香坂みゆきは、テレビ東京で現在放送されている『なないろ日和!』で薬丸裕英と共に司会を務め、すっかり朝の顔としておなじみだが、そんな彼女の芸能界デビューはなんと3歳の時。横浜のデパートでスカウトされたことがきっかけだという。12歳の時には、テレビ番組『欽ちゃんのドンとやってみよう』のマスコットガールとして一躍お茶の間の人気者になり “ビーバーちゃん” の愛称で親しまれてきた国民的タレントだ。
その後、1977年に弱冠14歳でシングル「愛の芽ばえ」で歌手デビューし、今年デビュー45周年を迎えた香坂みゆきだが、約31年ぶりに歌手活動を本格的に再開。9月14日にはDIGITAL SINGLE「かもめはかもめ / 虹のひと部屋」をリリースした。「かもめはかもめ」はご存じ、1978年に中島みゆきが研ナオコに楽曲提供しヒットした名曲だが、それをカヴァーした香坂みゆきの歌声はまったく衰えることなく、31年のブランクをいとも簡単に縮めてしまったような印象を受けた。
カヴァー曲と言えば1991年に、香坂みゆきは3枚のカヴァーアルバムをリリースしている。
カヴァーアルバム『CANTOS(カントス)』は、日本の名曲をセレクトしたアルバムで、当時玄人筋でかなり話題になったシリーズだが、”早すぎたカヴァーアルバム” と称され伝説になりつつあった。しかし、新曲の発表から約1か月後の10月12日に、このアルバムの突如配信が開始された。個人的にこの素晴らしい作品が再び世の中に配信されることを、非常に嬉しく思う。しかし、香坂みゆきの45周年イヤーはそれだけでは終わらず、1977年〜1985年までにポリドールからリリースされた9枚のオリジナルアルバムが、11月16日に配信されたばかりだ。これまでにシンガーとして非常に高い評価を受けてきた香坂みゆきだが、ポリドール時代のオリジナルアルバム9タイトルが配信されるタイミングで、これまでの音楽活動についてのインタビューを3回連続でお届けします。
第1回の今回は、デビュー当時の歌手活動を中心にお聞きしました。
― 香坂みゆきさんのデビューは14歳とかなり若かったと思うんですが、もともと歌手願望はあったんですか?
香坂みゆき(以下香坂):山口百恵さんも14歳のデビューだったし、当時としてはそんなに早いデビューでもなかったような気がします。小さなころから歌うことは好きだったので、漠然と歌手になれたらいいなとは、思っていたかもしれません。
― 当時の出来事はわりと憶えていますか?
香坂:学校(堀越学園)に行くと、同級生に川崎麻世くんたちがいたので、いつも賑やかで楽しかったことは憶えています。77年デビュー組は年上の方が多かったので、早見優ちゃんたちのように、あまり横のつながりがなかったのですよね。82年組と83年組ってホント仲がいいですよね。
ー 改めて香坂さんのデビュー曲「愛の芽ばえ」を聴くと、とても14歳とは思えない大人びた歌声ですよね。
香坂:実は過去の自分の音源を聴けていない時期があったんです。ある時レコードプレーヤーを購入して久しぶりに自分の歌を聴いた時に改めて「なんて可愛げない歌声だろう!」って思いました(笑)。私の性格上、歌が上手くなくても可愛ければいいという風潮が好きではなかったので、私なりに歌はきちんと歌おうと思っていたのだと思います。
― このたび、香坂みゆきさんのポリドール時代のオリジナルアルバム9タイトルが一挙に配信されたのにあたって、改めてじっくり聴かせていただいたのですが、「こんなにもクオリティの高いサウンド作りをしていたんだ!」と、とても驚きました。
香坂:それは私も改めて強く感じました。先日も昔レコードを作ってくれた制作チームと久しぶりに会ってご飯を食べたんですけど、「ホントにいい作品を作ってくれてありがとう、当時はよくわかってなくてごめんなさい!」という気持ちになりましたから(笑)。当時は忙しかったし、時間に追われていたのでありがたみには気付けていませんでした。
― デビュー当時はやはり寝る暇もないくらい忙しかったのですか?
香坂:きちんと学校にも通っていましたし、終わってから仕事をして、レコーディングはだいたい夜中にやっていました。お正月のかくし芸大会とかは23時入りの27時アップみたいなのもざらにありましたし、地方から夜行列車で帰ってきて、朝上野で着替えてから学校に行ったりもしていましたよ。でも嫌いな授業は出ないで早退したりして、要領よくやっていましたけど(笑)。
― 70年代のご自身の作品を今改めて振り返って、どのように感じられますか?
香坂:それこそ、年に3枚シングルをリリースしていた時代は、ただただ時間との闘いだったと思います。自分的にあまり納得できていない曲も、レコードの即売会に行かなきゃいけないので、実は辛かった時期もありました。それが、80年代に入って「気分をかえて」や「レイラ」をリリースする頃には自分が本当に歌いたい歌をようやく歌える状況になってきました。
― 1980年に発売されたシングル「KIRARI」の頃から、ジャケット写真のビジュアルを含めて変化が見られますね。
香坂:この曲は伊藤薫さんに作っていただいた曲なのですが、薫さんの曲を歌うようになって徐々に変化してきました。薫さんは水越恵子さんの曲も多く作っていましたし、作家陣を含めてニューミュージック的なアプローチになってきて、音楽制作が面白くなってきた時期でした。
― 僕は「レイラ」(1982年)をテレビで歌うみゆきさんを見て、当時大きな衝撃を受けたのをよく憶えています。「え! これがあの香坂みゆきなの?」というくらい。
香坂:当時、あの曲を聴いてみなさん同じような感想を持ったみたいですね。先日、元・クリスタルキングの田中(昌之)さんのライブに行って、終わってから少しお話するタイミングがありました。その時「みゆきちゃんってさ、一時ロックやっていた時期があったでしょ? こっちの世界に来るのをずっと待っていたんだよ!」とおしゃっていただいて、「今でも待って下さるなら、行っちゃいますよ!」なんて冗談で話していました。当時は面白いことをやっているアイドルがいるなって感じで見て下さっていたのかもしれないですね。
― 80年代にリアルタイムで音楽を聴いていた世代は、みゆきさんはアイドルというより、ボーカリストのイメージが強いと思いますよ。
香坂:この時期になると、自分の意志を投影して音楽制作をさせてもらえるようになったと思います。デビューした頃は、私がいくら何かを言ってもスタッフのおじさんたちはまともに意見を聞いてくれませんでしたからね(笑)。私が所属していたサンミュージックでは、デビュー当時は牧村三枝子さんのいた演歌班だったので仕方ないのですが、80年代に入ってようやくやりたい音楽をやらせてもらえるようになりました。
― 僕は当時から山崎ハコさんのファンだったので「気分をかえて」(1981年)や「サヨナラの鐘」(1984年)のカヴァーはとても嬉しかったです。
香坂:当時のスタッフが、今のみゆきにハコさんの世界を歌わせたらどうなるのかという、ある意味挑戦だったと思います。あえてアバンギャルドなものを持ってきて下さったことが、大きな転機になりました。
― お話を聞いていると80年代の音楽制作は楽しかったみたいですね。
香坂:そうですね、今思えば贅沢な環境で音楽制作が出来ていたと思います。Bassといえば後藤次利さんが弾いてくれたり、管楽器が欲しいと思えばスペクトラムの新田一郎さんが参加してくれたり、一流ミュージシャンの方に参加していただいて制作していましたからね。
― 新田一郎さんが作曲・編曲を手がけた「流れ星」(1980年)は和モノDJの間でも評価が高いですもんね。シングル「KIRARI」のB面に収録されている「Falling night falling love」は韓国のDJ、Night Tempoがプレイリストで取り上げていて、最近人気曲になっていますよ。
香坂:えーそうなんですか! あの曲B面の曲ですよね。でもこうやってサブスクの時代になると、純粋に音楽を評価してもらえるのでとても嬉しいことですね。「流れ星」はKENTO’Sのライブで久しぶりに歌いましたが、昔からのファンの方にとても喜んでいただきました。レンジが広いので歌うのは大変なんですけど(笑)。
(取材・構成 / 長井英治)
■第2回予告
1991年にリリースされた伝説のカヴァーアルバム「CANTOS(カントス)」3タイトルについて、当時の状況や音楽に向き合う気持ちについてたっぷりと語っていただきました。
▶ 香坂みゆきのコラム一覧はこちら!
2022.11.20