いろんなものをくぐり抜けてきた凄み、クリエイションのリードギター竹田和夫
私がクリエイションというバンドを初めて観たのは1981年、TBS系『ザ・ベストテン』だった(当時の表記は「クリエーション」)。その頃、後追いでGSにかぶれていた中3の私は、「ロンリー・ハート」を歌うアイ高野を観て「あれ? この人ってカーナビーツの、ドラム叩きながら歌っている人だよな?」とビックリしたのを覚えている。
高野のボーカルにも圧倒されたけれど、出している音が、歌番組に出て来る他のバンドの音とは明らかに違った。いろんなものをくぐり抜けてきた音というか、まだ音楽を全然わかっていない中坊の私でも “凄味” を感じたクリエイション。リードギターを担当していたのが、竹田和夫である。
いわゆる「ニューロック」について記した文献や書籍を読むと、必ず出てくるのがクリエイションであり、竹田和夫の名前だ。日本のロック草創期に、いち早くハードロックのスタイルを取り入れ、さまざまなロックフェスに顔を出していたクリエイション。
竹田はぜひ話を聞いてみたいキーパーソンだが、現在は米国・ロサンゼルスに住み、年2回のペースで日本に帰国。日米両方でライヴ活動を行っている。
クリエイション、竹田和夫のソロ、合計11枚のアルバムがリイシュー
このたび、クリエイションが過去に発表したアルバムと、竹田のソロアルバム合計11枚が、竹田本人の監修でリマスター、紙ジャケ・高音質SHM-CDでユニバーサルミュージック・ジャパンからリイシューされることになった。
これに合わせて5月中旬、筆者は帰国中の竹田にインタビューする機会を得た。まさに千載一遇のチャンスだ。
竹田和夫が音楽を始めた原点とは?
竹田はなぜ、クリエイションを結成したのか? 60年代末から70年代初頭にかけて、日本の音楽シーンでいったいどんな動きがあって、ニューロックが台頭してきたのか? ムーブメントの中心にいた竹田から、貴重な証言を聞くことができた。その音楽人生は、まさに「日本のロック史」である。数回に分けて、シリーズでお届けしていこう。まずは、竹田が音楽を始めた原点とは……?
―― ギターは、そもそも何歳から弾き始めたんですか?
竹田和夫(以下竹田):13歳です。中学2年のとき(註:1965年)。ちょうどベンチャーズブームの真っ最中で、『ライブ・イン・ジャパン』というアルバムを何度も聴いていました。一つの学校にエレキバンドが続々誕生していた頃ですね。
―― それだけベンチャーズの影響ってすごかった?
竹田:ミュージシャンを志したのは、やっぱりエレキブームがあったからです。あのブームがなければ、目指さなかったですね。あんなに大勢の人が一斉にエレキギターを弾くのって、一つの社会現象でしたから。
―― ベンチャーズということは、憧れのギタリストはノーキー・エドワーズ?
竹田:憧れたのはそうですね。ベンチャーズ以外だと、ビートルズやアニマルズやストーンズとか、いわゆるリバプール・サウンズ。あとはアメリカン・ポップスですね。60sポップスも浴びるように聴いていました。
―― それはラジオで聴いていたんですか?
竹田:いや、レコードでしたね。姉が買ってくるんですよ。割とランダムにね。それとジャズ系の曲も。
―― その頃から洋楽中心だったんですね。のちにメインレパートリーにするR&Bを聴くようになったのはいつからですか?
竹田:それはね、1967年頃に日本でR&Bのブームがあったんですよ。オーティス・レディングとか。あと、スティーヴィー・ワンダーが来日したりね。
―― でもその頃って、竹田さんはまだ中学生ですよね? 早熟ですね。
竹田:いやでも、ボビー・ヘブの「サニー」や、オーティスの「ドック・オブ・ザ・ベイ」とか、パーシー・スレッジの「男が女を愛する時」とか、このへんはすごくヒットしていましたからね。みんな聴いてカバーしていましたよ。
―― そうやっていろいろ聴いていると、バンドを作ろうって話になりますよね。最初はどんなバンドを結成したんですか?
竹田:はじめはベンチャーズのコピーバンドですね。そのうち歌も入れようと、ボーカルバンドになっていったんだけど。
ゴーゴーホールや米軍キャンプ、ステージで演奏に明け暮れる日々
1968年、ギターの腕を見込まれた竹田は「ザ・ビッキーズ」というバンドに加入。当時、竹田はまだ16歳の高校生。これがプロのミュージシャンとしての第一歩だった。当時ザ・ビッキーズには、のちに「乱魔堂」を結成する凄腕ギタリスト・洪栄龍や、ボーカリストとして布谷文夫が在籍。二人はともに1947年生まれで、1952年生まれの竹田より5つほど年上だった。 竹田:当時、僕より4〜5歳上の団塊世代がちょうど大学生でバンドをやっていて、ビッキーズは布谷さんのバンドでした。東京12チャンネルの『R&B天国』で5週勝ち抜いたこともあり、けっこう知られた存在でしたよ。で、洪栄龍さんが辞めたんで、高校生の僕が後釜のギタリストとして参加したんです。その後、洪さんが戻って来てツインリードになりました。
―― なるほど、そういう経緯だったんですか。当時はどの辺りで演奏していたんですか?
竹田:当時は新宿が多かったかな。歌舞伎町や赤坂とかのゴーゴーホールですね。あとは横浜や横須賀のEMクラブ(註:海軍下士官兵のために作られた憩いの場)とか、座間キャンプで演奏をしたりとか、米兵相手の仕事ですね。
―― 米軍キャンプで演奏するときは、いい加減に演奏していると物が飛んできたりしたって聞きますけど、そのへんは厳しかったですか?
竹田:厳しかったし、服装とかもうるさかったですね。普通のシャツはOKだけど、Tシャツとかは許してくれなくて。そうだ、当時はユニフォームがあったんですよ。嫌だったなぁ(笑)。無理やり着せられて演奏に行った覚えもありますね。
―― それは、いわゆるGSみたいなユニフォームだったんですか?
竹田:GSといえばGSみたいな感じですね。でも花柄とかじゃなくて、硬派のGSみたいな。スパイダースほど高くはないけど、お金がかかっていますね。
―― 当時はステージで、どういう曲を演っていたんですか?
竹田:この頃は、R&Bとサイケデリックですね。サイケデリックというのは、ジミ・ヘンドリックスや、クリーム、ヤードバーズとか。
―― ということは、当時流行っていた曲をすぐに覚えて、即演奏していたっていうことですか? そういうところを回っていると鍛えられますね。
竹田:そうですね。あの頃はとにかく、演奏の量が多かったんですよ。日曜日なんか昼やって夜やって、そのまま深夜までとか、ものすごい演奏量でしたよ。でも若いから平気だったけどね。
16歳で結成した新バンドは竹田の原点、ブルース・クリエイション
ザ・ビッキーズでギタリストとして場数を踏み、鍛えられた竹田。バンドは1968年に解散し、年が明けて1969年1月1日、16歳の竹田は新バンドをスタートさせた。クリエイションの前身であり、原点でもある「ブルース・クリエイション」である。ザ・ビッキーズで出逢った布谷文夫がボーカルで参加。記念すべき第一歩は「青森遠征」だった。 ―― 元日 に新バンドを結成したというのは、相当な意気込みを感じますけど、布谷さんを招いたのは、やっぱり演奏していて布谷さんのボーカルがいちばんしっくり来たからですか?
竹田:そうですね。布谷さんはビッキーズを離れたんだけど、やっぱりあの人のボーカルは凄かったですから。僕が「入ってください」って頼んだんです。
―― バンド名ですけど、当時はGS全盛期で「〜ズ」というネーミングが多い中「ブルース・クリエイション」って、ずいぶん異彩を放っていたんじゃないですか?
竹田:それもやっぱり、「ニューロック」とかって当時すでに言われていましたから、「〜ズ」じゃないバンド名にしたかったんですよ。
―― じゃあ「ニューロック」って言葉は1969年当時、すでに一般的だったんですか?
竹田:『ニューミュージック・マガジン』(註:のちに『ミュージック・マガジン』)の編集長・中村とうようさんとかが使っていましたね。でもね、レコード会社によって呼び方が違っていて、ポリドールは「アートロック」で、CBSソニーが「ニューロック」だったかな。僕らはポリドールだったからアートロックか。
―― バンド名の頭に「ブルース」とわざわざ銘打ったのはやっぱり、ブルース一本でやっていく、という意思表示ですか?
竹田:そうですね。ブルースバンドなので、「ブルースなんとか」にしたかったんです。後ろの「クリエイション」ってのは、なんかこう突然ひらめいて「あ、いいな!」と。
―― たしかに「ブルースを創造する」って、なかなかいい響きですよね。
竹田:なんかこう新しい感じがね、うん。同時にヒッピーとか、フラワームーブメントなんかも起こっていて、ちょうど時代が変わっていくところだったんですよね。
―― ただ資料を見ると、ブルース・クリエイションは竹田さんと布谷さん以外メンバーがけっこう流動的だったようですが、そこは固定せずに、その都度集まるっていうことだったんですか?
竹田:そうですね。活動しているうちに、一人抜け、また入っては抜け、という感じだったんですが、レコードを出す段階になって、事務所の要望もあって、メンバーを絞ったというのはありますね。
最初のライブは青森。ブルース・クリエイションは踊れないバンドと言われて…
―― で、話はちょっと戻りますが…… 1969年の元日に結成したブルース・クリエイションの最初のライブが「青森」で、しかも汽車で行ったそうですけど、なぜ青森だったんですか?
竹田:それはね、当時ブッキングを担当していたエージェンシーが決めたんですよ。そのあと名古屋に行ったんだけど、「青森に行ったバンドは、今度は名古屋へ行く」とか、そういう流れがあったんですね。
―― 汽車に楽器を積んで、元日に青森へ行く時は、どんな気持ちでした?
竹田:いや、なんか燃えていましたよ。「新しいグループで、他がやってない新しい音楽をやるんだ!」って。逆に青森が最初で良かったのかもしれないですね。その前のライブ拠点は渋谷だったんですよ。「グルービー」っていう道玄坂にあった店ですけど、そこから青森に行くっていうのは、練習兼ねて、って言ったら失礼だけど、じっくり音楽に向き合えたというか。
―― 当時、青森にブルースを演りに行って、どういうお客さんが来ましたか?
竹田:やっぱり若い人たちだったけど、青森はね、米軍の三沢基地が近いから、土日は基地関係の人たちも多かったですね。
―― ただ当時って、まだR&Bにあまり馴染みのない人たちも多かったと思いますが、そんな中でブルースに特化していくと、今一つ受けが悪かったとかはなかったですか?
竹田:いや、それはしょっちゅうありましたよ。新宿や渋谷のゴーゴーホールで演奏していると、踊っているゴーゴーガールの子たちから「ブルース・クリエイションは踊れない」って文句言われて、すごく嫌われていましたね。踊れないバンドの代表みたいに言われて(笑)。
―― そうなると、店の人に言われたりしないんですか?「もうちょっと踊れるのを演ってくれ」とか。
竹田:うん、それは言われますよ。言ってくる。マネージャーを通して言われたりね。あと「音が大きい」って文句言われたり。
―― でもそこは、頑として跳ねのけたんですか。
竹田:そうですね。でも、スローブルースばっかり演らないで、シャッフルとかも入れようとか、そのぐらいはしたかもしれない。実際は、そんなにブルースばかり演っていたわけじゃないんですよ。でも「踊れない」ってイメージが付いちゃってねぇ。
―― ただ、そんなふうに尖ったことをやっていると「あのバンド、結構いいじゃん」っていうファンも増えてきたんじゃないですか?
竹田:うん、まだそんなに上手くなかったけれど、当時、他の人がやってないことをやっていた、っていうのは事実ですね。あの頃はまだ、ブルースバンドってなかったから。
「踊れないバンド」という烙印を押される一方で、本格的なブルースロックを志向する彼らに注目する人たちもいた。そして結成から1年経たないうちに、竹田たちのもとにオファーが届く。「レコード、出しませんか?」 『クリエイション【竹田和夫インタビュー】② ブルースロックとカルメン・マキとの出会い』につづく
特集:Ultimate CREATION
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2023.06.02