攻勢に転じたフジテレビ
1980年代初め、キャッチフレーズを「母と子のフジテレビ」から「楽しくなければテレビじゃない」に改めたフジテレビは、80年代は攻めの一手で、『オレたちひょうきん族』『なるほど!ザ・ワールド』『夕やけニャンニャン』など、時代を象徴する番組を連発。映画制作も活発になり、さらにイベント事業も大きく展開し始めた。
その一つが、ロンドンのウェスト・エンドや、ニューヨークのブロードウェイで話題となったミュージカルの日本ツアーだ。
『ジーザス・クライスト・スーパースター』『エビータ』『キャッツ』『オペラ座の怪人』などロンドン発の大ヒット作を連発する作曲家、アンドリュー・ロイド・ウェバーが1984年に発表した新作は役者がローラースケートを履いて演じる、という情報が日本にも伝わってきた。
それが、1987年11月から日本ツアーが決定した『スターライト・エクスプレス』という作品だ。
フジテレビは自社制作の映画や協賛するイベントは、さまざまな番組とのタイアップ、また、あらゆる時間にCMをオンエアして話題を作り上げる戦略をとり、それが見事に成功していた。
ジャニーズの新人グループ “光GENJI”登場! はじまりはフジテレビ
『スターライト・エクスプレス』も同じ戦略をとるのだが、この作品はホールではなくアリーナを会場とするイベント性の強いミュージカルなので、いわゆるミュージカルファン以外にも認知を広めて、大人数を集客する必要があった。
そこで、イメージソングとしてジャニーズ事務所の新人グループ “光GENJI” のデビュー曲「STAR LIGHT」を起用し、ミュージカルファン以外の層も巻き込む展開をすることになる。
『スターライト・エクスプレス』に合わせたかのように、ローラースケートを履いてパフォーマンスする姿は、とても斬新。“フォーリーブス” “JOHNNYS' ジュニア・スペシャル” “イーグルス” “シブがき隊” “少年隊” など3~4人が基本だった80年代までのジャニーズ事務所のグループ編成を大きく崩す、7人という大所帯にも新鮮な驚きを覚えた。
また “光” と “GENJI” という、少しキャリアに差のある2つのユニットの融合という編成も、新しい時代のグループだという印象を受けた。
1987年8月19日、夏休みも終わりがみえてきた時期に「STAR LIGHT」がリリース。それ以前から、フジテレビでは “光GENJI” が登場する『スターライト・エクスプレス』のCMが一日中放送されていた。もちろん、夕方5時からの『夕やけニャンニャン』の時間帯にもだ。
オリコンチャートでも明らかに… 時代はおニャン子から光GENJIへ
1985年4月にスタートして、おニャン子クラブが社会的現象となった『夕ニャン』は、1987年の8月31日に放送終了が決定していた。
ブームの波が大きすぎたゆえにピークを超えた後の寂しさも人一倍で、“オワコン” のムード漂う末期の『夕ニャン』と、新たなスター誕生のイメージを感じる光GENJIのCMは非常に対照的な印象を与えた。
光GENJIもおニャン子クラブも、所属レコード会社はフジテレビ系列のポニーキャニオンで、奇しくも「STAR LIGHT」と、おニャン子クラブのラストシングル「ウェディングドレス」は同じ週のリリースとなった。
当時は、新曲リリース日が水曜日に集中することはなく、おニャン子クラブの場合も金曜リリースという例も少なくなかったとはいえ、「STAR LIGHT」が8月19日(水)、「ウェディングドレス」が8月21日(金)となると、アーティストパワーの差に加えて、カウント日数的にもおニャン子クラブの分が悪いのは明らかだ。
翌週のオリコンウィークリーランキングでは、「STAR LIGHT」が1位で、「ウェディングドレス」が2位という結果に。おニャン子クラブはラストシングルで初めて1位を逃す結果となり、数字の面からも時代が、おニャン子から光GENJIへと移り変わったことが明らかになった。
アイドル不遇時代に輝いた王子様たち
光GENJIはデビュー以降90年代にかけて、「ガラスの十代」「パラダイス銀河」「Diamondハリケーン」「剣の舞」「地球をさがして」「太陽がいっぱい」「荒野のメガロポリス」「Little Birthday」「CO CO RO」など、立て続けにヒット曲を連発していく。
光GENJIが活躍した80年代後半から90年代前半は、時代のトレンドが、アイドルからアーティストやバンドへと移り変わっていた時期でもある。
デビューを目指す男の子はバンドという形で、女の子は作曲はできなくとも自作詞でアイドルではなくアーティストを自称して “ガールポップ” という括りで世に出るようになっていった。
プロの作家が作った曲よりも、たとえ稚拙であろうとも自作曲が評価される流れのなかで、手練れのプロ作家が作った完成度の高い楽曲を、ローラースケートを駆使したパフォーマンスで歌い踊るジャニーズの王子様たちは異彩を放ち、特別な存在感を示していた。
人気のピークをすぎてトップの座を次代の “SMAP” に譲るまで、光GENJIは唯一無二のアイドルとして輝き続けた。
今、振り返ってみると、光GENJIという存在は、“おニャン子クラブの時代” を終わらせただけではなく、80年代まで続いた “日本のソロアイドルの時代” も終わらせたのだと思う。
ジャニーズ事務所はSMAP以降は、2人以上のグループでしかデビューさせなくなり、1990年代後半に登場した “モーニング娘。” 以降の女性アイドルも、ごく一部をのぞいてグループばかりだ。
光GENJIの個性が異なる7人の発する魅力を知ってしまったファンも、事務所やレコード会社、またテレビ、ラジオ、雑誌などの媒体も、もはやソロアイドルには物足りなさを感じるようになってしまったとしか思えない。
途絶えかけていた日本のアイドルの歴史をつなぎ、そして確実に時代を変えた光GENJI。SMAPや嵐のように評価されるべき存在だと考えている。
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2022.08.19