FM STATION 8090【小林克也 インタビュー】② 山下達郎「COME ALONG」とベストヒットUSAからのつづき
第3回:音楽カルチャーの激変とYMOの登場
1970年代のカルチャー流行を牽引した「JUN」と「POPEYE」
―― 1970年代から海外アーティストのプロモーション・フィルムは存在したが、それをしっかりと観ることが出来る機会はなかなかなかった。そのような状況の中でスタートしたのが『ベストヒットUSA』(1981年〜)だった。同番組の影響もあって、1980年代に入り音楽の聴かれ方、見方も大きく変わっていく。
小林克也(以下克也):1970年代のアメリカではプロモーション・フィルムを作るアーティストが増えてきました。ビデオじゃなくてフィルムです。この流れから、日本でもいち早く洋楽のプロモーション・フィルムを見せる番組がスタートし、そのDJを僕が担当しました。それが東京12チャンネル(1971年〜 )の『ナウ・エクスプロージョン』という番組です。大滝(詠一)さんなんかもよく観てくれていました。
この番組のスポンサーはアパレルブランドの『JUN』でした。当時社長だった佐々木(忠)さんは、“ファッションより、音楽が先だ” といつも言っていました。そして、なんとディスコまでやりはじめ、そこで僕はDJをはじめました。面白いのは、佐々木さんはパリに行った時、ディスコなんかを視察するわけです。それで帰国すると “うちの店でもタンゴをかけろ” というわけです。パリのディスコではみんな蝶ネクタイをした正装で遊びに来ている。ディスコで踊っているけど、急にタンゴをかけたらタンゴも踊ると。だから、これを日本でも流行らせろ!と。でも日本ではしらけてダメだったね(笑)
ファッションより、音楽が先だという主張があるから当時の『JUN』のショップには音楽コーナーがあって、ヨーロッパでヒットしているアフリカ系のアルバムなどを売っていました。そんな風に音楽とファッションはカルチャー、ライフスタイルとして切っても切り離せない関係性があるんです。1976年に創刊した『POPEYE』もそういうマガジンでした。“俺たちが先に行こう!” ということで流行を牽引していったんですよね。『POPEYE』が提唱するカルチャーがあったから音楽が広がりを見せていったんです。これはMTVが始まるずっと前の話です。

これまでの中途半端なものを全て壊していったパンクの出現
克也:1980年代に入ると音楽が全然違う聴かれ方、見方をされるようになっていきます。面白いのは1976〜77年にロンドンパンクが出現。もちろんニューヨークのシーンもあったけど、ロンドンのシーンは影響力が強くて、これまでの中途半端なものを全て壊していった。
パンク登場以前、最高の音と言われていたのがフュージョンで、一番売れていたのがジョージ・ベンソンの『ブリージン』(1976年)でした。一番いいスタジオで、一番上手いミュージシャンで、一番リッチな音を聴かせてくれるわけです。それがセックス・ピストルズやクラッシュが登場して流れが大きく変わっていったんです。彼らはメッセージを持っているから10代、20代ばかりでなく、40代のファンも現れ、彼らを支えていったんです。
パンクの連中は、R&Bのバンドなどが売り払ったアンプなどの機材を安く仕入れる。安い楽器と安い機材でやっているバンドの方が、それまでリッチな音を出していたバンドよりも力を持ってくる。それが後にニューウェイヴやオルタナにつながっていくわけです。1970年代の終わりにはカーペンターズやオリビア・ニュートン=ジョンに変わってブロンディが出てくる。パンクっていうのはいわゆるチンピラですよね。イギリスの評論家は “チンピラは2〜3年でだいたいが卒業する” と言っていたわけです。するとスペシャルズのような2トーンが出てきてニューウェイヴと言われるようになりました。
これと同時にR&Bの流れもあって、ボズ・スキャッグスやボビー・コールドウェルなどが出てくる。彼らのように、従来は黒人の音楽だったR&Bを白人が歌うようになる。それを最初に爆発させたのがビージーズの「サタデー・ナイト・フィーバー」なんです。これがディスコで大ヒットして、当時アメリカのエンタテインメントで一番稼ぐのはビージーズでした。いわゆるダンスミュージックの影響は、人々の生活が豊かになるにつれ、多大な影響を与えることになります。
YMOが受けた影響、与えた影響
―― こうした状況の中で1978年にYMO(Yellow Magic Orchestra)が登場する。デビュー当時のYMOの影響力はどのようなものだったのだろうか?
克也:ニューヨークでもパティ・スミスやトーキング・ヘッズのようなカッコいい前衛の要素を持ったアーティストが出てきます。日本もそういうムーブメントを追いかけていくんです。YMOはパンクとか新しいものが世界から出てくる流れの中で、日本からの答えを出しました。当時矢野顕子の旦那だった矢野誠(音楽プロデューサー)たちも参加し、細野晴臣が作った、まだYMOになる直前のデモテープを僕は聴いています。
細野さんは以前からクラウンレコードで、プレYMO的な音楽をやっていましたが、最終的には坂本龍一が加わって、全く新しいコンセプトを発表したんです。ドイツのクラフトワークに対抗するようなものを感じさせ、髪型もクラフトワーク風で、もみあげをカットしたいわゆるテクノカットも誕生させました。
面白い話があって、YMOが最初にコンサートをやった時はリーゼントの若者がたくさん観に来ていました。彼らはみんな(高橋)幸宏のファンなんです。幸宏は肉体的でカッコいいからね。だけど、リーゼントの彼らが次のコンサートに来る時はみんなもみあげを切ってテクノカットになっていた(笑)。ファッション面においてもそれくらいの影響力がありました。
小林克也が思い描く、理想的なラジオ
―― 今回『FM STATION 8090』シリーズでDJを務めた小林克也のトーキングにより、楽曲の素晴らしさがより際立つことは、一目瞭然だ。小林克也はDJの使命をどのようなものだと考えているのだろうか?
克也:DJというのは音楽の良さを伝えるのが使命です。しゃべることだけではない。1960年代後半にアメリカですごく人気のあったトニー・ピッグというDJがいて、しゃべりが他のDJとは大きく違う。なぜ人気があったかというと、トニー・ピッグの紹介の後に何も言わず曲が3曲かかるんです。その後に “この曲は〜で、次にかけたのは〜で…” としゃべって、次にまた3曲かける。彼は選曲で売っていたんです。
今のサブスクはリスナーの好みに合わせてAIが選曲をしてくれますよね。でも昔のラジオは、こいつ、何をかけるのかな? という期待感もあった。1960年代の終わりには反戦のメッセージソングがあって、そこにつなげるDJのしゃべり方が特に面白かった。
僕には理想的なラジオというのがあって、受験勉強をしたり、仕事をしたり、夕飯の準備をしている奥さんの傍でラジオが鳴っている。それで、時々、今、なんてった? なんて動作を止めてラジオを聴く。そういう存在というのが僕の中にある。サブスクで音楽ばかりを聴く人もいるだろうけど、従来のラジオ的なものは残ると思います。アメリカでは1/3がトークラジオですからね。そこで興味深いのは、アメリカでは極端なことを言わなければ面白くないということ。日本みたいに中道じゃないんです。これはラジオ局の意見ではなく、あくまで登場して喋っている人の意見だ。というスタンスから生まれるトークの面白さはアメリカ独特です。
ーー 1970年にラジオDJとしてデビューして、そこから半世紀以上も第一線で活躍。現在も音楽の素晴らしさを発信し続ける小林克也。『FM STATION 8090 ~GENIUS CLUB~ NIGHTTIME CITYPOP by Katsuya Kobayashi』においても、彼の音楽に対する深い愛情によって、収録楽曲が普遍的な輝きを増し、令和の時代に蘇った。小林克也のDJは、音楽に永遠の輝きを施してくれているのだ。
InformationFM STATION 8090 ~GENIUS CLUB~ NIGHTTIME CITYPOP by Katsuya Kobayashi
01:出航 SASURAI / 寺尾 聰
02:ピンク・シャドウ / ブレッド&バター
03:Boogie-Woogie Lonesome High-Heel / 今井美樹
04:ドラマティック・レイン / 稲垣潤一
05:セカンド・ラブ / 来生たかお
06:シルエット・ロマンス / 大橋純子
07:君のハートはマリンブルー / 杉山清貴&オメガトライブ
08:さよならのオーシャン / 杉山清貴
09:真夜中のドア~Stay With Me / 松原みき
10:都会 / 大貫妙子
11:ルージュの伝言 / 絢香
12:CHINESE SOUP / 土岐麻子
13:渚のモニュメント / EPO
14:HAPPY ENDでふられたい / 杏里
15:オリビアを聴きながら / 杏里
16:midnight cruisin' / 濱田金吾
17:アクアマリンのままでいて / カルロス・トシキ&オメガトライブ
*本作は、架空のラジオFM局から流れる番組という設定のため、DJのMCと音楽が混ざるMIXの音源となります。Previous article:2023/5/7
特集 FMステーションとシティポップ

▶ ラジオのコラム一覧はこちら!
2026.05.11