薬師丸ひろ子、学生から歌手としての自意識を確立
1988年3月、薬師丸ひろ子は玉川大学文学部を無事卒業する。これは “薬師丸ひろ子=学生兼映画女優” というフォーマットが解体された瞬間でもあった。
“あくまで学業中心で芸能活動は副業です。基本、映画にしか出演しません。テレビは映画のプロモーションに限ります。出版も角川書店グループが中心です”
むろんこれは、角川春樹プロデュースによる戦略でもあったのだろうが、存在自体が社会現象化しながらも、一方で「自分は役者に向いていないのではないか」と思い悩んでいた当時の薬師丸にとって「本業は学生」という立て付けは、心身を支えるバランサーのような役割を果たしていた。
しかし時は過ぎ、カドカワからも独立し、大学も卒業。もう「学生」という肩書は使えない。ここから先はまじりっけなしの「社会人」であり「女優・歌手」である。
はたして薬師丸が決意のルビコン川を渡るその瞬間にとりかかった仕事は、女優業ではなく、意外にも歌手業であった(このあたり、原田知世とまったく同じなのが面白い)。
1988年3月1日、シングル「終楽章」リリース。翌2日からは『夜のヒットスタジオ・デラックス』のマンスリーゲストとして5週連続登場、後に「Tea Party -卒業記念-」としてビデオ化された番組内ライブをはじめ、毎週さまざまなレパートリーを披露する。そして『夜のヒットスタジオ』でも先行披露された楽曲を含んだアルバム『Sincerely Yours』を1988年4月6日に発売する。これは薬師丸ひろ子自身がプロデューサーとしてはじめて名を連ねたアルバムでもあった。リリース前後の経緯、作品のクオリティーなど総合的に判断して、このアルバムで薬師丸ひろ子は歌手としての自意識を確立したと見ていいだろう。
気鋭の才女たちが集う優雅なサロン「Sincerely Yours」
『Sincerely Yours』に収められた楽曲は、すべて女性シンガーソングライターの手によるものだ。
中島みゆき、竹内まりや、吉田美奈子、大貫妙子、尾崎亜美、EPO、さらに薬師丸ひろ子自身も1曲担当。ユーミンを除く80年代を代表する女性シンガーソングライター選抜メンバーと言っても差し支えないラインナップに恐れおののくが、作品に肩肘の張った部分はまるでない。みゆきもまりやも美奈子もみな、薬師丸を素材にのびのびと自分の持ち味を活かしていた楽曲作りをしているし、これだけの強烈な個性が集まっているのに、個性のぶつかり合いもなく自然に調和している。
このアルバム、普段はとんがりまくった気鋭の才女(シンガーソングライター)たちも、薬師丸さんならと、ここでは素顔で相対しているようなところがあるのだ。
これはひとえに薬師丸の育ちの良さ、誠実な人格に負う部分が大きいのだろう。彼女には聖母のような大きな慈愛と安心感が常に漂っていた。結果、このアルバムは、気鋭の才女たちの集まった午後の優雅なサロンといった印象が強い。
全体を包むさりげない洗練と気のおけない雰囲気がたまらない。アイドルポップスにおいても、このような本当の意味で贅沢な音空間が作れたのが、80年代後半という時代であった。
提供アーティストに引けを取らない薬師丸ひろ子の唯一無二のボーカル
またこのアルバムは既存曲のカバー、また後に提供アーティストがセルフカバーした楽曲が多数収録されているところも特徴的だが(「時代」「もう一度」「色彩都市」はカバー、「ル・パ・ラ」「雨はやまない」「おとぎばなし」「終楽章」は後に提供作家がセルフカバー)、それぞれの提供アーティストが、シンガーとしても強烈な個性を有しているにもかかわらず、薬師丸ひろ子のボーカルが、それらに対して一切引けを取らないところも聴きどころだ。
薬師丸ひろ子は、闘争心をむき出しにするでもなく、柔和な顔つきと物腰でさりげなく歌に入り込んで、独自の、神秘的とも言える歌世界を構築していく。
その自然体のようでいて、表現者として確固たるパワーのある、凛とした姿勢に、提供作家たちは、
「ひろ子ちゃんの歌、素敵ね、プレゼントしてよかった」
「私も歌ってみようかしら」
そんなふうに触発されたのではなかろうか。
このアルバムに収録されたカバー曲がすべてそれぞれの作家にとって重要曲であるのも、その後のセルフカバーが多いのも、ただ単純に曲を提供したというのではなく、作家と薬師丸ひろ子との間に、曲を介在として深い精神交流があったことの証明のように感じるのは、大げさな解釈だろうか。
じりじりとランクを上げたシングル「時代」のチャートアクション
薬師丸ひろ子の歌手としての唯一無二の実力を感じ取れるアルバムとしても『Sincerely Yours』は忘れ得ぬアルバムといえる。
このアルバムで歌手として確立した薬師丸ひろ子は、歌手としてより一層積極的に活動するようになる。また多くの聴き手も、歌手としての薬師丸ひろ子を再認識するようになる。
1988年7月にこのアルバムからリカットしたシングル「時代」が、オリコンチャート初登場26位だったのが、じりじりとランクを上げ、最高9位を記録したのは、まさにその証左であろう。
「中島みゆきの「時代」もいいけれども、薬師丸ひろ子の「時代」もいいね」
この流れで、翌年のシングル「語りつぐ愛に」、アルバム『「LOVER'S CONCERTO』の両ヒットに結びつく。
歌番組での積極歌唱やセルフプロデュースの深化など、1989年の薬師丸ひろ子は女優という文脈から離れてセールスを大幅に伸ばすのであるが、この詳細は他のカタリベに任せて今回はここまでとしたい。
薬師丸ひろ子 歌手活動40周年記念
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2021.12.03