1981年結成、86年デビュー。デビュー以降9年間の活動期間には、あらゆるジャンルのロックを飲み込み、唯一無二の存在感を放つ。90年代以降の日本のロックバンドの礎を築いたその音楽性は、今も孤高の輝きを放つ。解散から四半世紀という時を経て2022年4月27日には全シングル18枚、38曲を完全収録した『BEAT-UP ~UP-BEAT Complete Singles~』がリリースされる。デジタルリマスターで蘇る名曲の数々。
今回のリリースを記念して、UP-BEATのフロントマンであり、数多くの楽曲を手掛けた広石武彦に、結成前から現在に至るまでの音楽遍歴とUP-BEATの全貌について話をうかがった。全3回のロングインタビューです。
第1回
北九州の音楽事情とUP-BEATデビューまでの道のり北九州の豊潤な音楽的土壌
― UP-BEATは結成40周年を迎えるということですね。
広石武彦(以下、広石):1981年結成なので、今年41年目に入ったところです。前身になるup-beat undergroundっていうのが最初で、残念ながら3月に亡くなってしまった映画監督の青山真治が最初のギターでリーダーでもあったんですよ。彼がいた時期は短くて、1年ぐらいかな。
― その時は、プロでやって行こうという意志で結成されたのですか?
広石:メンバーの意志はバラバラだったと思います。青山は大学受験も控えてたから、そこまで考えていなかったと思う。僕も、ひとつ年上ベースの花岡(和徳)さんもup-beat undergroundでは明確なプロ志向はしていなかったんじゃないかな。ただ、集まった時からメンバーの意識もレベルも他のバンドとは違っていた。明確にラモーンズとラモーンズ的な曲を作ろうっていうのが決まっていてシャープだったと思います。
― (インディーズ時代の海賊版アルバム)『UP-BEAT UNDERGROUND』って選曲のセンスも素晴らしいですよね。ラモーンズがカバーしていたオリジナルもセレクトしていますよね。
広石:ああ、「Let’s Dance」とかね。
― UP-BEATは “脱めんたい” という意識あったと思うんですけど、そういうセンスが福岡、北九州の土壌を感じました。
広石:不思議と、後にUP-BEATに入る東川真二は中学生の時に同じようなことをやっているんです。ラモーンズそっくりのバンド、The Modelをお兄さんとやってて、L-MOTIONRAGと言う番組でテレビに出たりしてましたよ。だから、北九州にはラモーンズがあるんでしょうね(笑)。ピストルズもあったけど、ラモーンズもあったという感じですね。
― あと、パブロックがあったり、R&Bがあったりという土壌があって、ルースターズがいたりという、地域の影響は大きかったですか?
広石:大きいです! だって、ルースターズの方々は僕の兄の1つ上ぐらいなんですよ。もちろん博多にはサンハウスもいたし。僕が小学校5年生の時に門司港の文化会館っていう場所でチャンピオンズシリーズっていうライブが行われて、そこにルースターズの前身だった薔薇族、サンハウス、シンデレラ… 福岡で有名なプロもアマチュアも混じったイベントがあって、そこに行くのはロック好きの小学生ならば普通の感覚でした。
青山とは、5年生の時、同じクラスになったんですよ。彼の筆箱にエアロスミスのシールが貼ってあるのを見つけたんです。それまで、周りにロックのことなんか分かって貰える友達なんて居なかったから、話せる人を見つけた!です(笑)。僕らは兄も同い年なんですよ。そこからの影響が大きかったと思います。
― 福岡の音楽シーンには、東京の流行とは違う確固たるものがありますよね。
広石:そうですね。薔薇族のメンバーが人間クラブを作る前に北九楽器で3人バイトしてたんですよ。だから楽器屋に行けば彼らに会えるわけです。
― あの地域ではスターですよね。
広石:スターです。それが会って話せるし、時々ギターを教えてもらったりもして。あと、ベースだった中村(守)さんは器用な方でシンセも弾くんですけど、「お前らちょっと集まれ」って呼ばれて、「今から俺がブッチャーのテーマ(註:ピンク・フロイド「吹けよ風、呼べよ嵐」)音を出すからな」って店に入ったばかりのシンセで、「ヒュー」ってやり出して、僕らは「すげ~!!ピンク・フロイドと同じだ!!って(笑)。そうした方々が憧れでもあり、お兄さん的な存在でもありました。
音楽の原体験はモンキーズ
― そういう状況だと、バンドをやるというのは必然でしたね。
広石:必然です。中学生の時には、「いつかやろう」と青山と話してました。
― 広石さんが最初に好きになったバンドは?
広石:幼稚園に上がる前にモンキーズですね。『モンキーズ・ショー』の再放送をテレビでやっていて、叔父が昔のオモチャみたいなスピーカー付きのレコードプレーヤーをくれたんです。それでモンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」とかが4曲入ってるSP盤を聴いたのが最初ですね。ソラで歌えるぐらい聴いていました。叔父や叔母が洋楽好きでよくレコードを持ってきてくれたんです。シュープリームスとかそういうのを聴いていて。
その後、僕が小学校2年生の時に転校して、親が食堂を始めたんです。その食堂は有線を入れるまではFMラジオをずっと流していました。ちょうどビートルズが解散して、ソロ活動を始めたジョージ・ハリスンとかリンゴ・スターがものすごくいい時で、フォークも井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげるとか普通にかかっていたし、デヴィッド・ボウイも「スターマン」が流行っていました。
― 72年とか?
広石:そうですね。72年ですね。
― そうすると、ロックの衝動より、メロディの部分の良さに引っかかったと。
広石:引っかかっていたんでしょうね。
― それがやはり後のUP-BEATに及ぼした影響なんでしょうね。
広石:そうですね。福岡の中ではUP-BEATはメロディアスな方ですもんね。音楽の原体験は子供の頃に受けているから、ロックだ何だって区別していないんですよ。そこから、72年以降になると、エアロスミスとか、ハードロックも来るし、その後パンクも来ますよね。それでもまだ小学生です。だから全部受け入れられちゃうというか。
― 幼い時からその衝撃を受ける感性がすごいですよね。
広石:家の食堂の近所に大里高校(現:門司大翔館高等学校)っていうのがあって、そこの生徒たちのたまり場になってたんです。そうすると、いつの間にかフォークギターがあったりするんです。誰が持ってきたか知らないレコード、『アグネス・チャン さよならライブ』から(笑)。なんでもあって。
そんな時期に新聞配達でお金を貯めた兄が、その高校生の一人からビートルズの全アルバムを中古で買ったんです。そうすると毎日ビートルズ漬けですよね。一番聴いたのは『アビイ・ロード』だったかな。大音響で聴いていました。兄はその後もバイト代でキング・クリムゾンだ、ツェッペリンだってどんどん買ってくる。更にはエレキギターまで買ってきて弾いてる。そうすると僕も自然と弾きますよね。
当時は、ステレオにギターケーブルぶっこんで、オーバーレベルにするとギターの音が歪むじゃないですか(笑)。(註:ギターの音が歪むのは、ギターアンプへの入力信号の大きさが限界を超える事で起こる<オーバードライブ>の原理による。その現象を広石少年はステレオをアンプ替わりに使って再現していた事になる)そうやって歪ませてクリムゾンの「太陽と戦慄」とか弾いてましたよ。小学生で(笑)。
同じ頃、青山は小学生なのに僕よりも遥かにギターが上手くて。彼の兄はうちの兄よりもっとマニアだったので、ロックは何でも知ってるんですよ。
ラモーンズを体現したup-beat underground
― その中でラモーンズを選んだというのは?
広石:なんとなくラモーンズだったんですよね。パンクに関してはピストルズとかも好きでしたけど、彼らはイギリスっていう階級制の国の労働者階級でお金もなくて… っていうのを、これも兄が毎月買っていたミュージック・ライフという雑誌で読んで知ったら、「俺、普通にコーヒー買えるしな」と思って、「そっちはやっちゃいけないのかな?」とか考えたりして。でもニューヨークパンクはそうじゃなくて、ラモーンズの人たちってアメリカ人で中流の普通の人たちなんですよ。それがあってラモーンズを熱心に聴くようになったのかも。だって、ロンドンパンクのクラッシュみたいに思い詰めたものは僕には何もなかったし(笑)。
― そのラモーンズを体現していたup-beat undergroundはいつぐらいまで?
広石:83年ぐらいまでかな。
― その頃にラモーンズ的なバンドから違う方向に行こうという意識が芽生えたわけですね。
広石:そうです。
― 具体的にどんなバンド像を描いていましたか?
広石:ラモーンズも現役だったんで、いつまでもラモーンズ・クローンは嫌だなって思って。僕がたくさんの音楽を聴いてきた原体験を活かしたいなとも思ったし、洋楽もポップなロックバンドが増えていたし。そっちに行けないかな? って思い始めたのが83年の終わりから84年ですね。
そこでプロ志向になりましたね。最初はめんたいロックの模倣もやっていたけど、これはダメだと。それで “脱めんたい” の方向に舵を切って。
― それはめんたいが嫌いになってということではないですよね。
広石:大好きでした。しかし、当時ルースターズもデビューしてたし、シーナ&ロケッツもデビューしてました。僕だってブルースは出来るんですけど、敢えてやらなくていいんじゃないかなと。ブルースならシーナ&ロケッツ観に行けばいいし、ルースターズ観に行けばいいし。レコード買えばいいし。実際、どちらのレコードも買ってましたから。
― ルースターズも “脱めんたい” じゃないですが、音楽性が変わっていきました。そこからの影響もありましたか?
広石:多分ルースターズが影響を受けてたエコー&ザ・バニーメンも好きだったですね。ブリティシュなんだけど、ドアーズの影が入ってるというか。そういうのが出てきたり、バウ・ワウ・ワウが出てきたり、80年代は音楽がどんどん変化してくる時期で。それに感化されていたとは思います。
― UP-BEATがデビューした頃の福岡のバンドって、アンジーとかアクシデンツですよね。その中でUP-BEATのオリジナリティはまた違うものでしたよね。
広石:どうなんでしょうね。僕らは最後に出てきてるから。一番下っ端だし、若造だったし。ただ、博多の人たちとは違っていたのかもしれないですね。一気に舵を切って、最初に出した12インチに収録した「Vanity~憂いの君~」とか、そういうのをいきなり作り始めました。最初からそうだったわけではないですが。
― 僕は、当時の博多のバンドが大好きなので、そういったところが不思議でした。
広石:ミッシングリンク的な感じがしますよね。
― そうなんですよ。すごく異端な感じがして。デビュー前には各レコード会社にデモテープならぬビデオを送ったという話も聞きました。
広石:博多には、モダンドールズ、アクシデンツ、アンジー、キッズというものすごいバンドがいて、ここで勝負してもしょうがないというのもあって、「博多はいいや」って飛び越して「東京に行っちゃえ」と。いろんなところに送りました。それもちゃんとしたプロモーションビデオになっていて、ルックスとかも意識して整えていたし。それに引っかかってだんだん名前が広まっていったという感じですね。
― やはり、ロックバンドとして、音とヴィジュアルは不可欠だということを意識されたんですね。
広石:そうですね。そっちの方が僕らには向いていると思ったので。ヴィジュアル先行でいいやと。僕らは博多で一番演奏が下手くそだったんですよ。だけど、演奏は練習すればいずれ上手くなるだろうと。その思いがあったから、大胆な、下手くそだけど、見た目が良いプロモーションビデオを作って引っかかってくれる人を探すというか。
― その時の反応はどうでしたか?
広石:博多でライブやったら、急に何社ものレコード会社の人が来ていてびっくりしましたね。
― その中のひとつがビクターだったと。
広石:はい。そうです。
(インタビュー・構成 / 本田隆)
レコード会社も決まり、いよいよメジャーデビュー! 次回はデビュー当時の苦悩や、UP-BEATの音楽性に欠かせないキーマンの登場など、当時のリアリティたっぷりにお届けします。
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2022.04.29