ジョージ・ハリスンのアルバム『想いは果てなく~母なるイングランド(Somewhere in England)』には、ふたつのヴァージョンが存在する。似て非なるそれらは、かつてコインの表と裏のような関係にあった。 タイトルを直訳すると「イングランドのどこか」。当初、アルバムにはジョージの母国であるイングランドというゆるい括りがあった。オープニングの「ホンコン・ブルース(Hong Kong Blues)」と、ラストのひとつ前に置かれた「バルチモア・オリオール(Baltimore Oriole)」というふたつのカヴァー曲が輪となり、アルバムはひとつの形を成していた。ホンコンとバルチモアは、かつてイギリスの統治下にあった場所。つまり、タイトル通りというわけだ。 アルバムジャケットにも意味があった。遠くを見つめるジョージの横顔。後ろ髪の装飾がイングランドの形をしている。つまり、ジョージは自分のアイデンティティを育んだイングランドから、世界と未来を見つめていたのだ。それがこのアルバムの立脚点だった。 収録された曲はどれも素晴らしい出来映えだ。この時期、ジョージは何度目かのソングライティングのピークを迎えていたと思う。音楽的なクォリティーの高さはもちろんのこと、どの曲にもジョージの深遠な人柄が滲んでいた。自然体なメロディーと穏やかな語り口から、このときのジョージの創造性が理想的な状態にあったことがわかる。 アルバムは1980年秋に完成し、発売日は1980年11月2日に決まった。プレスリリースも配られ、あとはリリースを待つのみだった。 ところが、発売の直前になってレコード会社がアルバムの内容に難癖をつけた。アップテンポな曲が足りないから曲を差し替えろというのだ。言う通りにしなければ、アルバムはリリースしないという。 どう考えても不条理な話だったが、ジョージは渋々この条件を飲んだ。結果、アルバム発売は延期され、曲は差し替えられ、ジャケットも変更になった。この状況に追い打ちをかけたのが、ジョン・レノンの射殺事件だった。ジョンの死はジョージを打ちのめしただけでなく、アルバムの内容にも影響を与え、周囲の事情をより複雑なものにした。 1981年6月1日、『想いは果てなく~母なるイングランド』は装いも新たにリリースされた。新たに加わった4曲は、どれもキャッチーなメロディーをもった魅力的なナンバーだった。そのうちの1曲はジョン・レノンの追悼ソング「過ぎ去りし日々(All Those Years Ago)」で、全米2位の大ヒットを記録している。 しかし、この変更によってアルバムが当初もっていたコンセプトやジョージのメッセージが大幅に薄められたことは否めない。「ホンコン・ブルース」はB面4曲目、「バルチモア・オリオール」はA面5曲目に移動し、ジャケットからはイングランドの姿が消え、タイトルはほぼ意味をなさなくなった。 強烈だったのは、新たなオープニングナンバーとなった「ブラッド・フロム・ア・クローン(Blood from a Clone)」の歌詞だ。 レンガの壁に頭を打ち付けられた まるで石のように堅い 音楽に用意された時間などない 彼らはクローンからの血が欲しいだけだ レンガの壁(brick wall)には、「越えることのできない障壁、批判を受けつけない人」といった意味もある。これがレコード会社を指しているのは間違いないだろう。変更されたジャケットでは、ジョージが大きな壁を背にして立っているが、この曲の歌詞に呼応しているのは明らかだ。 そして、「彼らはクローンからの血が欲しいだけだ」というフレーズには、今の自分の音楽を理解せず、いつまでもクローン(おそらく過去の自分=ビートルズ的なもの)を求められることへの痛烈な皮肉が込められていた。 そして、なにより驚かされるのは、アルバムの中でもっとも美しいメロディーをもった3曲「フライング・アワー」、「レイ・ヒズ・ヘッド」、「サット・シンギング」を差し替えことだ。あえていい曲からはずしていった印象さえ受ける。 この決断からも、ジョージの心中がいかに穏やかならざるものだったかが窺い知れる。どれもこの時期のジョージの代表曲として長く愛されたであろう名曲なだけに、とても残念だ。 まったく、どうしてこんなことになったのか?ひとりの偉大なアーティストが充実期を迎えていたことを理解できなかったレコード会社の罪は重い。今ではジャケットだけがオリジナル仕様に戻っている。なんとも中途半端な話だ。 このふたつのヴァージョンを僕は長年愛聴してきた。今ではどちらがコインの表で裏なのかもわからないくらいだ。それぞれに良さがあり、それぞれに悲しみがある。僕にはそのどちらもが同じくらい愛おしい。 もし最初のヴァージョンのままリリースされていたら、『想いは果てなく~母なるイングランド』はジョージ・ハリスンを代表する1枚になっていたことだろう。 しかし、現実は違った。 つまりは、そういうことだし、今となってはそれだけのことなのかもしれない。ただ、このアルバムにはこんなストーリーがあったことを、一片のパズルのピースとして、知っておいても悪くないとは思う。
2017.09.21
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