個性的な歌手には『個性的な歌唱法を確立した歌手』と『個性的な声質の歌手』とがいる。 前者が後者にも属すとは限らないが、後者は必然的に前者にも属す。思えば、ぼくが惹かれてきた歌手はだいたい後者だ。浪曲における価値基準には一声・二節・三啖呵というのがあるらしい。ポピュラーミュージックにおいても、基本的には声の面白味が最優先であると思う。つまり、努力してどうにかなるわけではない部分がまず大切なのである。残酷なことに。 そういう理由で NOKKO には、テレビで一聴した瞬間からずっと惹かれてきた。舌足らずで僅かにくぐもっている、あどけない話し声からしてすでに異様なのだが。歌うとなると、そこへ似つかわしくない野太さ(啖呵)も加わる―― 精神が肉体を凌駕しているというか、めいっぱいの背伸びというか、小さなチューブを強引に握りつぶしてハミガキ粉を出す感じというか。かよわさと逞しさを同時に放つ声である。また、それはレベッカが有す世界観と見事に合致する声でもあると思う。 「フレンズ」「RASPBERRY DREAM」「ヴァージニティー」「MOON」「CHEAP HIPPIES」「OLIVE」等々、代表曲において顕著なのは、大きな夢を抱いたり、日常の縛りから脱したいと思ったばっかりに、友人や恋人や家族や社会との繋がりが途切れそうになっている女の子の物語だ。 NOKKO がなぞると、曇天が続く異国の路地裏とともに、柄にもなく家を飛び出した女の子の孤独な背中がくっきり見えてくる。ぼくは、そんな主人公の名前こそレベッカだと勝手に決めこんで聴いてきた。 『友達のスー』がどうとか『100万ドルをつかむ夢』だとか、全盛期 MTV の煽りを受けたとみられる歌詞は、ぼくらの暮らしから遠ざかりたそうな虚構性が強いけれど、元気な女の子を演じてさえ薄暗い過去や未来を忍ばせるボーカルだから、結果として『スー』が出てくるくらいの文化的距離感によって、切なさのバランスはうまく保たれている。これでもしも日本人然とした物語だったら、余計に胸が張り裂けそうだ。 ステージの様子と合わせて聴くと、そもそも彼女がロックバンドに紅一点で居ること自体にも “路地裏の悪友たちに誘われた行きがかり上” といった、歌に似た経緯がある気がしてくる。 それは事実ではないだろうが、一方で、肥大化する周囲の期待や要求に疲弊し解散したメンバー4人が永らく「フレンズ」の歌詞のようだったのは事実らしい。2000年代初頭までに一時的な再結集はあったものの、明らかに自発的でない企画ゆえ、その後はかえって皆の繋がりが途切れてしまっていた。 なので、2015年になってあれほど美しい復活劇が起こるとは夢にも思わなかった。 舞台は満員のアリーナ。 ドラマーの小田原豊が往年のスチュワート・コープランドにも肉薄するタイトなリズムを刻み、ベーシストの高橋教之がブランクを感じさせない堅実なラインで寄り添う。そこへリーダーの土橋安騎夫が 80’s の煌めきを鍵盤で流し込み、NOKKO が中央に現れる。何より驚いたのは、彼女がいつの間にかあの頃の家出娘に戻っていたことである。 事実上セミリタイアの期間もあった。きっと家事育児の合間に並々ならぬ努力をしたのだ。穏やかな暮らしを手に入れたかつての少女が、またも衝動にかられて家を飛び出した… っていうと普通は良からぬハナシでしかないが―― 矛盾したことに、レベッカの未来のハッピーエンディングには欠かせない要素なのだ。 「RASPBERRY DREAM」の第一声『今夜も月が見てるわ』が鳴り響いた瞬間、それまで後ろ姿しか想像できなかった家出娘が、初めてコチラに振り返り微笑んだ感じがした。 さて、これから何処へ行くんだろう。※2018年5月1日に掲載された記事をアップデート
2019.05.02
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