初のチャート1位、ミリオンセラーを記録した「バンザイ」
1996年1月24日、ウルフルズのアルバム『バンザイ』がリリースされた。
ウルフルズは1980年代後期に大阪で結成され、1992年にシングル「やぶれかぶれ」でCDデビューした。しばらくは大きな注目を得られなかったが、1995年末に発表した「ガッツだぜ!!」がスマッシュヒット。
このヒットを受けてリリースされたのがサードアルバムの『バンザイ』だ。このアルバムはウルフルズにとって初のチャート1位を獲得し、ミリオンセラーを記録。まさに彼らにとっての出世作となった。
1995〜96年の日本の音楽シーンは、trf、Globe、安室奈美恵などを手掛ける小室哲哉、MrChildren、MY LITTLE LOVERの小林武史といった作曲家系プロデューサーや、B’z、大黒摩季、ZARDなどを輩出するビーイングなどのプロデュースシステムが多くのヒット曲を量産していた。それらのヒット曲の多くは、最新デジタル機器を駆使したダンサブルなサウンドによって新しい時代の音楽のイメージをアピールしていった。
こうした流れのなかで、ウルフルズは明らかに異質な存在に見えた。この時代のヒット曲の多くが、洗練されたコンテンポラリーなデジタル・ダンス・ミュージックのテイストを感じさせたのに対して、ウルフルズの音楽はダンサブルではあるけれど、もっと荒削りで、あえて言えば、ポップミュージックの過去を彩ってきたサウンドを確信犯的に追体験していこうとする覚悟が感じられた。
デジタルサウンド至上主義がリードしていた1996年に、ある意味で時代錯誤にも見えるサウンドアプローチに徹したことで、ウルフルズは逆に時代に埋もれずに個性を輝かせることができたのではないか、そんな気がする。
例えば、彼らの最初の大ヒット曲である「ガッツだぜ!!」は、若いファンにはただ陽気でノリの良いダンサブルな曲と感じられただけかもしれないが、ある程度のキャリアの音楽ファンなら、この曲が1970年代のアメリカで大ヒットしたマイアミ・サウンド、K.C.&ザ・サンシャイン・バンドの「That’s the way」(1975年)のモジリ(パロディ)になっていることがわかって、その遊び心にニヤッとした人も多かったのではないだろうか。
プロデューサーとして貢献した伊藤銀次
ウルフルズのこうした “持ち味” はもとからあったものなのだとは思う。けれど、それが彼らの武器として有効に機能するようになったのは、1994年からプロデューサーとして彼らにかかわるようになった伊藤銀次の貢献も大きかったのではないかと思う。
伊藤銀次は、70年代初めに大阪で “ごまのはえ” というバンドを結成する。ごまのはえは上京して “はっぴいえんど” を解散した大瀧詠一の薫陶を受け、バンド名を “ココナッツ・バンク” とする。しかし、レコードデビューに至らずグループは解散。伊藤銀次はギタリストとして一時シュガー・ベイブに参加し、大滝詠一、山下達郎とオムニバスアルバム『ナイアガラ・トライアングルVol.1』に参加した後ソロアーティストとして活動する一方、プロデューサーとして初期の佐野元春を手掛けるなど、多彩な足跡を残している。
大阪出身の伊藤銀次は、ブルース、R&Bなどの色濃い関西ミュージックシーンの匂いを知り尽くしていながら、東京のアーバンなロックにもダイレクトに触れて、ディープさとマイルドさが程よくブレンドされた独自の音楽センスを身に付けていた。
そんな伊藤銀次の存在は、ウルフルズにとっても貴重なものだったと思う。
ウルフルズから感じる “全国区の関西風味”
ウルフルズもまた、関西ロックシーンのディープな歴史のなかから誕生したバンドであり、その伝統的スピリッツも十分に持っていたに違いない。
同じ関西の伝統のなかでも、京都を中心としたアーシーなブルースバンドよりも、上田正樹とサウス・トゥ・サウスのようなエネルギッシュでダンサブルなソウルバンドに近い印象がある。さらに言えば、かつて伊藤銀次が結成したごまのはえのような、アメリカサザンロックの匂いも感じる。
さらに言えば、かつて桑名正博が在籍していたファニー・カンパニーに通じるような、洗練と泥臭さが絶妙にブレンドされたバンドテイストも受け継いでいるという気がする。だから、同じ関西のバンドでも、ウルフルズにはマイルドさを感じるのだ。
本来ならば、ウルフルズはもっとコテコテの関西風味バンドになるはずだったのではないかとも思う。しかし、彼らの楽曲からは “全国区の関西風味” というか、関西人でなくても理解できる関西の味が感じられる。
例えとしてはふさわしいかどうかわからないけれど、関西ローカルで圧倒的に人気がある芸人が、東京に進出して同じことをやってもウケないという話をよく聞く。けれど、そのネタの表現を少しマイルドにすることでウケるようになる例も目にする。
僕がウルフルズに感じるのは、そんな “関西以外の人間が共感できる関西らしさ”だ。そして、そのコントロールこそまさに大阪と東京のテイストの違いを知り抜いている伊藤銀次の得意技だったんじゃないかと思う。
もちろんこれは僕の勝手な憶測なのだけれど、「ガッツだぜ!!」以降のウルフルズがブレイクした背景にはプロデューサーとして、伝わりやすい関西のテイストを演出した伊藤銀次の貢献があるという気がするのだ。
ルーツとなったサウンドを連想できるという遊び心
アルバム『バンザイ』には、伊藤銀次がプロデュース、アレンジら参加するようになってからのシングル曲「トコトンで行こう!」「大阪ストラット・パートⅡ」「SUN SUN SUN’95」そして「ガッツだぜ!!」が収められている他、アルバムからのシングルカット曲となった「バンザイ 〜好きでよかった〜」などの新曲6曲の計10曲が収められている。
それらの楽曲は、「ガッツだぜ!!」で触れたように、若いリスナーには “元気で面白い曲” と受け取られると同時に、ちょっと古い音楽ファンにはそれぞれの楽曲からルーツとなったサウンドを連想できるという遊び心が伝わってくるのだ。
例えばシングル曲のリミックスバージョンで収められている「トコトンで行こう」はカッチリしたバンドサウンドの中に、スライ&ファミリー・ストーンの「ハイヤー」(1968年)を思わせるオールドファンクテイストが感じられるし、「暴動チャイル」も「ガッツだぜ!!」が「That’s the way」のモジリだったように、こちらはジミ・ヘンドリックスの「Voodoo Chile」(1968年)から引用している。
さらに「SUN SUN SUN'95」のタイトルはビーチ・ボーイズの「Fun ,Fun ,Fun」(1964年)から来ていて、演奏も当時のサーフィンサウンド全開というナンバー。
大滝詠一をカバーした「大阪ストラット」
もうひとつ、伊藤銀次が居たからこそ成立したといえるのが「大阪ストラット」だ。この曲は大滝詠一の「福生ストラット」のカバーで、オリジナルはアルバム『ナイアガラ・ムーン』(1975年)に収録されている。ストラットとはもともと “反り返って歩く” という意味で、ニューオリンズで生まれた跳ねるようなリズムが特徴で多くのサザンサウンドで使われている。まさに、オールディーズ、ルーツサウンドの生き字引、大滝詠一ならではの、一見シンプルだけれどマニアックでポップな曲だ。
この知る人ぞ知るナンバーを、20年後に場所を大阪に置き換えてカバーしようという発想がまさに伊藤銀次ならではだし、大滝詠一と伊藤銀次の深い関係性があったからこそ、思いっ切り大胆に手を入れることもできたのだと思う。ちなみに、オリジナルの “福生” は大滝詠一が住み、スタジオも構えていた東京郊外の市だから、ウルフルズが自分たちのホームグラウンドである “大阪” に移したのは、曲のコンセプトの正しい継承と言えるだろう。
さらに「福生ストラット」には無く、「大阪ストラット」で初めて加えられた要素として大きいのが、コントを思わせるコミカルな台詞がかなりのボリュームで入っていることだ。
ウルフルズのひとつの武器になった笑いの要素
この “笑い” の要素がウルフルズのもうひとつの武器になっているという気がする。「大阪ストラット」に限らず、ウルフルズには関西弁を使ったくすぐりが曲に織り込まれていることが多いが、それが聴き手に “関西のバンド” としてのイメージを届ける仕掛けになっているという気がする。そして、この音楽と “笑い” のブレンドの程の良いさじ加減のバックアップが伊藤銀次のプロデュースのポイントのひとつなのだとも思う。
“笑い” と “ルーツミュージック” はどちらもが関西のミュージックシーンを支えてきたバックボーンだった。そのスピリットを1990年代にしっかりと受け継いでいたのがウルフルズだった。
もちろん、メンバーのひとりひとりが “笑い” と “ルーツミュージック” に対する並々ならぬこだわりをもっていたことは言うまでも無い。けれど、アルバム『バンザイ』に収められた楽曲の中に、全国区として伝わる “関西の味” の表出の仕方を伊藤銀次から伝授されたことが、彼らをこの時代を代表するアーティストのひとつとするポイントだったんじゃないか。
久しぶりに『バンザイ』を聴いて、改めてそんなことを考えてしまった。
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2023.01.24