4月14日

5月2日は hide の命日 − 今の時代を生きていたらどんなロックを奏でたのだろう

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hideとランディ・ローズ、共通する永遠に続く“ロス”の感覚


1998年5月2日、hideが33歳の若さで急逝してから、早24年の歳月が流れた。洋邦問わず、ロックアーティストが高齢化していく中、昨今は訃報が届く機会も必然的に多くなってしまった。どんなアーティストの死に直面しても、悲しみに変わりはないけど、まだ若いアーティストであれば、無念がいっそう募る。

とりわけhideの場合は、自身の音楽活動がまさに順風満帆な最中だったので、そうした思いが強くなるのは尚更だ。“hide with Spread Beaver” の「ピンクスパイダー」が発売されるわずか11日前、アーティストとしてのキャリアが、ここから大きな高みへと向かう、誰しもが予期せぬタイミングだった。

hideの没後から今に至るまで、“hideロス” が一貫して高いレベルで継続しているのは、輝ける未来を約束された一人の有能なアーティストが、若くして突然いなくなった現実に、多くのファンがついていけず、未だどこかで生き続けているような感覚を抱いているのかもしれない。

僕個人としては、今年の3月に没後40年を迎えてもなお、変わることなく語り続けられるギタリスト、ランディ・ローズに抱いた “ロス” の感覚に、共通するものを感じている。

hideとロニー・ジェイムズ・ディオ、“ホログラムで降臨” に感じた違い


hideが亡くなってから10年後の2008年、X JAPANは東京ドームで復活ライヴを行った。その時 “HIDE” は、ステージ上の映像やホログラムを通じて、X JAPANのライヴに再び降臨した。ホログラムは映像を3次元的に見せる特殊技術だ。人物の映像をステージ上に投影し、演奏とシンクロさせると、まるでステージ上で本人が一緒に演奏しているように見える。

HM/HR界の伝説的ヴォーカリスト、ロニー・ジェイムズ・ディオが亡くなった後、ホログラムを使ったライヴやツアーを行い、賛否両論が巻き起こった。ロニーのパフォーマンスを再び疑似体験出来て、後世に伝えられるという肯定的な意見もあれば、亡くなったアーティストの安らかな眠りや意思を尊重せずに、金儲けのために冒涜している、という類の否定的な意見もあった。

僕もどちらかといえば、実際のライヴパフォーマンスとは似て非なるホログラムを使ってまで、没後のアーティストを商業的に消費するという観点では、否定的な感情を抱いたほうだ。

ところが、X JAPANのライヴにおいて、HIDEがホログラムで甦った姿を見たとき、全く違う感情が湧き上がった。得も言えぬ感動や共感がじわじわと押し寄せてきたのだ。本来いるべき場所に、例えホログラムであれ、HIDEの勇姿が存在する意味の大きさを、誰もが実感しているように見えた。そんな大勢のファンとバンドが一体となったHIDEへの温かい思いが、ライヴパフォーマンスを通じて、ひしひしと伝わってきたからだろう。

24年経った今も、変わらずに愛され語り継がれるhide。以前のコラム『X「BLUE BLOOD」破壊と創造の集大成!80sを締め括る“青の衝撃”』でXの80年代にスポットを当てたが、ここでもhideの80年代にクリエイトした音楽を中心に振り返ってみたい。なお、X JAPANまでのバンド期は「HIDE」、ソロ期は「hide」と名義が異なるため、可能な範囲での混在をご了承いただきたい。

アメリカ文化が交錯する街 “横須賀” で育んだhideのロック観


神奈川県横須賀で生まれ育ったhideは、多感な中学生時代に、洋楽ロックに目覚めていった。この世代の多くの若者やYOSHIKI同様に、キッスを皮切りに、アイアン・メイデンをはじめとしたヘヴィメタル、クラッシュなどのパンクロックにのめり込んでいく。

そんなhideが、高校時代に音楽の情報源として足繁く通ったのが、横須賀中央駅前のヤジマレコード本店だった。2017年に惜しまれつつ閉店してしまったが、その足跡を感じられる聖地として、没後にファンの間で有名になったレコード店だ。

実は、僕がレコード会社の営業だった90年代後半、同店を担当してCD受注のために毎月訪店していた。当時の店長の岩瀬氏は気さくな人柄で、横須賀時代のhideをよく知る人物だった。岩瀬氏が嬉し懐かしそうに語る想い出話を伺い、横須賀の地で過ごした様子の断片を肌身で感じたものだ。実際にこの店で買った様々なレコードも含め、自らのベースとなる音楽エッセンスを横須賀で吸収していく。

さらにhideは、祖母に買ってもらったギターをようやく活かす形で、1981年、高校2年の時に “SABER TIGER(サーベル・タイガー)” を結成する。横須賀は周知の通り米軍基地の街で、どぶ板通りを中心に、日米の文化が混じり合う独特の匂いが充満している。とりわけ多感な年頃を過ごした当時の横須賀は、今以上にそうしたテイストが色濃く残っていた。この街の空気の中で音楽への思いを強くした経験が、hideの感性に与えた影響は小さくなかったはずだ。

SABER TIGERで東京メタルシーンに進出!


横須賀で活動を始めたSABER TIGERは、地元のライヴハウスを皮切りに、次第に力をつけて東京のメタルシーンへ進出し、神楽坂エクスプロージョンや目黒鹿鳴館など、関東ジャパメタの聖地でライヴを展開していった。同時期に東京に進出したXも拠点としており、両者は同じ界隈のライヴシーンで活動し始める。

この頃、手に入れたモッキンバードのギターは、Xでの活動に至るまで、HIDEのトレードマークとなった。使い始めた影響が、BOW WOWの斉藤光浩というのも興味深い。斉藤はARBにも加入しているように、ロックンロール寄りの音楽性を得意としていた。メタルの範疇に収まらない斉藤には、ギターの形状だけでなくプレイヤーとしてもシンパシーを感じたのかもしれない。

1985年7月には、SABER TIGER初の音源として、ライヴハウスのEXPLOSIONレーベルからソノシートが発売された。ツーバスで押す疾走曲「DOUBLE CROSS」と、マイナー調のリフを主体としたミッドチューン「GOLD DIGGER」の2曲を収録。稚拙さはあるものの、若さ漲る典型的なジャパメタ風サウンドを確認できる。

続く1985年11月に、同じくEXPOISON発のジャパメタコンピレーション『Heavy Metal Force Ⅲ』に「VAMPIRE」が収録された。ミッドテンポのリズムや展開が目まぐるしく移り変わる構成は、未だ消化不良ながらバンドとしての向上が伺える。ここにはXも収録され、両者の距離はさらに近づいていく。

さらに1986年にリリースされた日本のメタル・ハードコア系のコンピ『Devil Must Be Driven Out with Devil』にも参加。僕が当時初めて買ったSABER TIGERの音源は、このLPだった。裏ジャケのアー写に映るケバケバしいメイクとコスチュームのHIDEの姿は初々しい。

2曲が収録され「Dead Angle」は、アイアン・メイデンの影響下にあるツインギターをフィーチャーしたアップテンポの正統派メタル。「EMERGENCY EXPRESS」は、2バス連打の疾走系メロディックメタルで、Xへと繋がる哀愁を帯びた美旋律と、HIDEの若さに任せたギターソロを堪能できる。共にこれまで同様にHIDEが手がけた楽曲だが、ソングライターとしてのセンスも開花し始め、バンド自体のパフォーマンスも格段に整合性が増した。

交錯するXとの運命の出会い


順調に成長を続けたSABER TIGERだったが、音楽性などを巡り意見が分かれ、1986年1月のライヴで一度解散へと向かってしまう。HIDEはバンドの立て直しを図り、メンバーを一新。弱点だったヴォーカルには、のちにD'ERLANGER(デランジェ)でメジャーデビューするKYOを迎えた。

ところが、さらなる問題が浮上する。同時期に札幌で活動していた、木下明仁率いる同名異バンドが存在したのだ。“北海道ヴァージョン” はすでにジャパメタシーンで、その名が知れ渡りつつあり、バンド名のスペルを “SAVER TIGER” に変更を余儀なくされた。

心機一転したSAVER TIGERには、のちにKYOとD'ERLANGERで活動するドラマーのTETSUが加入。バンドがレベルアップする中で多くの新曲も生まれたが、そのひとつが「Sadistic Emotion」だ。当時のライヴで演奏されたこの曲は、Xの楽曲として生まれ変わることになる。

活動が本格化するにつれ、メンバー間で将来に向けた “温度差” が生まれ、次第にバンド内の亀裂へと発展していく。それに起因しTETSUが脱退。これ以上のメンバーは考えられなかったHIDEは落胆し、1987年1月のライヴでSAVER TIGERの活動を止める苦渋の決断をする。

その頃のHIDEといえば、美容院を営む祖母の影響から、バンド活動と並行して美容専門学校に通った後、実際に美容院にも勤めており、音楽活動自体から身を引き、美容師になろうとしていた。それを耳にした多くのバンドから声がかかる中で、HIDEの心が唯一揺れ動いたのは、YOSHIKIからのXへの熱心な誘いだった。

Xへ加入!HIDEがもたらした新鮮なエッセンス


かくして、Xへの電撃的な参加が決まった。Xはコンピ『Skull Thrash Zone Vol.1』のレコーディング後で、HIDEの初パフォーマンスは、例のTV番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』への出演だった。一気に知名度を上げたXは、1988年4月に初のアルバム『Vanishing Vision』をリリース。HIDE作曲による「Sadistic Desire」が収められた。これは前述したSAVER TIGERの「Sadistic Emotion」がベースとなった。原曲と基本は変わっておらず、YOSHIKIの楽曲と異なる、アメリカンなハードロックテイストをXに注入した。

HIDEの加入でXの勢いは加速度を増し、1989年4月に『BLUE BLOOD』でメジャーデビュー。HIDEは2曲にクレジットされた。「XCLAMATION」はTAIJIとのコラボで、インド風味のメロディを導入した、実験的なインストゥルメンタル。「CELEBRATION」は、KISSからの影響が色濃い、キャッチーなハードロックンロールナンバーだ。自らのルーツに立ち返り、Xの従来の型から敢えて外れた楽しいタイプの楽曲で、サウンドの幅を広げる貢献をした。

次作『Jealousy』にも続編といえる同系統の「Joker」が収録されており、ソングライターとしての非凡なポップセンスを存分に感じ取れる。さらに1996年の『DAHLIA』には、ヘヴィでインダストリアルな「SCARS」「DRAIN」の2曲を提供し、HIDEならではの音楽センスが、X JAPANのサウンドの地平線をさらに拡げた。

ギタリストとしては、PATAとの整合性のあるツインギターにこだわった。見た目の派手さとは違い、エゴを前面に出さないアンサンブルを重視したプレイで、X JAPANの楽曲を完成形へと導いた。

YOSHIKIがToshiらと築き上げてきた、X JAPANの確固たる音楽性にHIDEが加わることで、最後のパズルがピタリと埋まり、遂にX JAPANは完全体になった印象を受ける。HIDEでなければそれは成し得なかったし、バンドへと誘ったYOSHIKIの先見の明を感じずにはいられない。

HIDEがX JAPANにもたらした要素は、まるで鮮やかな色彩のごとくカラフルだった。それはサウンド、ヴィジュアル両面から感じ取れるだろう。X JAPANはHIDEの没後、世界的なモンスターバンドへと成長していったが、X JAPANが巨大な存在になればなるほど、HIDEが残した功績の価値は増していくように思えるのだ。

自らの気持ちが赴くままのロックを自由自在に表現


“HIDE” の自由な発想は、X JAPANの確立された世界観にも、次第に収まらなくなっていった。それはソロアーティスト“hide” としての活動や創り出した音楽を見れば明白だ。

1994年にX JAPANの活動と並行して発表された、初のソロ作『HIDE YOUR FACE』。ここでは、ハードロック、メタル、パンク、デジロック、インダストリアル、ポップ、アコースティックほか、多種多様な音楽のエッセンスをごった煮にして、hide流儀でまとめ上げた内容で度肝を抜かれた。

そこには、hideが横須賀時代に培ったバックボーン、影響を受けた音楽、X JAPANを通じて吸収した要素、それら全てを連鎖しながら咀嚼して、ソロアーティストとして真新しいキャンパスで自由に表現した印象を受けた。

その発展形が、hide with Spread Beaverだ。驚くほどキャッチーなのにクセになる中毒性を秘めた「ROCKET DIVE」「ピンクスパイダー」といったお馴染みの楽曲を、初めてMVで見聴きした時の衝撃は忘れられない。単にミクスチャー系という言葉では片付けられない、多様な音楽のエッセンスを注入した実験的な手法は、実に斬新な響きを放ち、楽曲のイメージを膨らませるカラフルなヴィジュアルが、鮮烈な印象を与えてくれた。

“X JAPANのHIDE” の中に、ここまで自由な表現力が内包されていた事実に、正直驚かされたし、シンガーとしての成長も著しいものがあった。ハードロックの一言では片付けられない万華鏡の如き魅力を放つ真新しい音楽をクリエイトし、それをファンも受け入れた。何よりhide自身が、最も楽しんでいたに違いない。だからこそ、“アーティストhide” が創り出す音楽は今もなお、多くのロックファンを惹きつけてやまないのだろう。

海外アーティストとのzilch(ジルチ)など、新たなプロジェクトも始動し始めていた。もしhideが今の時代を生きていたら、どんな挑戦的な未来形のロックを奏でていたのだろうか。考え始めると興味は尽きない。

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2022.05.02
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カタリベ
1968年生まれ
中塚一晶
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