1996年 4月15日

1996年4月15日「SMAP × SMAP」放送開始!日本のテレビ史において忘れられない1日

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フジテレビ系バラエティ「SMAP × SMAP」放送開始日
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連載【新・黄金の6年間 1993-1998】vol.25
▶ SMAP × SMAP
▶ 放送開始:1996年4月15日

フジで新番組のバラエティショー、「SMAP × SMAP」、略してスマスマ


その日のことはよく覚えてる。

時に、1996年4月15日―― 月曜日だった。仕事を早々に切り上げた僕は、会社から真っすぐ帰宅すると、何はともあれテレビをつけた。朝、『めざましテレビ』を見てから出社したので、チャンネルはフジテレビのままである。

夜9時、お目当ての連ドラが始まる。ファーストカットは白無垢姿で街中を走る山口智子サンだ。そう、フジ月9ドラマの『ロングバケーション』である。一応、ビデオのタイマー録画もセットしていたが、やはり話題のドラマはオンタイムで見てこそ空気感も伝わる。大筋のあらすじは把握していたが、改めて見る山口智子サンとキムタク(木村拓哉)の掛け合いの面白さに、すこぶる感激したのを覚えている。当代2大スターの競演の謳い文句に偽りなし――。

その日は、それで終わらない。90分の拡大版でドラマが終わると、続いて10時半から、同じくフジで新番組のバラエティショーが始まった。もちろん、こちらもお目当ての番組だった。冒頭、スタジオの控室でSMAPの6人が何やら小芝居をしている。

木村「あ、もう本番始まるぜ」

香取「もう、始まってるって!」

中居「スマップ・スマップ、略して “スマスマ” 。毎週みんな、頑張っていこうね!」

5人「おー!」

なぜか草彅クンだけ掛け声に加わらず、下を向いている。

森「あれ? なんか気合入ってないよ、ツヨシくん」

稲垣「おい、一発目なんだから気合入れていこうよ。さ、スタジオに行こうか」

一同、席を立って歩きだすが、草彅クンのみがその場に立ち尽くしたままである。リーダーの中居が声をかける。

中居「ツヨシ~ ほら、気合いれていかないと、俺らの人気なんか、すぐ落ちちゃうよ」

草彅「落ちないよ」

中居「落ちる」

草彅「落ちない」

中居「落ちるって言ってんだろ!」

リーダーが勢いよく草彅クンを押し倒すと、次の瞬間、草彅クンが後ろの壁を突き破って落下する――。画面が切り替わると、バンジージャンプの落下シーンだ。2つの動画をくっつけた粗い編集(もちろん、わざと)だが、そんなことはお構いなく、画面を上下しながら草彅クンが叫ぶ。

草彅「スマスマ~!!」

それを合図にタイトルイン――『SMAP×SMAP』。

新たな国民的スター “SMAP” が誕生


―― そんな具合に始まった新番組は、バツグンに面白かった。コントはキムタクが田村正和に扮する「古畑拓三郎」で、これが天才的に似ており、相棒の今泉クンならぬ “草泉クン” を草彅クンが演じた。「BISTRO SMAP」は初回からあって、ゲストは大原麗子サンで、オーダーは “昔ながらの小麦粉で作るカレー” だった。ショート企画の「涙のSMAP」は、メンバー6人の誰が一番早く泣けるかを競うゲームで、3回とも森クンが優勝した。音楽コーナーでは中森明菜サンをゲストに、彼女の楽曲とSMAPの楽曲を全員で熱唱した。

翌日、発表された視聴率は、『ロンバケ』が30.6%、『スマスマ』が22.4%と、共に目標としていた大台に乗った。少々大袈裟な言い方になるが、間違いなく1996年4月15日は、日本の長いテレビ史において忘れられない1日になった。奇しくも、ドラマとバラエティの両分野で、新たな国民的スター “SMAP” が誕生したのである。

奇しくも今日、4月15日は、あれからちょうど28年目になる。本コラムは、日本のエンタメ史において、1993年から98年にかけて、すい星のごとく現れた新人たちがビッグヒットを連発したシリーズ企画『新・黄金の6年間』の一環である。キーワードは「スモール」「フロンティア」「ポピュラリティ」―― 彼らは比較的少人数で動き、新しいマーケットに挑み、そして大衆に直接語りかけた。

歴代のジャニーズの中でも特に苦戦を強いられたグループ


さて―― ドラマ『ロンバケ』は、既に同シリーズ企画で取り上げ済みなので、今回は『スマスマ』に話を絞って進めたいと思う。まず、同番組の何が凄かったのか。それは、アイドル・SMAPが、“国民的スター” になった番組だったこと。

それ以前―― 彼らは、93年10月クールのドラマ『あすなろ白書』(フジテレビ系)の “取手くん” を演じたキムタクが見つかったのを機に、94年ごろから徐々に人気を上げて、同年9月にリリースした14枚目のシングル「がんばりましょう」でオリコン1位を獲得してブレイク。テレビ番組では、フジテレビの土曜23時台の『夢がMORI MORI』の「音松くん」コーナーで、笑いの取れるアイドルとして注目を浴びていた。

だが、それらはしょせん、アイドルとしての人気。90年代前半は、世にいう “アイドル冬の時代” で、その最中(91年9月9日)にデビューした彼らは、歴代のジャニーズ(現:SMILE-UP.)の中でも、特に苦戦を強いられたグループだった。アイドル全盛期の80年代と違い、『ザ・ベストテン』(TBS系)を筆頭にメジャーな音楽番組は軒並み89~90年に終了。『レッツゴーヤング』(NHK)に代表されるアイドル番組も姿を消し、90年代初頭のアイドルはテレビのゴールデンタイムに露出できる機会がほとんどなくなった。

そんな中、SMAPは飯島三智マネージャー(当時)の尽力もあり、まず演技力に長けたキムタクがドラマで爪あとを残す。続いて、バラエティ番組でアイドルらしからぬ “笑い” を前面に押し出し、頭角を現したのだ。ただ、先にも申し上げた通り、その時点では、言っても “アイドル人気” 。キムタクは役者としてブレイクしつつも、なかなか主役をやらせてもらえなかったし、バラエティタレントとして覚醒したSMAPも、自身の冠番組は深夜かゴールデンの浅い時間帯で、視聴率は5%も取れなかった。

阪神・淡路大震災の応援歌として注目を浴びた「がんばりましょう」


変化の兆しはあった。まず1994年4月から、国民的番組である『笑っていいとも』(フジテレビ系)の曜日レギュラーに中居クンと香取クンが起用され、95年10月からは、“6番目のSMAP” と言われた草彅クンも登場した。94年12月には、雑誌『an・an』の「カッコいい男」(後の「抱かれたい男」)ランキングで、キムタクが初めて1位に輝いた。

そして、95年春の高校野球 “センバツ” 大会――入場行進曲に選ばれたのは、SMAPの「がんばりましょう」だった。奇しくも、同年1月には、あの阪神・淡路大震災が発生。同曲はその応援歌としても注目を浴び、この辺りが、SMAPが従来のアイドル枠に収まらず、次のフェーズへ移行しているようにも映った。そう、その上での翌96年の4月15日だったのだ。

古き良きバラエティショーのフォーマットを踏襲した「SMAP×SMAP」


で、改めて『SMAP×SMAP』である。まず、それは画期的なバラエティ番組だった。まず、レギュラーメンバーがSMAPの6人という最少ユニット。司会にお笑い芸人も入れず、保険で女性アイドル等も入れなかった。あくまでSMAPのメンバーのみ。それが逆に、企画の自由度を上げ、柔軟な番組構成に繋がった。

そして、何より――その構成が、古き良きバラエティショーのフォーマットを踏襲していたこと。本来、“バラエティ”というジャンルはエンタメ先進国・アメリカの発祥で、コントと歌、それにトークの3本柱で成り立つものだった。古くは、アメリカの伝説的番組『エド・サリヴァン・ショー』や『ペリー・コモ・ショー』がこのフォーマットだった。



日本で、同フォーマットを取り入れたのが、かの有名な日本テレビの井原高忠サンである(彼は日本のバラエティの父と呼ばれる)。彼が手掛けた、昭和30年代の草笛光子の『光子の窓』や水谷好重の『あたなとよしえ』は、まさに米国流バラエティだった。少し遅れて始まったNHKが手掛けたバラエティ番組『夢であいましょう』もその流れ。ちなみに、同番組でブレイクしたのが黒柳徹子と渥美清、そして「今月のうた」から生まれた楽曲「上を向いて歩こう」を歌った坂本九である。

その流れは、やがて『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系)や『8時だョ!全員集合』(TBS系)にも受け継がれ、長らく日本のバラエティのメインストリームだった。ちなみに、『全員集合』は前半のメインコントと中盤のゲストの歌と「少年少女合唱隊」、そして後半のミニコントから構成されるが、その中の「合唱隊」がいわばトークのコーナー。“コント” “歌” “トーク” の三本柱は、1950年代後半から70年代を通して、日本のバラエティ番組の鉄板だった。

ところが、1981年に始まった『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)以降、その構成が壊れて、フリートークを重視したフォーマットに変わる。その後、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)に代表されるロケバラエティも登場するなど、バラエティは百花繚乱のごとく多様になる。

そこへ――敢えて『SMAP×SMAP』は古き良きバラエティのフォーマットを復活させたのだ。即ち、“コント” “歌” “トーク” の三本柱。ちなみに、「BISTRO SMAP」が同番組におけるトークコーナーで、あれは料理を見せているようで、その実、ゲストを交えたメンバーのトークを引き出している。

アイドルの天才、森且行


なぜ、そんな伝統的なフォーマットを復活させたかというと、マネージャーの飯島サンやフジテレビの荒井昭博プロデューサー(当時)らがSMAPを新しいスタンダードにしたいと考えたからである。即ち、単なる人気アイドルではなく、老若男女から愛される国民的スターに育てたかったからである。そして何より、その素質が彼らには備わっていたのである。

実は、『スマスマ』の構成に携わった鈴木おさむサンの著書『もう明日が待っている』(文藝春秋)によると、同番組の第1回の放送前から、既にメンバーの森クン(森且行)のSMAP脱退が決まっていたらしい。SMAPがアイドル冬の時代を駆け上がっていく過程において、彼が果たした役割は少なくない。シングル「$10」(テンダラーズ)を発掘したのも彼だし、バラエティ番組『夢がMORI MORI』にSMAPが起用されたのも、彼の名字と運動神経を買われたからである。シングル「がんばりましょう」をはじめ、リードボーカルとしてSMAPを楽曲面で牽引したのも彼だった。ついでに言えば、「BISTRO SMAP」は、料理好きの森クンを買っての企画だった。

森クンは、いわば “アイドルの天才” だった。小顔で脚が長く、歌・ダンス・スポーツ・料理・演技… 何をやらせても上手い。「涙のSMAP」もダントツの強さだった。だが、彼は既に薄々気が付いていたのかもしれない。SMAPがアイドルから国民的スターに駆け上がった時、もしかしたら自分の立ち位置がなくなっているのかもしれない―― と。森クンが唯一苦手としたジャンルが “トーク” だった。SMAPが今後、もっと上に行くとき、そこに最も求められるのは、同グループの伸びしろである “遊び” ―― 即ち、トークではないか、と。

1996年5月27日、この日の『SMAP×SMAP』は全編、SMAPを脱退する森クンのスペシャル編成だった。番組の最後、彼らは「ベストフレンド」を涙で歌い、仲間を送り出した。森クンは子供のころから夢だったオートレースの世界へと歩み出した。そこに嘘偽りはない。図らずも、森クンが抜けて、SMAPは真の国民的スターになった。

その陰のプロデューサーは、間違いなく森クンである。

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2024.04.15
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カタリベ
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