー・小室哲哉が、フジテレビの深夜番組『天使のU・B・U・G』で遠峯ありさを見初めるのは、この3日後である。
▶ 新・黄金の6年間に関連するコラム一覧はこちら!
2023.07.21