8月21日

ビューティー・ペアからクラッシュギャルズ、女子プロレスの栄枯衰退

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仕事の関係で深夜に仕事を終える僕は、帰宅するため愛車へ乗り込み、ラジオを BGM 代わりにしてハンドルを握るのが常である。

週のなかでも金曜日の深夜は可愛らしい声のパーソナリティーが番組を担当していて、この放送だけは毎回欠かさずに聴いている。聴き始めた当初はアニメの声優さんが喋っていると思っていたけれど、よくよく聴くと、その声の持ち主はなんと女子プロレスラーだと気付き驚いてしまった。

春日萌花… 現在はフリーのプロレスラーで、ラジオのパーソナリティーをはじめ、声優、落語、気象予報士の資格までも有する多才ぶりである。

その仕事のひとつ、『FANTASY RADIO』というラジオ番組の企画で「夏のファンタジー」という曲を、ミュージシャンの中山貴大とリスナーを交えて作りあげ、番組内で熱唱していたことがあった。

先日この曲が久しぶりにラジオから流れてきて、「オッ!」と思った僕は運転しながら耳を傾け、のどかな曲を堪能した。そして「あぁ、いまでも女子プロレスラーと歌は切っても切れない関係なんだなぁ…」などと物思いにふけり、すっかり昔を思い出していた。


時は一気に70年代まで遡る――

僕の記憶にある初めての女子プロレスラーはマッハ文朱だ。1972年、13歳で『スター誕生!』に出場したマッハ文朱は、15歳で全日本女子プロレスに入門、翌1975年に「花を咲かそう」でレコードデビューも果たした。ただ、プロレスやタレント活動していたのは覚えているけれど残念ながら曲の印象はほとんどない。

そのマッハ文朱と入れ替わるように人気を獲得した二人がビューティー・ペアのジャッキー佐藤とマキ上田だ。マッハ文朱・赤城マリ子ペアから WWWA 世界タッグ王座戦に勝利したビューティー・ペアは「かけめぐる青春」(1976年11月リリース)で歌手デビューも果たす。

テレビの女子プロレス中継も、リングの上でプロレスラーが歌う姿から放送が始まるという斬新なスタイルに切り替わった。そのスタイルがウケたかどうかわからないけれど、ここから女子中高校生たちに人気が広まってゆく。

女性が女性に憧れる “宝塚現象” とでも言おうか… テレビを観ていても、紙テープが無限に投げ込まれる様子は異様というか何というか、とにかく黄色い歓声が凄まじかった。

そう、ビューティー・ペア「かけめぐる青春」は、累計80万枚まで膨れ上がる大ヒット曲となり、それはある意味、社会現象のひとつとして決定的であった。確かに当時小学生だった僕も学校に行って「♪ あなたから私へ 私からあなたへ」の歌詞の部分で、ガッチリ握手する振り付けを真似たものだ。

その後もビューティー・ペアは「真っ赤な青春」「バン・ババン」などを次々とリリース。また、ジャッキー佐藤、マキ上田がそれぞれ歌うシングル曲なども発売された。

二人は『夜のヒットスタジオ』に出演するなどタレント活動をすることも多く、当時絶大な人気を誇ったピンク・レディーと歌番組で共演することもしばしばあった。

もちろんプロレスが本業であって歌は副産物のようなものだから、歌番組に出演しても素人感丸だしである。その素人っぽさと、試合の激しさのギャップが、今で言う「萌え」という感覚なのだろう。久しぶりに映像を観てみると、どうにもアカ抜けない衣装で素朴な二人が歌っていた。人気とは画して素人をもてはやす危うさが付きまとうものだ。

ある日、その人気にいきなり終止符が打たれることになる―― 1979年、当時まだ20歳のマキ上田は上層部の意向によりジャッキー佐藤(当時22歳)と引退を賭けシングルで対戦、マキ上田は破れコンビが解消されたのだ。

人気が出て3年で終わる… もうちょっと全日本女子プロレスは二人の人気にあやかってもよかったんじゃないだろうか。この試合がきっかけかどうかはわからないけれど、この後フジテレビでレギュラー番組だった女子プロレス中継は、以前の不定期放送に逆戻りしてしまった。


時はビューティー・ペア解散から5年ほど経った1984年―― その状況を打破したのがクラッシュギャルズの長与千種とライオネス飛鳥だ。

クラッシュギャルズの二人はタッグ結成と共に「炎の聖書」(1984年8月リリース)によって歌手デビューも同時に果たす。もちろんリング上で歌うスタイルも継承されていて、多くのファンは再び熱狂することになる。それは、ビューティー旋風の再来か、それを超えるほどの一大ムーブメントが巻き起こった。その勢いにより、不定期だった試合中継が再びゴールデンタイムに戻りレギュラー化、実況でお馴染み志生野温夫アナの姿も復活した。

順風満帆である。ただ、ビューティー・ペアの頃とは試合の雰囲気が少し変わっていた。クラッシュギャルズの二人が取るファイトスタイルがアイドルレスラーとは一味違っていたのだ。

SHOW の要素はありながらも、殴る蹴るというストロングスタイルを前面に出して当時のヒールレスラー(ダンプ松本、ブル中野などの極悪同盟)に対抗し “強さ” を証明したのだ。

流血する試合も多く、僕なんかは「ちょっといたたまれないなぁ…」と思いながらテレビ観戦をしていた。確か「敗者髪切りマッチ」などが行われ始めたのもこのころである。

男子プロレスもそうだけれど、プロレス界に「本物志向」が台頭してきたのは1986年以降… 神取忍の登場からではないだろうか。

新団体『ジャパン女子プロレス』に入門した神取はめっぽう強く、なんとベテランの域に達していたジャッキー佐藤からギブアップを奪うなど、強烈な強さを見せつけた。

そんな状況である。クラッシュギャルズもアイドル歌手に混ざって歌など歌っている場合じゃないはず… と思ったけれど、調べてみると解散までの5年間(1984年~1989年まで)にシングル8枚、ベストアルバムを含め7枚のアルバムをリリースしているのには驚いた。その中にはカタリベに参加している伊藤銀次作曲「ガラスのファニーボイス」もあった。

“25歳定年” という不文律により、1989年長与引退、翌1990年飛鳥引退によりクラッシュギャルズは解散。テレビのレギュラー放送も不定期に逆戻り。その後、井上貴子、豊田真奈美などのアイドルレスラーや、北斗晶、アジャ・コングなどヒールレスラーを輩出するもパッとせず、1997年に全日本女子プロレスは経営不振により不渡りを出し、2005年解散となる。

今現在も複数のプロレス団体によって女子プロレスは行われているけれど、ビューティー・ペアやクラッシュギャルズのような社会現象までには至らない。そう思うと、女子プロレスとは70年代中盤から80年代を一気に走り抜けた、まさに「かけめぐる青春」そのものだったのでは… と思わずにいられないのである。

2019.09.07
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カタリベ
1967年生まれ
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