1992年の春。
社会人2年目になったゴールデンウィークに新幹線で故郷博多に帰省したときの事だ。
博多駅に近づいたひかり号は徐々にスピードを落として行く。そんな時、車窓からひとつの落書きが目に入った。
日本のリバプールへようこそ!
どこの族かヤンキーが書いたか知らないが、そんなシャレた落書きをする奴のいる故郷を誇らしげに感じたのをつい最近のように思い出す。そう、博多はその昔「日本のリバプール」と呼ばれていた。いや、正確に言うと博多の人間が強くそう思っていたという方が近いのかもしれない。
1970年代に入り、ライブハウス『照和』から井上陽水、チューリップ、海援隊、長渕剛、甲斐バンドなどがデビューし、“博多フォーク” が全国を席巻する。1975年にはライブハウス『ぱわぁはうす』を巣立ったサンハウスがメジャーデビュー。その後もシーナ&ザ・ロケット、ザ・ロッカーズ、ルースターズ、ザ・モッズ、アンジーなどの “博多ロック” が続いた―― いわゆる “めんたいロック” と呼ばれる “博多ロック” の時代は、サンハウスがデビューした1975年を起点としているわけだが、この年が「博多は日本のリバプール」と言われるようになっていった原点と言える。
「フォークだろうがロックだろうが、新しい音楽は博多発」
ネットはもちろん情報もあまりなかった時代に、一地方都市が新しい音楽の発信地として注目された事は80年代に博多で青春を過ごした若者にとってはこの上ない誇りだった。
「俺たちゃ、日本のリバプールに住んどうけんね」
ただし、ビートルズ来日後に生まれた私は、あまりビートルズを聴いていない。もちろん、スタンダードナンバーとしては知っている。しかし、聴き込みも掘り下げもしていない。なんだか若い頃の私にとっては「権威」的であり「教科書」的であり、「なんかシャレとらん」存在。「ビューティフル・ネーム」やら「ポートピア」を歌ってなんだか興味を失ってしまったゴダイゴもやはり同じ理由だったっけ。
それはさておき―― 「リバプール」という地名は私にとっては「=ビートルズの出身地」ではなく、反権威、反中央のシンボルだった。しかし、80年代後半のバブル景気に沸く東京のキラキラ感、金も物も人も集まる中央への憧れには勝てず。大学を卒業した私は、東京で働く道を選んだ。
それは、サンハウスの鮎川誠も柴山俊之も、ロッカーズもルースターズもモッズもアンジーもみんな東京に出て行ってしまったという事と無関係ではない。
そこには東京という中央の魅力と共に、明らかに地方都市の限界という事もあっただろう。あれから約30年。私ももう50だ。
今は、博多と東京で昭和のヒットソングを流すレコードバーを経営し、博多に住んでいながら東京にも長期滞在できるという夢のような生活を送れている。しかし、若い頃感じていた反骨精神、その裏返しの中央への羨望と憧れ―― 夢のような生活を手に入れた分、反骨精神も羨望も薄れてきたように思う。
昔では考えられないレベルの経済活動ができるようになり、様々な発信もできるようになった。そして、地方都市に住んでいながら東京で稼ぐなんてことが当たり前にできるようになった現代。薄れた気持ち以上のものを確実に得ているはずだ。
「得ること」は目的ではなく、手段。「得た結果、どうするの?」というのが人生のアウトプットを求められる世代になった今、自分自身の課題だ。
「俺たちゃ、日本のリバプールに住んどうけんね」そう粋がっていた時代を思い出しながら、サンハウスのアルバム『有頂天』に針を落とす。「キングスネークブルース」のうねりまくる鮎川誠のギター、ダミダミドロドロの柴山俊之のボーカル。博多で活動しながら、日本の音楽に革命を起こそうとした彼らのスピリッツを感じながら今月も気合いを入れて東京出張に出るのである。
「日本のリバプール、博多から出稼ぎに来たっちゃん」と粋がるために。
2018.05.26
YouTube / gretsch echiei
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