連載【90年代の伊藤銀次】vol.7
「ガッツだぜ!! 」でのブレイクまで2年かかったウルフルズ
1995年末から1996年にかけて「ガッツだぜ!!」のいきなりのヒットでウルフルズの存在を知った人たちの中には、これが彼らのデビューシングルだと思っていた人たちがずいぶんと多かったのだが、実はこのブレイクに至るまでになんと2年ほどの歳月が流れていたのである。
厳密にいうと、この2年というのは、僕がプロデューサーとして関わってからの年数で、1992年に彼らがシングル「やぶれかぶれ」でメジャーデビューしてから数えると、なんと3年。まさに昔から “桃栗三年柿八年” というように、決してたやすく得ることができたサクセスではなかったのだ。
今振り返ると、僕にとってもなかなか体験できないようなとても貴重なウルフルズとの共同作業。それでは記憶をたどりながら思い出すままに、そんな彼らのサクセスにまつわる数々のエピソードを紹介していくことにしよう。
日本人には珍しい乾いた声でシャウトするトータス松本
ウルフルズのプロデュースの依頼を、当時の東芝EMIの子安次郎さんから受けたのは1993年の12月。依頼を受けて彼らのデビューアルバムを聴かせてもらったが、おもしろそうなタイトルの曲が多い割には、どの曲も詰めが甘いのか、あまりピンとこなかった。
そこで彼らのライヴを見に行ったところ、ちょっとパンクバンドっぽい荒削りなところは悪くないのだが、どうも全員のグルーヴに一体感がなくてどうしたもんかととまどうばかりだったが、トータス松本の歌にはかなりビビッとくるものがあった。
のちにいっしょに作業していくうちにどんどんと彼の歌の力は増していくことになるのだが、そのライヴでまだ荒削りながら、オーティス・レディングやウイルソン・ピケットのような日本人には珍しい乾いた声でシャウトする姿にかなり驚かされたのだ。そしてまるであばれ馬のようだけど、ドラミングに “歌” を感じさせるサンコンJr.のドラムも僕の好きなタイプ。バンド全体のサウンドには決していい点数はあげられなかったが、俗にいう “バンドの縦線” であるヴォーカルとドラムがいいとなんとかなるかなと、このバンドのプロデュースを引き受けることに決めたのだった。
ジェイムス・ブラウン顔負けのパフォーマンス
さらに、サウンド的にはまだまだ未完成だったけれど、プロデュースを引き受けようという気になったもうひとつの大きな要素があった。それは彼らのエンタメ精神に溢れるステージングのおもしろさだった。
特に「いい女」という曲の出だしで見せるトータスのジェイムス・ブラウン顔負けのパフォーマンスは最高だった。その頃のトータスはギターをあまり弾かずヴォーカルだけのことが多かったので、全体としては、ドラムス + ベース + ギターで、スリーピースのパンクバンド風だったが、ひょっとして彼はソウルミュージックが好きなのではと思わせるフィーリングの片鱗をかなり感じることができた。
ここは徹底的なアプローチで臨みたい
プロデュースを引き受けるにあたって、僕は子安さんに条件を提示することにした。それは、サウンドのアレンジだけのよくある名ばかりのプロデュースではなく、作詞作曲の曲作りの段階から関わって、レコーディング、ミックス、マスタリングまですべての工程に全責任を持って関わる、真の意味でのプロデュースをぜひさせてほしいというお願いだった。
まだ未完成だが、どこかその氷山の下になにか素晴らしいものが潜んでいるかもしれないという予感から、ここは徹底的なアプローチで臨みたいという僕の意思の表れに、子安さんから “望むところです” といううれしいお返事をいただき、いよいよ翌1994年1月7日に、トータス松本、ウルフルケイスケ、ジョン・B・チョッパー、サンコンJr.とはじめての顔合わせ。年が明けていよいよ彼らとの真剣勝負で大変な作業が始まったのであった。
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2024.09.08