型破りだった男闘呼組
男闘呼組は、ジャニーズ事務所が3年以上の準備期間を経て1988年8月24日に満を持してレコードデビューさせた4人組である。当時は、前年にデビューの光GENJIに次ぐ勢いを誇る人気グループだった。しかしながら、彼らは長いジャニーズ事務所の歴史のなかでも極めて異色、異例、異端の存在であり、それがグループのアイデンティティともいえた。ここでは、男闘呼組がいかに型破りだったかを示す、8つのポイントを考察したい。
Point1:29年の時を経て再結成
ジャニーズ事務所からデビューして、やがて解散、活動停止をしたグループが、時を経てフルメンバーで再結成される例は極めて少ない。これまでに果たされたのはフォーリーブス、The Good-Byeの2例のみ。人数が少なく全員が芸能活動を継続中のシブがき隊さえ実現していないのだ。それを考えると、2022年の夏に29年の時を経て再結成したことこそ、男闘呼組が何より異色な点である。
Point2:一切踊らなかった
ジャニーズ事務所には70年代よりバンド系グループの系譜があり、80年代になってからも、男闘呼組以前にANKH(1980年)、The Good-Bye(1983年)という2つの前例があった。
ただし、ANKHはどちらかというと傍系の扱いだったバンドで、同時期にデビューした田原俊彦や近藤真彦と同等のプロモーションはなされず、活動期間も2年に満たなかった。
The Good-Byeは、野村義男のレコードデビューを前提にANKHのメンバーだった曽我泰久(現:曾我泰久)以外の2名をオーディションで集めたバンドである。つまり、半分はジャニーズJr.としてのキャリアのない人材で構成されていた。
上記の点で、男闘呼組は80年代のジャニーズ事務所がジャニーズJr.出身者のみで編成し、大々的に売り出した唯一のバンドだったのである。成田昭次(Vo. / Gt.)、高橋一也(現:高橋和也・Vo. / Ba.)、岡本健一(Vo. / Gt.)とジャニーズJr.育ちながら楽器演奏を指向したメンバーを軸に結成されたこともあり、彼らはステージで踊ることを一切しなかった。遅れて正式メンバーとなった前田耕陽(Vo. / Key.)も含め、ダンスが苦手であることを公言しているほどだった。
光GENJI、忍者とともに「少年御三家」として80年代終盤の男性アイドルの主流にありながら、ダンスを排除した男闘呼組の活動内容はジャニーズ事務所の正統路線ではなかったのだ。
Point3:強かった自己主張
男闘呼組は、自分たちのラジオ番組などでいろいろな部分に踏み込んだ本音トークを展開していた。たとえば、社会の風潮を嘆いたり、批判したりもしていたのだ。また、音楽や映画だけではなく、恋愛対象についても自分の好みを明確に語り、下ネタもアリだった。
ファーストアルバム『男闘呼組』以降、自作曲を徐々に発表していったが、特に高橋は社会風刺的なメッセージを込めた詞をたびたび書いていた。さらに最末期には、アイドルバンドとしてのジレンマをテーマとしているようにも解釈できる歌詞も残している。そのあたりはジャニーズ史において空前絶後のことである。
Point4:短い活動期間
嵐が活動休止をしたのはデビューから約20年後だ。2021年11月に解散したV6の活動期間は約26年である。これらに比べて男闘呼組の活動期間は短い。
レコードデビュー前の1985年頃から本格的なメディア露出を始めた彼らは、バンドとして翌年からライブ活動をスタートさせる。当初からオリジナル楽曲が用意され、なかにはタイアップのついたシングルA面と同じような扱いの曲もあった。ファンがレコードデビューを待望するなか、ようやく1988年8月にファーストシングル「DAYBREAK」がリリースされている。しかし、そこから先が短かったのだ。
レコードデビューから活動休止までは約5年。オリコンのウィークリーチャートでトップ10入りしたシングルは、「DAYBREAK」「秋」「TIME ZONE」「CROSS TO YOU / ROCKIN' MY SOUL」「DON'T SLEEP」「ANGEL」のわずか6枚。セールス的な絶頂期といえる期間は2年半に満たなかったのだ。
ただし、男闘呼組がもっとも男闘呼組らしかったのは、後半戦の2年半だともいえる。シングル「ANGEL」(1991年1月)、アルバム『I'm Waiting 4 You』(1991年2月)から始まった自作曲をメインとした体制を強化。1992年6月からは「5-1…非現実…」「5-2…再認識…」「 5-3…無現実…」と、三ヶ月連続でアルバムをリリースするという実験も行った。“自分たちがやりたいこと” を極め、陳腐な表現をあえて使えば “脱アイドル” を図った活動を展開していたのだ。
この頃になると、テレビのアイドル系番組への出演、アイドル雑誌の表紙を飾る機会は徐々に減っていく。その活動は、アイドル的なものを求めていたファンのニーズと乖離するものだったかもしれない。しかし、メンバーには、オリジナル曲制作に注力できる、演奏テクニックを向上させられる、バンドとして成長できる、濃密な時間だったのではないだろうか。
Point5:メンバー2名が20代前半で結婚
ジャニーズ事務所の所属タレントは30代、40代になっても未婚である確率が高い。以前、少年隊では植草克秀、SMAPでは木村拓哉、TOKIOでは山口達也、V6では井ノ原快彦しか結婚していない時期があり「1つのグループにつき1名しか結婚が許されないというルールがある」といった噂もあったほどだ。
その点でも、男闘呼組は例外中の例外だった。成田と岡本は男闘呼組としていた活動していた1992年に20代前半にして結婚を発表し、まもなく父親になっているのである。
Point6:高く評価された主演映画
男女問わずアイドル映画が作品として評論家筋から高評価を得ることは少ない。日本映画の秀作として後の世で語られることもあまりない。多くの昭和ジャニーズ映画もしかりである。そのなかで、男闘呼組主演映画『ロックよ、静かに流れよ』(1988年)は例外的な存在だといえる。
長崎俊一監督が手掛けたこの作品は高く評価され、「1988年度キネマ旬報ベストテン」で第4位に輝き、「第10回ヨコハマ映画祭」の作品賞・監督賞・新人賞などいくつかの映画賞を受賞している。キネマ旬報ベストテンは評論家や記者など多数の選考委員によって選出されるもので、ヨコハマ映画祭は映画ファンによるコンペティションである。どちらも、映画業界や芸能界の政治力の影響を受けにくいタイトルだ。
その後、岡田准一や二宮和也など、俳優として賞を得ているジャニーズ事務所所属者は生まれているが、グループ全体で主演した映画が作品賞を獲るようなケースは『ロックよ、静かに流れよ』が唯一の例である。
Point7:予告なしに突然解散
男闘呼組の最後はある日突然訪れた。4人はファンに別れを告げることなく消えてしまったのである。
1993年6月に高橋一也が突然、契約解除となり、その時点で事実上の解散となったのだ。この経緯から、チケットがすでに発売済みだった夏のコンサートツアーは中止に。レコーディングが終わっていたアルバム『ロクデナシ』がリリースされたとき、男闘呼組はすでにこの世に存在しなかった。なお、このような措置がとられた事情について事務所側からの発表はナシ。高橋が去った後も、成田、岡本、前田はジャニーズ事務所に残ったが、3人でバンド活動を継続という展開はナシ。やがて、成田と前田も事務所を離れている。
Point8:解散後も続いた交流
アイドルグループやバンドのメンバーが、仕事現場以外では不仲であること、解散後、活動休止後に一切の交流が途絶えるということはよくあることだ。
ショッキングな最後を迎えた男闘呼組だが、そのメンバーは解散後の26年間に、断続的ながら接点をキープしていたのだ。
俳優活動が盛んな岡本と高橋は、1997年にドラマ『院内感染』(よみうりテレビ系)、さらに2016年にNHK大河ドラマ『真田丸』で共演している。
高橋の親が経営するバー兼ライブハウスで、ジャニーズ事務所から去ったあとの成田が定期的にライブを行っていた。
高橋は成田、前田とそれぞれ別のバンドを組んで活動したこともある。
2019年に『ロックよ、静かに流れよ』公開30周年記念上映会トークショーに登壇した岡本は、当時は表舞台を去っていた成田からのメッセージを発表した。
男闘呼組デビュー32周年の日である2020年8月24日には、前田と高橋による生配信が行われ、岡本、成田からのメッセージも公開された。また、このとき、メンバー全員によるグループLINEの存在が明らかになり往年のファンを歓喜させた。
また、2020年には4人が一同に会し、スタジオでセッションを行ったという。今回の再結成は、このようなバンドとしてのメンバーのつながりと、自主的な行動が背景にあるのは確実だ。これも、なんとも男闘呼組らしい点ではないだろうか。
▶ 男闘呼組のコラム一覧はこちら!
2022.08.23