また山下久美子の話ですが、1980年12月25日にリリースした2nd アルバム『ダンシン・イン・ザ・キッチン』は、ディレクションをほとんど私に任せてもらえました。作家陣もサウンド面も基本的に1stの路線の踏襲ですから、大きなトラブルはなかったと記憶しています。
1981年1月24日には、(今は無き)日本青年館で初のホールコンサートを開催しました。アンコールで観客全員が立ち上がり、そこから「総立ちの久美子」というフレーズが生まれました。総立ちなんて今や当たり前のことですが、それがキャッチコピーになったなんて、時代を感じますね。
さて少し状況がよくなってくると、そろそろシングルヒットをという話になってきます。私はこれまで共にがんばってきている康珍化さんや亀井登志夫さんの作品でヒットを出したいと考えていたのですが、所属レコード会社だった日本コロムビアのプロデューサー、三野明洋さんは現実路線で、売れている作家を提案してきました。筒美京平さんと近田春夫さんです。
京平さんは言うまでもありませんが、近田さんも80年にプロデュースした “ジューシー・フルーツ” の「ジェニーはご機嫌ななめ」が大ヒットして、脚光を浴びていました。三野さんは庄野真代さんで、京平さんの曲「飛んでイスタンブール」をヒットチャートに送り込んでいましたし、“ジューシー・フルーツ” も担当していて、お二人とは親しかったのです。
近田さんの詞、京平さんの曲で2曲作り、近田さんと京平さんが1曲ずつアレンジするというアイデアで、私もそれは面白いと思いました。曲は別の人で、詞とアレンジを担当する人ってそんなにいませんよね。
もちろん私は、京平さんとも近田さんともこれが初仕事でしたので、詞曲の打合せは三野さんがさっさと進めていきました。「とりあえずニューヨーク」、「唄にならないBGM」という2曲ができてきて、デモテープの時点で前者がA面だね、ということになったと思いますが、そちらを近田さんがアレンジすることになりました。
ロックっぽい雑味とメジャー感が共存したそのアレンジはなかなかかっこよかったのですが、実はちょっと驚いたこともありました。近田さんと言えば、ちょっと変わったバンドをいろいろやりつつ、物書きでもあり、テレビやラジオでおもしろいことを言ってる芸人的な面もあったので、失礼ながらなんとなく先入観で、アレンジと言ってもヘッドアレンジな感じかななんて想像していたのです。ところがブラスやストリングスもきちんとスコア譜に書かれていて、ちゃんと音楽を勉強している人だったんですね。お見逸れしました。
しかし残念ながら、お二人のパワーを持ってしても、狙ったようなシングルヒットにはなりませんでした。ただ、ここから、山下久美子プロジェクトの中で、「ニューヨーク」というキーワードが育ち始めることになるのです。
2017.04.14
YouTube / tomorobin
Information