1991年といえば、私はズブズブのおマンチェであった。
下ネタではない。おマンチェというのは、80年代末〜91年頃にかけて、イギリスのマンチェスターの音楽シーンを中心に盛り上がった、マッドチェスタームーブメントの日本でのニックネームだ。
インディーレーベル “ファクトリー” が経営するクラブ “ハシエンダ” を聖地とあがめ、ダンスグルーヴとギターロックの大恋愛から生まれた、レイヴ~セカンド・サマー・オブ・ラヴ〜マッドチェスターをこよなく愛し、ブカブカのバギーパンツが基本のスカリーズファッションで決め、手にはマラカスとタバコを持ち、私は夜な夜な吉祥寺ハッスルやら下北沢ズー、週末は川崎クラブチッタを中心にダンス行脚していた。
ブリティッシュロックではなく、UK ロック。レイブで踊れるようなギターロックにダンスビートを採り入れ、結実としてヒットナンバーが咲き乱れ、マンチェスタームーブメントは英国中に広がった。
そのスタイルはインディーダンスとも呼ばれ、ザ・ストーン・ローゼズが89年にリリースした1stアルバム『石と薔薇(The Stone Roses)』のヒットから、世界に知られるムーブメントになっていく。
当時トレンディドラマで、安田成美が「ストーン・ローゼズの CD 貸そうか?」と言った台詞が今でも忘れられない。そのくらい日本でも話題となったのだ。
マンチェの有名バンドといえば、ジェイムスやザ・スミスは別格として、ストーン・ローゼズやハッピー・マンデーズ、来日の際に恵比寿界隈に牛のキャラクターシールがベタベタ貼られていたインスパイラル・カーペッツあたりか。日本勢ではフリッパーズ・ギターもブームを取り入れていた。
グラウンドビートでドラッギーでロックで横ノリでエクスタシーで祝祭感と多幸感にあふれたムーブメント。
その中心で踊りたい、と決めて初めてイギリスへ向かったのが、忘れもしない1991年の12月27日。
折しもクイーンのフレディ・マーキュリーが11月に亡くなった直後で、ロンドンのテレビでは「ボヘミアン・ラプソディ」がかかりまくり、特集号の雑誌が飛ぶように売れていた。よく見たバンドのポスターは、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインやニッツァー・エブ、そして、ニルヴァーナだった。『ネヴァーマインド』のジャケの、あの素っ裸の赤ん坊がレコードショップや街中を席巻していた。
大晦日のロンドンは街中浮かれ気分のアホアホばかり。昼からパブ全開。皆んなクリスマスの三角帽を被って酔っ払い、誰にでも挨拶して笑い、誰からもキスされた。
年越しイベントの会場は、「DAME」というクラブ。古いホテルを適当に改造して作ったらしく、一階は受付とクローク、二階がダンスフロアだった。体育館のようにだだっ広い。椅子もテーブルもない。ビールを飲んでいるとすぐ満員になった。
当時、全英シングルチャートトップ10にインしていたライト・セッド・フレッドやザ・KLF はもちろん、ワンダー・スタッフやジェーンズ・アディクションなどで盛り上がり、ギュウギュウで身動きがとれない中をひたすら踊りまくっていると、そろそろカウントダウンなのか、クリスマスの三角帽と、クリームチューブがバンバン配られた。
そしてニルヴァーナのあのギターが、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のあのフレーズが会場に轟いた。
うおおおおおおお! 地鳴りのような咆哮とともに、皆んな一斉に頭をぐるぐる回し始める。まるで獅子舞状態だ。次々と風が起こっていく。ある者はパンクスっぽいツンツンヘア、ある者は歌舞伎のようにロングヘアを振り上げる。またある者は染めたて真っピンクの髪でぶつかってくる(帰宅後、友達の白いパーカーはピンクに染まっていた)。
場内の興奮が最高潮に達し、揉みくちゃにされながら、私も歌っていた。大合唱だ。
Hello, hello, hello, how low
ニルヴァーナの人気はすでに日本でもうなぎのぼりで、アメリカンドリームを超特急で駆け抜けていってるというのは感じていたけど、イギリスでの現状を目の当たりにして、その凄まじさを思い知ったような気がした。
ニルヴァーナはオーディエンスに待たれていた。完全に待たれていた。そしてそれが91年度に聴いた最後の曲となった。
当時、日本ではまだまだおマンチェすらマイナーな流行だったが、イギリスでは轟音ドリーミーなシューゲイザーシーンが勢いを増していたし、アメリカからはグランジの台頭が始まり、おマンチェらしいおマンチェはそろそろ役目を終えようとしていた。
そうした音楽やカルチャーの潮目を私はこの目で見たんだろうなあと思う。そして、グランジの洗礼を受けたのだ。笑。
アメリカでニルヴァーナの2ndアルバム『ネヴァーマインド』がリリースされたのは91年9月24日。初週売上は6000枚で144位。どんどんチャートを駆け上がり、翌92年の1月11日付けビルボード総合アルバムチャートで、マイケル・ジャクソンの『デンジャラス』を抜いて1位になった。
日本では91年11月のリリースだったが、翌92年の2月にはもう来日公演を行っている。川崎のクラブチッタ、観に行ったなあ。確か駅前のデパートで買ったパジャマでステージに立ったんだよね、カート・コバーン。
ちなみに年越しイベント、92年一発目のナンバーは、マッドネス「ワン・ステップ・ビヨンド」だった。鉄板かよ! 笑。撒き散らされたクリームチューブのおかげで、滑って転びながらのスカダンスも最高。
本当に楽しい年越しだった。
だが、この後我々は帰りのタクシーでアホアホ運転手に振り回され、ホテルまで何時間もかかることをまだ知らずにいたのだった。
RAVE O〜N!!
2018.12.28
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