1996年 5月13日

PUFFY デビュー!奥田民生プロデュース「アジアの純真」作詞は井上陽水

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新・黄金の6年間 ~vol.5
■ PUFFY「アジアの純真」
作詞:井上陽水
作曲:奥田民生
編曲:奥田民生
発売:1996年5月13日

エンタメ界の大きな変化、バンドブームの終焉と、J-POPの台頭


今回は、27年前の今日―― 1996年5月13日にリリースされた、PUFFYのデビューシングル「アジアの純真」の話である。だが、本題に行く前に、少し長めのイントロダクションから始めたいと思う。

1993年から98年の6年間、エンタメ界は新しい才能たちが台頭し、未曽有のゴールドラッシュに沸いた。――「新・黄金の6年間」である。テレビドラマはフジテレビとTBSを中心に視聴率25%超えが当たり前となり、音楽業界はビーイングと小室ソングがけん引するようにミリオンセラーを連発、週刊少年ジャンプは『SLAM DUNK』を核に最大発行部数653万部を記録した。

ちなみに、僕は昨年、『黄金の6年間 1978-1983〜素晴らしきエンタメ青春時代』(日経BP)という本を出した。Re:minderで連載していたコラムをまとめた本である。こちらは1978年から83年のエンタメ界を舞台に、音楽・映画・テレビ・出版・広告などの垣根を越え、クロスオーバーに活躍する新人たちが多数輩出された軌跡を描いたもの。背景に、1975年のベトナム戦争終結を起点とするエンタメ市場の “自由化” があった。

その流れでいくと、新・黄金の6年間の起点となるのは―― 90年代初頭の日本経済のバブル崩壊と、世界的な東西冷戦の終結である。昭和の高度経済成長を支えたビジネスモデルは一旦リセットされ、様々な業界が更地に。エンタメ界も例外ではなかった。一方、東西冷戦終結で世界を取り巻くイデオロギーの空気は雲散霧消。“思想” の重しが取れたエンタメ界はフリーハンドを手に入れた。

それを物語る現象の1つに、バンドブームの終焉と、J-POPの台頭がある。

第二、第三のBOØWYを求めたバンドブームの背景


思えば、1980年代後半から90年代初頭にかけて、バンドブームがあった。音楽史的には「第2次バンドブーム」と呼ばれる(ちなみに、第1次バンドブームは、ポプコンで世良公則&ツイストがグランプリをとった70年代後半から80年代初頭である)。当時のバンドの多くは、メンバーが髪を逆立てた、いわゆる “縦ノリ” のロック。80年代半ばのBOØWYのブレイクで、レコード各社が第二、第三のBOØWYを求めた背景もあった。

当時の代表的なバンドは―― JUN SKY WALKER(S)、THE BLUE HEARTS、UNICORN、THE BOOM、ZIGGY、BUCK-TICK、JITTERIN'JINN―― 等々。ブームは89年2月スタートのTBSの『イカ天』(三宅裕司のいかすバンド天国)で最高潮に達するが、番組は翌90年12月で終了。91年には史上最高の510組ものバンドがメジャーデビューするも―― 間もなくバンドブームは潮が引くように衰退。93年ごろには、かつて人気を誇った多くのバンドも解散や活動休止に追い込まれた。



その要因は諸説ある。1つは東西冷戦の終結で、いわゆる “反骨のロック” というレーゾンデートルを失ったこと。これは、かつてベトナム戦争の終結で、“反戦” を掲げたフォークが行き場を失った現象とよく似ている。2つ目は、例の『イカ天』で、良くも悪くもバンドが消費され尽くしたこと。91年の史上最高のバンドデビューも、粗製濫造とは言わないが、それに近いものがあったと推察する。3つ目は、折からのバブル崩壊で、レコード会社に体力的な余裕がなくなったこと。だが―― 僕は、次の4つ目の要因が最も大きかったと思う。

ブームの衰退から不死鳥のごとく蘇った奥田民生


―― J-POPの台頭である。言い換えれば、ソングライターの時代が来たということ。1993年、それまで音楽業界でマイノリティな存在だったビーイングは、織田哲郎という稀代のソングライターにキャッチーなメロディを依頼し、戦略的に作られたバンドに歌わせることで、空前のカラオケブームの波に乗った。それは、既存のレコード会社にないマーケティングだった。もはや若者たちの関心はバンドブームから、メロディアスで親しみやすいJ-POPに移っていた。

そんな中、バンドブームの衰退から不死鳥のごとく蘇った男がいた。―― かつてUNICORNを率いた奥田民生である。バンドは93年9月に解散するも、彼自身は約1年後の94年10月、シングル「愛のために」で本格的ソロデビュー。同曲は、同じ月にスタートしたフジテレビの音楽番組『HEY!HEY!HEY! (MUSIC CHAMP)』のエンディングテーマに採用され、ミリオンセラーを記録。カラオケでもバンバン歌われた。そう、民生サンはバンドのボーカリストから、ソングライターに華麗なる転身を遂げたのである。

いよいよ本題に近づいてきた。時に、彼がプロデューサーを務めるPUFFYのデビューまで、あと1年7ヶ月と迫っていた。



サブカル女子とヤンキーねえちゃんの出会い。PUFFYデビューまでの経緯


PUFFYは、所属事務所のソニー・ミュージックアーティスツ内で作られたユニットである。大貫亜美は1973年、東京都町田市生まれ。典型的な東京近郊のサブカル女子だった。一方、吉村由美は1975年、大阪府寝屋川市生まれ。こちらは見るからに難波のヤンキーねえちゃんである。2人の育った環境に接点はない(学年は亜美が1つ上)。両人ともソニー関連の別々のオーディションに合格し、当初はそれぞれソロデビューの予定だった。

そんな2人が事務所で出会ったのが、奇しくも奥田民生がソロデビューした94年というのが運命の始まり。2人は徐々に打ち解け、やがてプライベートで遊ぶ仲になる。その頃、亜美のソロデビューの計画が進行中だったが、亜美は密かに由美とデュオを組みたいと、由美には内緒で事務所に相談する。意外にも事務所は快くOKし、ここで初めて由美にも伝えられ、彼女も快諾。晴れて2人のユニットが結成される。1995年の話である。

この年、音楽業界は空前のプロデューサーブームに沸いていた。特に小室哲哉と小林武史の活躍が目立ち、2人のイニシャルの頭文字から「TK時代」と呼ばれていた。小室はtrf(現・TRF)を始め、篠原涼子、H Jungle with t、globe、華原朋美、安室奈美恵らを手掛け、一方の小林はMr.ChildrenやMY LITTLE LOVERに携わっていた。この2人の活躍に刺激を受けたのが―― 奥田民生である。彼はミーハーな動機から、こう思い立ったという。

「僕もあんな風にプロデューサーになりたい!」

民生サンの所属事務所はソニー・ミュージックアーティスツである。つまり、95年当時、同じ事務所内で、片や大貫亜美と吉村由美はユニットを結成し、片やミーハーな思いからプロデューサーを志す男がいた。双方が出会ったのは、単にそれだけの理由である。奥田民生は2人の歌もろくに聴かずに、プロデュースを名乗り出たという。

「PUFFY」というユニット名は、当時、民生サンがソロの仕事で組んでいた元ジェリーフィッシュのドラマー、アンディ・スターマーの発案である。たまたま、そのレコーディングを亜美と由美が見学した際、2人を一目見たアンディが「彼女たちの名前はPUFFYがいいね!」と発言。特に意味的なものはなく、語感で閃いたらしい。

キリンビバレッジ「天然育ち」のCMソングに選ばれたデビュー曲「アジアの純真」


かくして―― 1996年5月13日、奥田民生プロデュースでPUFFYはデビューする。デビューシングル「アジアの純真」は、作詞:井上陽水、作曲:奥田民生。もともと陽水サンとは仲が良く、この2年前にリリースした小泉今日子のシングル「月ひとしずく」(名曲です)も2人の共作だった。ちなみに、民生サンが陽水サンに作詞を依頼したのは、たまたま共演したフジの『HEY!HEY!HEY!』の楽屋だったという。

 北京 ベルリン ダブリン リベリア
 束になって 輪になって
 イラン アフガン 聴かせて バラライカ

―― よくネタにされるが、ベルリンとダブリンとリベリアはアジアではない。陽水サン曰く、民生サンのデモテープの鼻歌がそう聞こえたからで、特に意味はないという(笑)。韻を重視しているあたりが陽水サンらしい。ちなみに、タイトルは当初、タモリさんの初期の持ちネタである架空の中国歌謡「熊猫深山」(アルバム『タモリ2』に収録。熊猫とは中国語でパンダの意)から「熊猫深山」にしようとしたが、さすがにソニーに反対された。

 白のパンダを どれでも 全部 並べて
 ピュアなハートが 夜空で 弾け飛びそうに
 輝いている火花のように

同曲は、本人たちも出演するキリンビバレッジ「天然育ち」のCMソングに選ばれ、リリース早々、オリコンチャートに20位で初登場。幸先のいいスタートに関係者一同喜ぶが、翌週にはTOP30のランク外へ。しかし、これを救ったのは、民生サンとは何かと縁の深い『HEY!HEY!HEY!』だった。96年5月27日の放送に奥田民生とPUFFYが登場。松ちゃんは民生サンに「コンパで知り合ったとか?」とツッコみ、浜ちゃんはPUFFYの2人のTシャツとジーンズとスニーカー姿に「ホンマに普通の格好させられてるなー」と同情した。

すると―― その日の視聴率は、同番組の歴代2位となる23.9%。この強力な援護射撃で、「アジアの純真」は再びオリコンチャートに15位で返り咲く。そこから徐々に順位を上げ、8月12日には最高位の3位に。更に、オリコンカラオケチャートランキングでは12週連続1位を記録し、ミリオンセラーとなった。PUFFYのデビューは成功し、プロデューサーの奥田民生は名を上げた。



90年代はアジアの時代、時代と並走していたPUFFY


振り返れば、PUFFYのデビューはいろいろな偶然が重なったものだった。2人のユニット結成も、民生サンがプロデュース業を思い立ったのも、事務所が同じだったのも、陽水サンに作詞を依頼したのも、CMソングに起用されたのも、何かと『HEY!HEY!HEY!』と縁があるのも――。

だが、1つだけ確かなことがある。PUFFYの2人を素のままに見せたいと、衣装をTシャツとジーンズとスニーカーにしたのも、楽曲に “アジア” の要素を取り入れたのも、すべて時代の空気に合っていた。2人がデビューした1996年はコギャル元年と言われ、それまでのコンサバティブな空気が一変していたし、90年代は、かつてのパリや西海岸がトレンドをリードした時代から、アジアの時代に変貌していた。

2人は時代の半歩先ではなく、時代と並走していたのである。

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2023.05.13
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カタリベ
1967年生まれ
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