本日リリース「チューリップ・ガーデン&バックヤード」
2022年のチューリップ・デビュー50周年アナログ盤リイシュー企画第1弾として、発売されたファースト・アルバム『魔法の黄色い靴』に続いて、本日12月21日に『チューリップ・ガーデン&バックヤード』がリリースされる。
『チューリップ・ガーデン』は、1977年にリリースされたチューリップの2枚目のベストアルバム。ただ、最初のベストアルバム『TULIP BEST 心の旅』(1973年)は、1972年に正式デビューしたもののセールス的に振るわなかった彼らが、サードシングル「心の旅」が最初のヒット曲となったのをとっかかりに、チューリップの音楽性を紹介しようとするといういわば先物買い的性格のコンピレーションだった。
それに対して『チューリップ・ガーデン』は、この時点までにトップアーティストとなっていたチューリップの公式デビューシングル「魔法の黄色い靴」から「ブルースカイ」までの12枚のシングル曲をカップリング曲も含めて完全網羅した。まさに “ベストアルバム” と呼ぶにふさわしい2枚組アルバムだ。
もちろん「心の旅」「夏色のおもいで」「青春の影」「サボテンの花」といった70年代チューリップの代表曲を網羅したシングルスアルバムとしても楽しめる。けれど、今『チューリップ・ガーデン』を聴いて感じるのは、あの時代のチューリップは、彼らが持っていたポテンシャルや可能性のほんの一部しか知られていなかったのかもしれないということだ。
チューリップ、ビートルズサウンドへのオマージュ
チューリップのビートルズへの並々ならぬ傾倒ぶりは、公式デビュー曲の「魔法の黄色い靴」を聴けばわかるだろう。それも、ビートルズ初期のロックンロールナンバーではなく、「リボルバー」以降の、独自のサウンドや楽曲構成などに果敢にトライしていった中期から後期のサウンドへのオマージュだ。
「魔法の黄色い靴」は、そうしたビートルズの実験精神への傾倒ぶりが随所に見て取れる曲だ。実際に今聴いても、大胆で複雑な構成と洗練された新鮮な感覚には感心させられるものがある。たぶん、当時でも洋楽を聴き込んでいた人たちには理解されたとは思うけれど、洋楽に馴染んでいないリスナーには、難しい曲と感じられたのだと思う。その意味で、70年代初頭の日本の音楽シーンには、ちょっと早すぎる曲だったのだという気もする。だからこそ、この曲をデビュー曲にした彼らの意気込みもわかる気がするし、もしこの曲がヒットしていたら、チューリップの軌跡も、日本の70年代音楽のニュアンスも、ずいぶん違ったものになっていたんじゃないか。そんな想像もしたくなってしまう。
しかし、ビートルズ色の強いチューリップのサウンドは。一部では高く評価されていたがヒットには結びつかなかった。そんな彼らにとって、さらに活動を続けるために越えなければならないのがヒット曲を作るという課題だった。
チューリップ唯一のチャート1位「心の旅」
その答えとなったのが「心の旅」だった。楽曲を書いた財津和夫は、当時のシーンでヒット性が高いと考えられたポップなフォークロック調を意識した楽曲をつくった。さらに、それまでの楽曲では財津自身がボーカルを担当していたが、「心の旅」ではよりソフトな声質の姫野達也にボーカルをチェンジした。その目論見はあたり、「心の旅」は大ヒットを記録し、チューリップにとって唯一のチャート1位獲得曲となった。
「心の旅」のヒットによって、チューリップはトップアーティストとして認知された。しかし、それは財津和夫らメンバーが意図した、ビートルズの音楽性を受け継いだバンドとしての認知ではなく、70年代初期のフォークを中心とした “新しい日本の音楽の波” に乗ったアイドル性の高いソフトロックスタイルのバンドというイメージで受け取られることになったという気がする。その象徴的な現れがボーカルが財津和夫から姫野達也にチェンジしていったことだ。
チューリップは財津和夫を中心に1970年に、アコースティック編成の4人組グループとして福岡で結成されているが、その時点では姫野はまだ参加していなかった。この第一次チューリップは、1971年に「私の小さな人生」でデビューしたが、その直後にメンバーの脱退があり、財津は他のバンドからメンバーを引き抜いて新たに5人組の本格的ロックバンドとして再生されている。
新たなチューリップはビートルズの強い影響を感じさせるサウンドを打ち出していた。しかし、当時の日本のリスナーに認知されるヒット曲を生み出すために試行錯誤するなかでたどり着いたのが「心の旅」だった。そして、その結果としてチューリップは、姫野達也をボーカリストとするポップなフォークロック色の強いバンドとして認知されることになった。
このメンバーの意図とリスナーのイメージとのズレが、チューリップの音楽性をさらに複雑なものにしていったのだろうという事が、『チューリップ・ガーデン』に収められているシングル曲からも感じ取れる。
ヒット曲「心の旅」に続くシングル曲「夏色のおもいで」では作詞にはっぴいえんどの詞を担当していた松本隆を起用して、ポップスバンドとしての歌詞面での強化を図っているが、この曲は松本隆にとっても本格的な作詞家としてのデビュー作となった。さらに続く「銀の指輪」(1974年)でも、軽快なバンド演奏の中から姫野達也のソフトなボーカルが浮かんでくるというチューリップのサウンドのイメージがさらにクローズアップされていった。ちょっと極端に言えば、一般のリスナーにとってのチューリップは、姫野達也を中心としたアイドル性をもったポップグループという感じだったと思う。
財津和夫と姫野達也という二人のボーカリスト
しかし彼らは「銀の指輪」に続く「青春の影」(1974年)でそのイメージを大きく変える。ボーカルが再び財津和夫に戻り、それまでのポップス路線とは一線を画したじっくり聴かせるバラードとなっていた。
この曲は、当時のファンをとまどわせたのか大きなヒットとはなっていない。けれど、時間が経過していくなかでチューリップの代表曲のひとつと評価されるようになっていく。さらに翌1975年には、やはりその後でチューリップの代表曲とされていく「サボテンの花」もリリースされている。
70年代のチューリップは、財津和夫と姫野達也という二人のボーカリストを擁していた。それはビートルズにジョン・レノンとポール・マッカートニーという二人のメインボーカリストがいたことにもなぞらえるかもしれない。しかし、当時のリスナーは、財津曲と姫野曲の違いをバリエーションとして受け止めるよりも、とまどいが先に立ってしまったという気もする。個人的な印象で言えば、当時のリスナーにより広く受け入れられたのはソフトでポップな姫野曲の方だったと思う。
それに対して財津が作る曲には、どこか人生の機微にふれるイメージがあって、その大人びた感覚が、若いリスナーには重さと感じられたのかもしれないという気がする。けれど、だからこそリスナーが歳を重ねていく中で、そのメッセージが沁みていき、長く愛される曲となるという現象が生まれていったのではないだろうか。
今思えば、財津和夫と姫野達也という個性の違い、さらには彼らがもっていた音楽性のバリエーションをもっと効果的な武器としてアピールすることが出来たのかもしれない。『チューリップ・ガーデン』を聴くと、そんな感想も浮かんでくる。
パブリックイメージを大きく超える多彩な音楽的魅力
ビートルズへの傾倒、ポップロックとしての完成度、そして二人のメインボーカリストの魅力とハーモニーワーク、さらには楽曲としてのバラエティなど、当時のチューリップのパブリックイメージを大きく超える多彩な音楽的魅力と可能性が、収められたB面曲も含む24曲から伝わってくるのだ。
これらの魅力を効果的にアピールできていたら、チューリップはもっと評価される存在になっていたのではないか。けれど、それはあくまでも今彼らの足跡を振り返って思うことで、当時の彼らにそれを求めるのは酷だとも思う。
今回、アナログ盤、CD、そしてレアトラックCDで構成された『チューリップ・ガーデン&バックヤード』で、70年代チューリップのポテンシャルの大きさを再確認できるだけでも、大きな意味があるのだとも思う。個人的に、改めて「悲しきレイン・トレイン」(1975年)、「風のメロディ」(1976年)のカッコ良さに気づけたことも大きな収穫だった。
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2022.12.21