1971年にフォークグループ、シュリークスのメンバーとしてデビューしたイルカは1974年にソロデビュー。「なごり雪」の大ヒットなどによって、日本を代表する女性シンガーソングライターのひとりとして活躍を続けている。2026年5月からデビュー55周年を迎えるイルカの音楽に対する姿勢を改めて伺った。
シュリークスからイルカとしてソロデビュー
―― イルカさんの原点はどんな音楽ですか?
イルカ:父親がジャズマン(テナーサックス奏者・保坂俊雄)ですから、原点はやっぱりジャズですね。でも、ジャズに始まって、小学生の頃に映画音楽を好きになって、中学1年生の時にビートルズに出会って。その頃自分でやり始めたのはロックで、ロックバンドから始まっているんです。だからフォークがいちばん後で、日本のフォークを聞いたのは大学生になってからでした。
―― 日本のフォークを聴くようになったきっかけは何ですか?
イルカ:早稲田大学フォークソングクラブにいた夫(神部和夫)に出会ったことです。最初にいい曲だなと思ったのはフォーク・クルセダーズの「イムジン河」ですね。それまで私は英語の曲をコピーしたりしていましたけど、日本語で歌えばすぐに意味がわかる、歌詞は大切だなと思って先につくるようになったんです。それも夫から受けた影響です。
―― その後、神部さんとシュリークスを組んでデビューした後にソロになっていますが、シュリークスからソロになる時の心境はどんな感じでしたか?
イルカ:ソロになることはもともと計画されていたんです。夫が私のプロデューサーですから。いつかは自分がプロデュースをする形でイルカをソロデビューさせたいという思いが、シュリークスの時からずっとあったようです。シュリークスとしては2枚アルバムを出しました。1枚目の『ふるさと』(1971年)は夫が中心となってシュリークスらしい日本の歌を集めたもので、2枚目は『イルカのうた』(1974年)というタイトルで、私のオリジナル曲を発表する形でした。
私としてはソロになってもそんなに売れるタイプではないと思っていたから、あまり外に出て歌いたいとも思ってなかった。でも、夫の決心は揺るがなかったんです。夫は初めてイルカを認めてくれた人だし、自分の生涯をかけてやるなんて言ってくれる情熱に対しては応えたいという気持ちになったので、“私を全部あげますから好きなように使ってください。その代わり私のつくる楽曲に関しては、自分の好きなようにやらせてほしい” と伝えました。条件はそれだけでしたね。
「なごり雪」で初めて松任谷正隆がアレンジを担当
―― ファーストアルバム『イルカの世界』(1975年)の手応えはどうでしたか?
イルカ:シュリークスでも自分の曲が出せましたけど 、私だけのアルバムだということがすごく嬉しかったです。私が家で1人つくった曲が、ミュージシャンやいろんな人が大掛かりにしてくれてこんなすごい楽曲に仕上がる。それは本当に嬉しいことでしたね。
―― セカンドアルバム『夢の人』(1975年)をつくる時にはどんなことを考えましたか?
イルカ:リリースのタイミングとか、そういうことは全部夫が決めてましたから、私は “またアルバムを出すから曲を作っておいてね” と言われるくらいで、1回も会議に出たことが無いんです。レコーディングは楽しかったです。自分の曲がアレンジされるとこんな風にふくらむんだって。“アレンジはあの人に頼みたいな、ミュージシャンもこの人に来てもらいたいな” と私が言うと来てくれる。レコーディングでその人たちとまた親しくなるし、次もということなったり、あの人がこうするんだったらああいう曲をつくろう、とかいろいろな形でお互いの繋がりが膨らんでいくわけですよね。
―― 印象的なプレイヤーの方はいましたか?
イルカ:当時から私はずっと石川鷹彦さんにアレンジをやっていただいていて、「なごり雪」で初めて松任谷正隆さんがアレンジをしてくださった。本当に錚々たる方々がいました。当時はみんな若くて名前も出ていなかったですけど、皆さんがどんどんレジェンドになっていく。鈴木茂さんとは、いまだにお仕事をさせていただいているし、そういうつながりがあるというのは、本当に嬉しいことだと思いますね。
―― そういう時に人見知りはしないほうでした?
イルカ:私はすごい人見知りするほうです。でも、音楽があると全然大変じゃないんですよ。別に喋らなくてもいいし。ミュージシャンってあまり社交的なタイプとか、派手な人は少ないかもしれないですよね。私は、その当時も今も、リズムトラックを録る時に一緒にスタジオに入って歌うんです。その時に何か違和感があると “そこはちょっとテンポが” とか伝える。音楽は共通言語ですから、相手が初めてであろうがすぐそこでみんなの話がまとまっていく。だからそこでコミュニケーションがとれるので、1回でも一緒に歌ったりレコーディングした人というのは隅までわかるんですよ。それはもうどこの国に行っても同じです。本当に音楽って力を持ってますよね。
サードアルバム「植物誌」はロサンゼルスレコーディング
―― サードアルバムの『植物誌』(1977年)が初めてのロサンゼルスレコーディングですよね。その時に日本のレコーディングとは違うなと感じたことはありましたか?
イルカ:もう最初からすごくいい音でした。後はストリングスの人たちですね。当時は日本のストリングスは譜面ガチガチの方が多かったんです。でもアメリカでレコーディングした時は、譜面はあるけれどみんなリズムに乗ってくれる。日本でもこういうミュージシャンが増えたらいいなと思いました。今はもう日本もそういう感じになりましたけどね。
――『植物誌』でイルカさんのボーカリストとしての力をすごく感じたんです。
イルカ:それは、その頃にたくさんコンサートを行ったからでしょうね。年間200本以上やってましたから。250本くらいやった時期もあるかな。そのくらいやってれば、表現したいという気持ちもどんどん積極的になるし、聴いて欲しいという気持ちが強くないと聴いてもらえないんです。だから自分の曲とか、歌うことに対してものすごく積極的になったし自信もついたと思います。大きな会場でたくさんコンサートができるようになっていったことが、大きな自信になったんでしょうね。
「いつか冷たい雨が」は自分の新たな原点
――『いつか冷たい雨が』(1979年)は出産されて最初のアルバムですが、母になったということはイルカさんの音楽になにか変化をもたらしていますか?
イルカ:それはもうすごいものです。考えだけじゃなく、生き方から体の在り方まで、すべてが自分で驚くほど変わりました。自分自身の根底にあるものは変わらないですけどね。『いつか冷たい雨が』はシュリークス時代に発表した曲で、夫が “この曲は命を歌っているものだから、イルカが母親になったということで、改めて打ち出したらいいんじゃないか” と言ってくれた。私は、なるほど、そういった意味ではいまだに自分の原点としてある曲なんだなと思っています。“原点を一度振り返ってみよう” ということなんです。
―― これが新たな原点になっていますか?
イルカ:そうですね。人間は、生まれてからずっと、自分自身をつくりながら生きていくわけじゃないですか。でも、自分の中に生命を宿すと、自分はもう二の次になるんです。だって、この子は私が守ってあげなければ死んでしまう、生きていけないわけじゃないですか。それまで自分の命を守ればいいと思っていたのが、自分の命よりも守らなければいけないものがあるんだということは、やっぱり母親になった時じゃなきゃわからなかったかなと思います。もちろん、それに代わるものがある人はいるでしょうけど。
―― ラブソングの意味も変わってきますか?
イルカ:変わるというか、いろいろなものが増えたというほうが大きいでしょうね。逆にね、私は子供が生まれてから、子どもを抱っこしたり鍋をかき回したりしながらラブソングを作る楽しさを知ったんですよ。異世界に行けるんですよ、曲をつくっている時って。こんな髪を振り乱した母ちゃんが、全然違う恋する女の歌をつくるのも楽しいぞと。そのくらい飛躍したことをやっていてもいい、自分の事実じゃなくていいんだと思ったら楽しくて、どんどんラブソングを書けるようになりました。
―― それまでは実体験を軸に曲を書いていたんですか?
イルカ:そうでなければいけないとは思ってなかったですよ。ただ、子どもが生まれるまでは、まだ母親でもないのに、子どもの未来とか、命の大切さとか、そういうものをものすごく追い求めて、そういう歌ばかりをつくっていました。でも、子どもが生まれてそういうことが現実になったら、また違うものを求めるようになったんです。
母の歌とかをつくると、なんか所帯じみたものになっていく自分がいやになって、子どもの曲はそのうちまたつくればいいや、みたいな感じがしてね。それよりも今は、違う自分が求めているものをつくったほうが面白いんじゃないかと思って。時代もフォークというよりディスコとかの雰囲気に行ってたでしょ。そういうサウンドには、命とかよりラブソングのほうが絶対に合うんですよ。私は音楽的なものと詞的なものと、両方とも大切だと思っているので、完全に音楽だけで楽しむことも忘れちゃいけないと思っていて、そういう時には軽いラブソングのほうが面白いんですよ。
ーー 1970年代の活動を中心に伺ったインタビュー前編に続く後編では、80年代以降さらに幅を広げていったイルカの表現活動について振り返っていく。さらに、最新曲「あいのたね♡まこう!」に込められたイルカからの若い世代への思いも伺った。
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2026.01.17