リリース45周年「夏の扉」
時に1981年初夏―― そのアイドルは「♪髪を切った私に 違う女(ひと)みたいと」と歌いながらも、頑なに髪を切らなかった。
そう、今年リリース45周年を迎える シングル「夏の扉」を歌った頃の松田聖子サンの話である。当時の彼女の髪型は、あの “聖子ちゃんカット” 。全体にレイヤーを入れ、ブローでサイドの髪を後ろに流し、耳の脇をフワッとふくらませるスタイルだ。ちなみに、冒頭のフレーズを歌う時、必ず聖子サンは左手をハサミに見立て、襟足を切る仕草―― 通称 “チョキチョキダンス” を披露した。もし、あのタイミングで髪を切っていたら、夏曲だし、ポジティブなイメチェンとして、それなりに話題になっていただろう。
しかし、聖子サンは髪を切らなかった。それは、所属事務所サンミュージックの意向だった。アイドル・松田聖子のイメージを守ろうと、頑なに “聖子ちゃんカット” を続ける道を選択したのだ。それもそのはず、当時、あの髪形はティーンの女子たちの間で大流行。一説には、中高生の6割は聖子ちゃんカット風だったとも。そんな状況で、本家本元がやめるわけにはいかない。
結果として、聖子サンはデビューから2年間、聖子ちゃんカットを守り、1982年1月リリースの8枚目のシングル「赤いスイートピー」からショート路線に転じた。それでもなお、ティーンの女子たちの間で聖子ちゃんカットは人気を保ち続け、同年デビューした “花の82年組” の新人アイドルたち(中森明菜、堀ちえみ、小泉今日子、早見優、石川秀美、三田寛子ら)も、一様に聖子ちゃんカットだった。プロがプロの真似をする―― これは凄いことである。
とはいえ、アイドルの髪型がティーンの女子たちの間で流行るのは、何も聖子サンが初めてじゃない。古くは、1972年にデビューした麻丘めぐみサンの “お姫様カット” や、1975年リリースの「年下の男の子」でブレイクしたキャンディーズの伊藤蘭サンの “蘭ちゃんカット” も、当時ミドルティーンの女子がよく真似をした。ただ、それらのスパンは、せいぜい1、2年。これに対して聖子ちゃんカットは、実に1980年代半ばまでブームが続いたのである。

アイドルの髪型は、変えることより、変えないことのほうが難しい
僕はかねがね、アイドルの髪型は、“アイドル” というキャラクター商品の1つのスペックだと思っている。1人のアイドルが世に出るまでには、レコード会社や芸能事務所を始め、作詞家、作曲家、アレンジャー、スタジオミュージシャン、振付師、美容師、スタイリスト、カメラマン、テレビ・ラジオ局、出版社、広告代理店、スポンサー等々、多くの関係者のサポートがある。
そう考えると、アイドルが個人的な理由で髪色や髪型を変えるのは、あまり得策じゃない。どうしても変えたいのなら、アイドルをやめてアーティストになるといい。アイドルとアーティストの違い―― 前者に求められるのはキャラクターとしての商品価値であり、後者に求められるのはアーティストとしての作家性だ。どちらが上か下かではなく、両者の成り立ちの違いである。
もとより、クリエイティブ的なことを言えば、アイドルの髪型は、変えることより、変えないことのほうが難しい。なぜなら、ファンより先に本人が飽きるから。ただ、乃木坂46などを見ると、卒業した西野七瀬や齋藤飛鳥など、人気メンバーほど髪型を変えなかった印象がある。逆にもうひとつパッとしないメンバーほど、コロコロと髪色や髪形を変え、ビジュアルが安定しない傾向に。案外、そんなところが両者の差が開いた要因かもしれない。
で、改めて松田聖子サンである。2年間、聖子ちゃんカットを変えなかったおかげで、ソレは彼女のアイコンになり、気付けばトップアイドルになっていた。少々前置きが長くなったが(長すぎる!)、いよいよ本題の聖子サンの髪型ヒストリーの話に移る。稀代のアイドルは、いかにして輝きを保ち続けたのか。
聖子ちゃんカットが生まれた経緯
まず、80年代を象徴する “聖子ちゃんカット” は、どういう経緯で生まれたのか。ファンなら誰もが知る話だけど、当時、サンミュージックの事務所から徒歩5分のところに、今は亡きヘアーディメンションの四谷店があり、聖子サンと、同店オーナーの飯塚保佑氏が話し合いながら、あの髪形を作り上げたという伝説がある。ただ、聖子サン自身は、その髪型のベースとなるシルエットは既に久留米の高校時代にあったと証言する。実際、当時の写真を見ると、初々しい制服姿の聖子サンは短めのボブで、既にサイドを後ろへ流している。
そう、サイドを後ろに流す―― 言うなれば “外巻き” 。これこそが聖子ちゃんカットのオリジナリティだった。それまでのアイドルの髪型は、桜田淳子もキャンディーズも太田裕美も岡田奈々もピンクレディーも大場久美子も、みーんな内巻きだった。ただ、ボリュームを出しやすい反面、やや重く見える欠点もあった。対して、聖子ちゃんカットは正面から風を受けると、鳥が羽根を広げるように軽やかに見えたのである。
一方、これも有名な話だが、その髪型の源流は、聖子ちゃんカットが誕生する3年前の1977年に日本に上陸していたという見方も。そう、米ドラマ『チャーリーズ・エンジェル』に出演していたファラ・フォーセットの通称 “ファラ・カット” だ。ロングヘアーにレイヤーを入れ、サイドは外巻きに後ろへ流し、全体の毛先を遊ばせる。歩くと髪が軽やかに動き、開放的に見えた。
ドラマの放映と共に、たちまち日本でも彼女の人気に火が着いて、街にはファラ・カットを真似る女性たちがそこかしこに出現した。ドラマの舞台が西海岸で、折からのサーフィンブームとも重なり、サーファーカットとも呼ばれた。ただ、元来ウェーブヘアのアメリカ人と違い、直毛の日本人がこれを真似るには、前の夜にカーラーを多く巻く必要があり、セットが大変だった。また、黒髪だと重く見えるのでカラーリングする女性もいたが、当時の日本のカラー技術は髪を痛めることも少なくなかった。
そんなこんなでファラ・カットは1980年代になるとトーンダウン。替わって、日本人もマネしやすいヘアスタイルとして、ファラ・カットのミディアム版とも言える聖子ちゃんカットが台頭したのである。髪の長さはロングボブからミディアムくらい。全体にレイヤーを入れ、前髪は眉が隠れる程度。あとはブローで仕上げるが、この時に活躍したのが、髪を巻きながらセットできる “くるくるドライヤー” だった。これを使ってサイドの髪を後ろへ流し、晴れて聖子ちゃんカットが完成する。

メディアは騒然、ファンの間では論争になった “ショート聖子”
実は聖子サン自身、デビュー時から聖子ちゃんカットが完成していたワケではない。「裸足の季節」を歌っていた頃は、まだ髪がボブくらいで、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)の初出演時は、おにぎりみたいだった(これはこれでカワイイ)。ただ、『ザ・ベストテン』(TBS系)でもよく話題にしていたが、彼女は髪が伸びるのが異常に早い(本当)。次の「青い珊瑚礁」の頃には、ミディアム程度に髪が伸びて、もう往年の聖子ちゃんカットになっていた。ちょうど歌が大ヒットして、テレビの露出も突然増えたので、このタイミングで完璧なスタイリングを披露できたのは大きかった。
かくして、聖子ちゃんカットはブレイクする。ただ、聖子サン自身の髪質は細く、軟らかいため、この髪型をキープするには全体に軽くパーマをかける必要があった。また、1日に何回もブローするので、次第に髪も痛んでいった。そうして、1981年10月リリースの「風立ちぬ」の頃には、パーマのかけすぎもあって、かなり髪のダメージが進んでしまった。かくして、彼女は10枚目のシングル「赤いスイートピー」を機に、髪を切る決意をする。
そうして、1982年の “ショート聖子” が登場する。この “事件” は当時、ファンの間でかなり論争になった。デビューから2年間、守り通した聖子ちゃんカットと決別したのだから、メディアも大騒ぎした。正直、髪を切った当初は、否定派のほうが多かった気がする。また、「赤いスイートピー」のジャケット写真はミディアム時代のポニーテールの聖子サンだったので、余計に、こっちの方がいいとする意見が目立った。
ここで、“シングルジャケット1つ前のビジュアル説” を提唱したい。1980年代のアイドルは大体、3ヶ月おきにシングルを出したので、ジャケット写真を見れば、当時を回想できると考えがちだ。だが、そこに落とし穴がある。シングルのレコーディングやジャケット撮影は、発売日の2、3ヶ月前に行われるので、ちょうど1つ前のシングルを歌番組で披露している頃のビジュアルになる。つまり―― そのシングルのオンタイムのビジュアルは、次のシングルのジャケットが “正解” になる。1つズレるのだ。
なので、「赤いスイートピー」の頃のショート聖子は、次のシングル「渚のバルコニー」のジャケットで確認できる。それまでのセンターパート(真ん中分け)を七三(分け)に変え、やや強めのパーマでスタイリング。襟足はタイト。よく言えばボーイッシュ、悪く言えばおばさんっぽいというか――。この路線は、同年の夏曲「渚のバルコニー」と「小麦色のマーメイド」で更に進化して、前髪は浮かせて横分け風になり、襟足は更に短くなった。

奇跡の年と言われた1983年の松田聖子
この年、聖子サンはユーミンの提供曲を歌ったことで、女性ファンを一気に増やすが、相対的に男性ファンの比率が下がった。要因として、この髪型が影響したとも言われた。よく見られる現象だが、女性が突然ショートにした際の反応は、男女で180度異なる。女性は一様に “かわいい~” と絶賛するが、男性は大体無口になる。正直、当時の僕も “うーん…” と、ただ唸るばかりだった。
しかし、明けない夜はない。年が明けて僕らの聖子サンが帰ってきた。ストレートパーマをかけた彼女は、シンプルなセンターパートのボブになり、髪色も黒髪に戻し、まるで少女のような微笑みを見せた。そう、奇跡の年と言われる “1983年の松田聖子” である。「秘密の花園」を歌う彼女は、『ザ・ベストテン』で白の超ミニのスーツを着こなし、図らずともパンチラを披露し、テレビの前の野郎どものスイッチが再び入ったのである。
個人的には、松田聖子史上最高の髪型は、その次の13枚目のシングル「天国のキッス」だと思う。この頃にはストレートヘアはミディアムくらいまで伸び、完璧なフォルムを形成していた。言うまでもなく、オンタイムの写真は次のシングル「ガラスの林檎」を参照してほしい。一方、歌番組ではハーフアップにする機会が多く、これも神がかり的に可愛かった。特に、かの有名な風船のセットをバックに歌う通称 “風船天キス” の破壊力たるや。
そして、次の「ガラスの林檎」で一瞬、髪を切りすぎてしまうが、心配ご無用。聖子サンは髪が伸びるのが芸能界屈指に早く(笑)、間もなく、その悩みは解消される。現に、そのまた次の「瞳はダイアモンド」になると、再び美しいストレートミディアムを魅せてくれた。時にそれは様々なアレンジが施されたが、総じて美しかった。そんな風に幸せな1983年は幕を閉じた。

1981年の紅白歌合戦で歌った「夏の扉」、その時聖子は…
僕が、彼女の髪型を語るのはここまでである。翌年―― 1984年は、16枚目のシングル「Rock'n Rouge」を皮切りに、聖子サンの髪型は覚醒する。同曲を起用したカネボウ化粧品・バイオ口紅のCMは先録りなので、辛うじて前年の名残のストレートヘアが拝めたが、歌番組ではカーリーヘアに挑戦したり、「ピンクのモーツァルト」では刈上げヘアで攻めたり、「ハートのイヤリング」になるとショートソバージュの前衛カットを披露したり――。ちなみに、「ハートのイヤリング」の髪型をテレビで見た松本隆サンは静かに席を外したという。僕も同じ気持ちだった。だから、あえて同年以降の論評は控えたいと思う。もちろん、そんな攻める聖子サンが好きな方もいるだろう。その思いは尊重したい。
最後に、1981年12月31日の『第32回NHK紅白歌合戦』を紹介して、このコラムを終えたいと思う。前年に続いて2回目の出場となった聖子サンは、この日、白組の郷ひろみサンの「お嫁サンバ」に続いて9番目に登場、「夏の扉」を歌った。イントロに乗って、小走りでステージに現れた彼女は、紅白用に仕立てられたゴールドのミニのドレスでリズミカルに歌い始めた。
髪を切った私に 違う女(ひと)みたいと
アップになった聖子サンを見て、僕は言葉を失った。なんと――本当に髪を切っていたのだ。恐らく、日本中のお茶の間の男子が、僕と同様、腰を抜かしたと思う。聖子サンはショートになっていた。いつもより照れながら歌う姿がブラウン管の中にあった。
その日、“チョキチョキダンス” が気持ち大振りだったのを、今でも覚えている。
Previous article:2024/3/10
▶ 松田聖子のコラム一覧はこちら!
2026.04.25