80年代後半を語る上で忘れてはいけないのがプリンセス プリンセスだ。彼女たちが成し遂げたいくつもの “初” は本当に輝かしく、個人的にも大好きなバンドだった。
プリプリの歴史についてざっくり説明しておくと、もともとオーディションで集められた縁もゆかりもない5人だ。キュートでポニーテールが似合う奥居香、かっこいいギター・ヒロイン中山加奈子、正統派美人で優等生タイプの今野登茂子、目がくりっとして可愛い富田京子、宝塚風で包容力のある渡辺敦子。楽器のテクニックよりもルックス重視で選ばれ、見事にタイプが被らない。普通に考えればうまくいかないバンドの典型だ。
しかし彼女たちは違った。活動方針に異を唱えて事務所を移るたびに赤坂小町、ジュリアン・ママと名前を変え、2年半近くも合宿生活を送った。バブル前夜の20歳前後を来る日も来る日もレッスンに費やしたことになる。支えたのは意地と、少しの確信。誰も脱落しなかった。
プリンセス プリンセスとしてのデビューは86年5月ミニアルバム『Kiss で犯罪』。しかし売れなかった。87年7月には2ndシングルとしてあの「世界でいちばん熱い夏」もリリースしているのに売れなかった。ライブをやってもステージ上より客席の人数のほうが少ない日もあったという。そんな状態が約2年続いた。
事務所がシンコーミュージックに定まったのはデビュー後の86年暮れ。メンバーより年長のマネージャーIさん、歳下の宣伝担当Hさんというふたりの女性がとにかく一生懸命だった。実家住まいの駆け出しライターでなかなかライブに行けない私を毎回誘ってくれた。昨年引っ越しのときに出てきた古い手帳を見たら “プリプリ・エッグマン” などと書きながら消してある日がいくつもあった。残念なことをしたと今も思う。
87年11月にリリースされた3rdシングル「MY WILL」がヴィクトリアの CMソングに起用されたあたりから状況が変わっていく。私が初めて香ちゃんにインタビューしたのも多分この頃だ。歌番組に出るようになり、女の子から「かっこよかったです。でも光GENJI の〇〇くんをとらないで」という手紙をもらった話をして「とらねぇよ」と笑っていたことを覚えている。雑誌での露出が増え、笑えるプライベートや酔っ払いエピソード(全員なかなかの酒豪)を赤裸々に話すようになって女の子のファンも増えだした。
そして88年2月「19 GROWING UP -ode to my buddy-」リリース。“きみがくれた 靴をはいていた かかと鳴らす 雨上がりの駐車場” あぁこれは私たちの歌だ、と深夜のラジオの前で両手を握りしめた10代がきっとたくさんいた。曇り空をも突き抜けていく高らかな女の子賛歌。ライブであのイントロを刻みながら加奈ちゃんとアッコちゃんが前に出てくる光景は今も目に浮かぶ。結成から5年。プリンセス プリンセスの快進撃がついに始まった。
※2017年1月21日に掲載された記事をアップデート
2019.02.26
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