2022年 12月21日

中森明菜はなぜ今も愛される? ① 初代ディレクター島田雄三が語るとっておきの話

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デビューから中森明菜が誕生するまで


1982年のデビューから40周年を迎え、ますます盛り上がりを見せる中森明菜さんの人気。その明菜さんのデビューから「ミ・アモーレ」までの期間を手掛けた音楽ディレクター・島田雄三さんと明菜さんのファン3人との座談会の様子を、全3回にわたってお送りいたします。当時の心境や楽曲制作の裏側を、じっくり聞かせていただきました。

■ 座談会出演者
島田雄三
音楽プロデューサー。1948年、東京都出身。ワーナー・パイオニアに1期生として入社し、ディレクターとして中森明菜など多くの人気アーティストを担当。1983年と1985年には日本レコードセールス大賞のディレクター部門で1位を獲得する。1994年にワーナーを退社してからは、ポリドールで田村直美、ソニー・ミュージックエンタテインメントでACOをブレイクさせ、現在も音楽プロデューサーとして活動している。2022年1月、著書『オマージュ〈賛歌〉to 中森明菜』がシンコーミュージック・エンタテイメントより上梓される(濱口英樹との共著)。


1965年女、雑食系オーディエンスの会社員。学生時代から洋邦ジャンル問わずポップな要素があれば何でも聴き、TV・ラジオ・貸レコードで広く浅く耳を育んだ。子供の頃は人並みに歌手に憧れるも、スター誕生での中森明菜さんのパフォーマンスを見て諦めた過去あり。当時の歴史を曲げないで伝えていきたい。

かなえ氏
1997年生まれ。高校生の時、中森明菜の「DESIRE−情熱−」をYouTubeで見たのをきっかけに、昭和ポップスを探究し始める。2020年5月、“聴く・観る・話す” で昭和ポップスの魅力を共有し合う音楽コミュニティ「平成生まれによる昭和ポップス倶楽部」を発足。現在は同団体の代表を務めながら、昭和ポップス好きな後追い世代の繋がりを広げるべく精力的に活動中。

さにー
昭和ポップスを愛する平成生まれ。学生時代のある日、中森明菜と出会い、カミナリに打たれたかのような衝撃を受ける。以降あらゆる昭和ポップスを探求し続けている。その魅力を後世に伝えるべく、サイト運営、ラジオ出演、コラム執筆、コミュニティ運営等を通して活動中。



40周年の今もなお愛され続ける中森明菜


リマインダー編集部(以下リマインダー):今、中森明菜はすごい人気ですよね。1982年にデビューして、今年でちょうど40周年というところで、なぜ今なおこれほど支持されているのかっていうのが、すごく興味深いです。

島田雄三(以下島田):僕も40年もこの人気が継続するなんて考えていたわけじゃないから。もう一作一作、一生懸命やってて、そうしたらこんなことになっちゃったっていう感じですから、驚いています。

かなえ氏:最近、中森明菜さんが平成生まれの若者たちにも響いてるということで、色々と特集をされる機会が多くなっているんですが、それは島田さんの耳にも届いていますか?

島田:ええ、やっぱり色んなところで記事を書いていただいてますので。それは随分読ませていただいております。

かなえ氏:それについて、どのようにお感じですか。

島田:本当にもう自分が望んでいた以上の反応で、びっくりです。

とはいえ、どんどん時代や媒体が変わっていく中で、常にメディアは明菜の話題を提供していてくださっていたので、僕の中では最近のブームというより、デビューしたころからずっと切れ目なく繋がってるという印象です。でも、今年の40周年というのは彼女にとっても大きいし、取り上げていただける機会も随分ありました。そういう意味ではやっぱりちょっと今年はヒートアップしているという感じがしましたね。

彩:ここ最近の明菜さんの人気について、やっぱりみんな “本物” 的なものに惹かれているのかなというふうに私は考えているんですが、島田さんはどうお考えですか。

島田:デビューのころから意識して、アイドルという枠に収めずに、ターゲットも音楽も広げていきたいと思っていました。だから時代を超えて色んな方たちに反応をいただいてるっていうのは、自分にとってもの凄く嬉しいことです。

当時シングルが50万、60万売れて、かつアルバムも同じぐらいの枚数が売れるアーティストっていうのはいなかったんですよね。唯一近かったのは松田聖子さんくらい。1982年っていうのは他社からもたくさん強力なアーティストたちが出てきた年だったし、特に明菜は『スター誕生!』でグランプリを獲ったものの、番組も最後のころで、視聴率もかなり落ちている時代に登場したアーティストだった。5月1日になんとかやっとデビューしたけれど、他のほとんどの歌手たちは3月、4月にはもうシングルを出していたから、僕らは一番最後の方。とにかくものすごくハンディキャップがありました。だから僕は一番最初のシングルから売れるなんてことは実は全く考えていなかったんです。明らかに出遅れたし、曲もほとんどビッグネームの方たちに当たったんだけど、ほとんどみんなお断りされてしまったし。

さにー:えっ、作詞家・作曲家の方に制作を断られてしまったということですか?

島田:はい。でも、僕はわりとそういう意味では負けん気が強くて天邪鬼だから、「それならそれでいいよ、やってやろう」っていう気持ちがものすごく強くありました。作家事務所というところに協力を依頼して、「どんなボツになったやつでもも構わないし、どんな人に提供した歌でも構わないし、書き下ろしか、ボツ曲かはどうでもいいから、とにかく良いと思う楽曲を僕のところにください」と言って楽曲集めをしたんですね。そのことで結果的に僕の自由に楽曲を作ることができたことは、ものすごく大きかった。

5月1日に「スローモーション」を、7月1日にファーストアルバム『プロローグ〈序幕〉』を出してるんですけど、デビューから2ヶ月で出したアルバムが、初登場7位なんです。こんなことってありえないんですよ。

彩:そうですよね。当時新人のアイドルのファーストアルバムがいきなり売れるっていうことは、あり得なかったです。

島田:そうなんですよ。やっぱりどこかでお客さんが明菜っていうひとりの人間の歌とかキャラクターとかアーティスト性とかを見てくださって、それにリアクションしてくださったっていう感じがすごくありました。当初からアルバムの売れるアーティストにしようというコンセプトがあったとはいえ、いきなり1曲目、1作目のアルバムからドンっと売れるなんてことは全く考えてなかった。

シングルにしたって、良くてもホップ・ステップ・ジャンプがいいところ。下手すれば5作目ぐらいまでブレイクが来ないかもというある種の長期的な戦略を持ちながらやりましたから、あんな早くにヒットするなんてことは想定外でした。これはもう、僕の力とか、もうそんなもんじゃない。ヒット曲とかヒットアーティストっていうのは、当時のレコード会社なら5万枚から10万枚ぐらいまでは、なんとか自分たちの力でいけるんです。でも、それ以上のブレイクっていうのは我々の力じゃないんですよ。何の力かっていうと、時代と神様の力なんです。そのくらい、「人事を尽くして天命を待つ」じゃないけど、そういう大きな、何か啓示みたいな部分がないと、ビッグアーティストってできないんですよ。



中森明菜の第一印象


島田:明菜のレコード会社がワーナーに決まりかけた時に初めて本人とミーティングをしたのですが、とにかくおとなしくて、僕が質問したことに対してハキハキポンポン返してくれるような子じゃ全くありませんでした。むしろお母さんが全部僕の質問に答えてくれるような子だったんです。だから僕は「これはしくったな」と思いました(笑)。かわいい子だなとも、歌上手い子だなとも思いましたよ。でも、喋れない子を捕まえてきてしまったかな、と感じました。これが僕の最初の印象です。

かなえ氏:明菜さんは制作にもすごく自分の意見を言うというのを聞いたことがありますが、最初はそういう感じではなかったんでしょうか。

島田:多分、意見はいっぱい持ってたんだろうと思うんですよ。でも決して多弁な子ではなかったし、口のうまい子ではなかった。あんまり自分で積極的にこう答えてくるような子じゃなかったんですね。だから、デビューしてから結構色々なところで雑誌の人とぶつかったとか、喧嘩して帰っちゃったとかいろんな話が聞こえてきた時は、結構びっくりだったんですよ。

彩:あのおとなしい子が、って……。

島田:そうそう。だから本人にも、「この前も雑誌で怒って帰っちゃったって聞いたけど、どうしたの」って聞いたんです。そしたら、「今日の下着は何色かとか、下着は何枚くらい持っているのかとかを聞かれた。なんで私は歌を歌ってるのに、そんなことに答えなきゃいけないの」と。

僕はその話を聞いていて、その通りだなと思いました。だから、「そういうことを言う方が間違ってるんだよ、いいよそれで。そんなことを言うような人たちのことは聞かなくていいよ。帰っちゃえ」って言ったんです。そしたらバンバン帰るようになっちゃった(笑)。その時「まずったかな?」と思ったりもしましたが(笑)。

彩:昭和の頃って、今で言うともう完全にセクハラなんですけど、そういう質問が当たり前に雑誌に載っていたんですよね。

島田:本当にそう。特に新人アーティスト、しかもまだこれがビッグなレコード会社だったり音楽事務所だったりすればまだいくらか遠慮してくれたんだろうけど、残念ながら当時の研音やワーナーというのは弱小プロダクションで、弱小レコード会社だったから、そういう遠慮もなかった。それに、そもそも当時のアイドルという位置が、やっぱりちょっと低いところにあったから。そういう意味では、「少女A」のときには山口百恵の二番煎じだろうっていう話も出てきたけれど、僕の中のコンセプトはこれまでのアイドルではなく、新しいタイプのアーティストにしようと思ったんですよね。僕の中では、薬師丸ひろ子さんみたいな人がかっこいいなと思っていた。セーラー服を着て機関銃をぶっ放して「カ・イ・カ・ン」っていうようなね。だから、デビュー曲の「スローモーション」は「セーラー服と機関銃」と同じ来生えつこさん・来生たかおさんに曲を頼んだんです。

さにー:へえ!

島田:で、さっきも言ったように最初から売れるなんて思ってなかったから。だからあんな地味な歌なんですよ。あんな地味な歌だからこそ、1年間もずーっとチャートの100位の中に入っていたんです。あれはやっぱり名曲ですよ。まさに噛めば噛むほど味が出てくる曲だったんです。



期待されていなかったからこそできた「スローモーション」


さにー:「スローモーション」を来生さんに依頼した時、どのように曲のイメージをオーダーされたのでしょうか?

島田:当時はえつこさんもたかおさんも、ものすごく売れているときで、いろいろなところからオファーがあって、かつご自身のアルバムもどんどん作らなければいけないときだったので、僕がお話にいったときは「今は新しい楽曲を作れません」と言われたんですね。僕はいわゆるビッグネームの人たちからも断られていて、来生さんたちのような新しい人たちとやるしかないわけだから「それはもう全然かまわない。今アルバムに用意してる楽曲でもいいから聴かせてください」って言ったんですよ。スローモーションは、その中の1曲です。書き下ろしじゃないんです。

一同:ええー!(驚きの声)

島田:いや、もしかすると僕がそう思っているだけで、たかおさんは「書き下ろしですよ」って言うかもしれないけど、僕の中ではでは書き下ろしであるかないか、どこでボツになったのかなんて関係なかったんです。ただ、いい楽曲が欲しかった。だってそれ以外に楽曲集める方法がないんだもの。

かなえ:「少女A」も、当時まだ新人作家だった売野雅勇さんを作詞に起用されていますよね。それもやはりビッグな作曲家・作詞家に断られてしまったからということですか?

島田:そう、作家事務所にお願いに行って、「誰が書いたか関係なく、いい曲・いい歌詞だと思うものを聴かせてください。見せてください」といって見せてもらった中に、「少女A」もありました。ですから、他のビッグネームな作家さんたちが仕事を受けてくださっていたら、もしかしたら今日の中森明菜はないかもしれないんですよ。だから、人生って塞翁が馬というか、ダメだと思って諦めるんじゃなく「だったら見てろ! 違う形でひっくり返してやるからな」っていうぐらいのつもりでやっていると、40年も人気が続くようなアーティストができちゃうこともあるんですよね。

さにー:先ほどからお話を聞いていると、明菜さんは事務所だったり、レコード会社の中での注目度とか期待度の優先順位の中で、もしかして、最初はあまり期待されてなかったところもあるんでしょうか。

島田:明らかにそうだと思いますね。ワーナーは当時洋楽では一流だったんですけど、邦楽では良く言って三流でしたから。アグネス・チャンさんとか小柳ルミ子さんとか、もちろん何人かはヒットアーティストも出ましたけれど、言われているような「アイドル」というのを作った例はほとんどなかったんです。業界的にもワーナーのアイドルというものに対しての評価というのは低かったと思うし、ましてやヒット曲を出しているレコード会社さんたちのアイドルはみんな先行してデビューしていたから、僕らはかなり後発でつらかったですね。だからほとんど相手にしてくれなかったっていう感じでした。

女性ファンが多い理由


リマインダー:当時は当然、出だしとしてはアイドル的な括りでデビューしたと思うので、女性のファンよりも男性のファンの方が圧倒的に多かったと思うんです。でも時が経つにつれ、女性のファンがどんどんどんどん増えていった。これはどういう風に見てましたか。

島田:仰る通りで、アイドルというのはほとんど男の子たちがヘビーユーザーで、そこに向かって楽曲を作っていたんですね。でも、僕はやっぱり違う戦略でいかないと勝てないと思ったから、男の子を無視したつもりはないけど、女の子たちにも聴いてもらえるような楽曲というのは最初から意識していました。だからどこかの段階でチェンジしたというよりかは、わりと最初の段階から女性にも聴いていただき、買ってもらえるようなレコードやアーティストにしたいという思いはありましたね。

彩:たしかに女の子のファンが増えていくみたいな感じはありましたね、当時の女の子のアイドル歌手で「この人いいな、格好いいな」と思うことってあんまりなかったんですが、明菜さんはそういう憧れの対象として映っていました。

リマインダー:楽曲に関しては最初の段階から女性にウケる要素みたいなものっていうのはもう入れ込んでたっていうことですよね。

島田:そうですね。それに元々そんなに愛想のいい子じゃないし、「みなさんよろしくお願いします♪」なんてタイプじゃ全然なかったから、本人が持っているそういうキャラみたいなものが、お客さんたちに自然と伝わっていったところもあるんじゃないでしょうかね。だから「何かちょっと他の子とは違う」という感じが、見て取れたんじゃないんですかね。「少女A」ぐらいまでは男性が7割8割だったのが、「セカンド・ラブ」あたりからは圧倒的に女性が増えてきました。

リマインダー:平成生まれの女性から見てどうですか? 女性が惹かれるような魅力みたいなものっていうのはあったんでしょうか。

さにー:女性だからかどうかはわかりませんが、私はモーニング娘。やAKB48がアイドルと言われる時代をリアルタイムで過ごしてきたので、アイドルというのはグループで、かつ可愛く元気で明るい女の子っていうのがアイドルのスタンダードだと自然と思っていたんです。でも中森明菜さんは孤高の存在という雰囲気が漂っていて、曲調も「可愛い」より「格好いい」ものが多く、たったひとりでステージの上でパフォーマンスをしていた。初めて見たときも「この人は普通のアイドルとは何か違う」というのはやはり強く感じました。

島田:多分、僕と明菜のコミュニケーションがうまくいったのは、僕の中にやっぱりそういう意識があって、ある種のシンパシーを感じていたからだと思うんですね、つまり正直言うと、僕はそういうルンルンランランタイプのアイドルは嫌いなんですよ。ミニスカートをはいてお尻をふってルンルンって言ってるのが、ウソつけ、っていうのが昔からあるんです。女の子ってそんなにカワイイだけじゃないだろう、なかなかみなさんしたたかでしょ、と思っていたところがありましたから。そういう部分もちゃんと自分の中で許容してあげないといけなくて、「アイドルなんだからこれはダメ」「あれはダメ」なんて言っちゃうと、やっぱりアーティストを潰してしまうと僕は思う。

綺麗事に聞こえるかもしれないけど、アーティストと僕らっていうのは、僕が偉いわけでも、アーティストが偉いわけでも絶対ないんですよ。上下関係を作っちゃうから、どこかでみんな崩れちゃう。僕はアーティストとの関係も、みなさんとの関係も、業界との関係もそう。絶対に仕事っていうのは50:50(フィフティーフィフティー)の感覚っていうのがお互いに一番仕事のしやすい環境だと思ってます。だから、新人アーティストであろうと無名作家さんであろうと、僕にとっては関係ないんですよ。50:50の関係の中で、こういうのもいいよなと認めてあげて、良いところはめちゃくちゃに褒め、怒るところは怒る。

さにー:なるほど……。

島田:我々は当時三流のレコード会社だったし、悪いけれど研音さんも四流のプロダクションだった。でも、三流のレコード会社と四流のプロダクションだったから「中森明菜」は良かったんです。一流のところでやったら、潰されますよ。最初から枠の中にハマっていないんだから。だってそうでしょ、考えてください。6人兄弟の5番目ですよ。僕はお母さんの話を聞いたことがあるけど、ご飯食べるのでも何でも、自分で食べないと自分の分がなくなっちゃうんですよ。そんな生まれ育ちをしてきた人達が抑えつけられたら、出てこられないですよ。だから、あるところまでは全部本人のことを認めてあげるんです。僕は衣装だ髪型だ何だって細かいことに関しては、ほとんど最初から全部明菜に任せてました。だから明菜としては最初から自分のことを認めてくれて、自分の思うようにやりなさい、やっていいんだよっていう環境だったわけだから、本人も楽だったでしょう。

ただ楽曲に関しては、僕が一生懸命作ってやるからねっていう、ある種の役割分担を最初からしていました。だから実は僕と明菜の関係の中でトラブったっていうのは「少女A」の時一回だけ。



「少女A」で大喧嘩


島田:「少女A」は大騒ぎでしたよ。もう有名な話になってると思いますけど、明菜がこの曲を歌いたくないと言って、「うるせえ!」「嫌だ!!」の大喧嘩。もう一生懸命説得しましたよ。「このAは明菜のAじゃないって、一般的な女の子達を称してのAなんだから」ってことを一生懸命伝えました。でも「嫌だーー!!」っていうんですから、「うるせえー!!」っていうしかないんですよ(笑)。もう最後はしょうがない。「これで歌わなかったら僕はもうあなたの担当降りる。だから歌えーーー!!」って言って。もう大喧嘩もいいところですよ。

さにー:本当に実際に本当に声を荒げての “喧嘩” だったんですか。

島田:そう、もう大喧嘩よ。涙流して鼻垂らしてやだーー!って(笑)。

彩:それだけ歌いたくなかったんですね。

島田:嫌だったんだね。そのあとしばらく口をきいてくれないから、今までみたいな冗談も一切できなかった。

さにー:へえー。

島田:でもヒット曲っていうのはありがたいものだよ。7月28日にセカンドシングル「少女A」が出て、「嫌だー!」っていってたはずの「少女A」の楽曲が、いきなりザ・ベストテンとかトップテンとかの番組に呼んでもらえたんです。リリースされた瞬間って言っていいぐらい、一気にドーンと行きました。そしたら明菜が「島田さん……」って。

一同:(笑い)

島田:かわいかったね〜〜。でも、絶対売れると思っていたから、なんとしてでも出さなければと僕も必死だった。歌詞を見て、それにうまく曲がはまった段階で、絶対売れると思ったんです。



かなえ氏:そう思われたのは、明菜さんの性格的な部分と「少女A」に重なるところがあったからなのでしょうか。

島田:重なったところもありますね、やっぱり女の子のリアリティっていう部分を追求しようと思ったし、「女の子の二面性みたいなものを出す」っていうのは、他のアイドルたちは絶対やっていないだろうと思ったから。そういうものを作ることで、お客さんたちも「何だよこいつ、どっちなんだよ」って思ってくれるだろうっていう僕なりの計算でした。だから最初の2年間っていうのはそういう表と裏を交互に出していったりしたんですが、それがものすごくうまくはまったんですね。明菜という歌手がどんどんと、場合によっては本物以上に何か大きなイメージに映ったっていうか。

でも、その頃はまだまだガンガン歌えるわけではなかったから、「少女A」にしろ「スローモーション」にしろ、声が幼いんです。その幼い女の子が「私 少女A~♪」って歌うから、しかもあのビジュアルで。見てる方もびっくりですよ。「この子どっちが本当なんだ」って、よりミステリアスに明菜をとらえてくれた。だから「少女A」が出たあと、またますますアルバムが売れちゃうわけですよ。


■ 次回予告
次回は、中森明菜さんのサウンドの秘密とレコーディングの様子に迫っていきます。座談会に参加した3人も驚きのレコーディング風景とは? どうぞお楽しみに。

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2022.12.15
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カタリベ
1992年生まれ
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