中学3年生・15歳。それは感情と衝動でこんがらがった特別な時期に違いない。
先日何とは無しに、止せばいいものの中学3年生の時に書いた日記を読み返すという愚行を犯してしまった。その後数日間、なんとも言えない暗澹たる気持ちとあの時ああしていれば、などという後悔の念に苛まれたわけである。
加えて「後ろ向きな」発見があった。それは自分に15歳の頃の感受性がもはや残っていない、という事実であった。 15歳のまま大人になるというのは語義矛盾であり、色々な経験をして行く中で成長し社会の中で生きる動物である人間として世の中に出て行く。これは理の当然である。
しかしあの時の鬱屈してかつ暴発しそうな目で僕自身が世界を見ていた、その目線。そしてその衝動が鈍化され訓治されていってしまったのだなと考えるとふと寂しくなった。
思えば遠くに来たものである。15歳という時期を特権化してしまうことは危険なことかもしれないが、やはり特別なのである。そんな感慨の中、思い出された映画がある。相米慎二監督の名作映画『台風クラブ』である。
舞台は信州の田舎町。映像は高校受験を控えた生徒たちの焦りと不安を淡々と描く。「大人たち」への不信の目線と、いつかは「大人たち」にならざるを得ないという苛立ち。身体は大人に近づきつつもそれへの戸惑いは隠せない。それは間欠的に暴発の兆しを見せていた。
そんな心情を反映したかのように台風が村を直撃する。偶然学校に閉じ込められてしまった生徒たちは遂にフラストレーションを爆発させる。一方、工藤夕貴演じる純真な女子中学生は嵐の中、東京へ一人家出を試みる。
…… この映画を名作たらしめているのは、この15歳の衝動を完全に「引きの構図」で描いた点にあるだろう。「淡々と」と僕は先に書いたが、カメラは少年少女への感情移入を拒むかのように観察している。
監督は青い衝動を描きながらも、それをスクリーンというフレーム=枠の中に閉じ込めてしまう。しかしそのことで、却って枠の中に閉じ込められた少年少女のフラストレーションの濃さは高められているのだ。
そのカメラの冷酷なまでの引き具合はまさに「大人たち」の目線だ。そこには「大人たち」の目線と15歳の衝動との断絶とも呼べる距離がある。しかしその断絶のおかげで逆説的に少年少女の衝動は、壊れやすい純粋さを保っている。
映画は女子中学生たちが忍び込んだプールサイドでバービーボーイズの「暗闇でDANCE」に合わせて踊り狂う場面から始まる。これは大変示唆的である。
なぜなら、もし「大人たち」に真夜中にプールサイドでロックに合わせて踊ることを容認されていたら、きっとそこから躁的な享楽はごっそりと抜けてしまうに違いないからだ。
「少年少女」のダンスは暗闇で踊らなければいけない。「大人たち」はそれを禁止しなければいけない。その断絶こそ15歳を直撃する「電撃バップ」なロックを「禁じられた遊び」として輝かせるものではないか。
そしてそんな風にこの映画について書いてしまう僕は、どうやらまだ件の日記と同じ「15歳」の青さを失っていないのかもしれないとも思うのである……。
2017.11.18
YouTube / radis421
Vimeo / Deadline 6am
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