中学から高校にかけて、いちばんラジオを聴いていたという向きは多いのではないだろうか。
自分も例に漏れず、学生時代はテレビっ子であると同時にかなりのラジオっ子でもあった。プロ野球(=巨人戦)のテレビ中継が途中で終わってしまった後、試合の続きをラジオで聴き繋いだのも大きい。
テレビでどうしても観たい番組がなければ、そのまま22時台のワイド番組を聴いてから深夜放送へなだれ込むパターンも多かった。深澤弘アナの実況と関根潤三の解説が好きだったショウアップナイター派の自分が愛聴していたのは、圧倒的にニッポン放送。25時からの『オールナイトニッポン』は、翌日学校があるにも拘らず、ほぼ毎日聴いていた。さすがに27時からの第2部はなかなか聴けなかったけれど。
そのニッポン放送で自分が高2の時、1981年に始まったのが、『電話好きっ子 ラジオっ娘 男の子にはナイショなの』であった。同年代の女子たちがキャピキャピ話しているのを聴くのは、中学~高校と暗黒の男子校生活を過ごしていた者にとって、なんともいえない至福の時間だったのだ。
水島かおり・西端やよい・高橋めぐみによる、今で言う女子会。話を聴いていると、センターポジションの水島かおりがどうやら自分と同学年らしいと判って親近感が湧いたりしていた。リスナーからの相談事に答えて他愛のない話をするだけなのだが、妙にエッチな感じがしたのは番組タイトルのせいだったのかも。“男の子にはナイショなの” はずるい。
どうやら番組はわりと好評だったようで、年を越してすぐの1982年2月に3人のレコードが発売されることが決まった。デビューシングル「やったね MARIKO!」には、“ラジオっ娘・なんでも青春相談” の応募ハガキが同封されており、ジャケットに刷り込まれた相談券を貼って送ると、あなたの家に電話してお答えしますという趣向が凝らされていた。レコードを買ったものの、ジャケットの一部を切り離すことに抵抗を覚えた自分は応募するには至らず、まだそのハガキは手元にある。曲はノヴェルティタイプの楽しい雰囲気で、B面の「さよならのソネット」はメロウなバラード、どちらも嫌いじゃなかった。
続くセカンドシングル「恐れちゃいけない」は近田春夫の作詞・作曲によるテクノ歌謡だが、早くも4月にリリースされている。そして3人は『オールナイトニッポン』のパーソナリティーに抜擢されるのである。
そんな最も人気が盛り上がった中で出されたのがサードシングルの「茅ヶ崎サンライズ」で、堀江美都子「茅ヶ崎メモリー」、作曲者・新田一郎の「サンライズ・サンセット」との競作という面白い展開が成された。ちなみにラジオっ娘盤には新田一郎がコーラス参加している。最後の方で力士の名前が織り込まれたりしてコミックソングの要素もあるものの、爽やかなメロディはドライブミュージックにぴったりな逸品である。
ラジオっ娘は『オールナイトニッポン』を半年間務めた後、10月からスタートしたフジテレビ『笑っていいとも!』のレギュラーとなり、グループ名もリスナーの電話投票により “Lady, Oh!” と改められた。同月にはファーストアルバム、翌11月には4枚目のシングル「あいつ Bye Bye」をリリースするが、水島の病気などもあり、翌83年に解散へと至る。心機一転でさらなる活躍が期待されていただけに誠に残念。3人組女子アイドルはあまり長くは続かないというジンクスを、彼女たちもまた踏襲することとなった。
最後に解散後の3人について――
女優となった水島かおりは、のちに長崎俊一監督と結婚し、今も現役で活躍中。長く続けているブログでは、2009年に Lady, Oh! の CD がリリースされた時の感想が語られていたが、それによると、3人はあまり仲が良くなかったらしい(笑)。関西を中心にタレント活動を続け、『ダウンタウンのごっつええ感じ』にも出演した西端やよいは、なんと俳優の古田新太夫人に。唯一の東京出身者だった高橋めぐみは、大学を卒業した後にニッポン放送のアナウンサーとなり、結婚退職後は青山学院大学の准教授になったとのこと。
人生いろいろ、であります。
2019.02.21
YouTube / 廉太郎花畑
YouTube / Buggersaurus Rex
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