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吉田美奈子「BELLS」第一線アーティストが自主制作盤をつくる意味

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吉田美奈子、日本の音楽史で忘れてはならないレジェンド


1986年9月、印象的なCDが発表された。それが吉田美奈子の『BELLS』、限定3,000枚の自主制作盤だった。おそらくCDによる自主制作盤は、少なくとも日本ではこの作品が初めてじゃないかと思う。

“いかにも手作り” を感じさせるシンプルな装丁だが、現代美術家、大竹伸朗の版画がカバーになっていて、手書きの通し番号がつけられているという贅沢な仕掛けも込められていた。ちなみに、僕が買ったのは通し番号166がついた盤だった。

今、一般的に見れば吉田美奈子は “知る人ぞ知るアーティスト” と言っていいのかもしれない。けれど、まぎれもなく彼女は、日本の音楽史にとって忘れてはならないレジェンドの1人だ。とくに、1970~1980年代の音楽シーンに彼女が果たした功績は、改めて振り返っておく価値があるだろう。

70年代初頭、高校生だった吉田美奈子は、細野晴臣らと知り合ってシンガーソングライターとして活動をはじめており、ベーシストの野地義行とデュオグループ、ぱふ を結成したりもしていた。当時の彼女は、ピアノの弾き語りというスタイルや洋楽的感覚の作風、そして圧倒的な歌唱力で、当時のライブシーンのなかでも個性派の女性アーティストというイメージがあった。

キャラメル・ママが全面参加した「扉の冬」プロデューサーは細野晴臣


1973年9月、吉田美奈子はアルバム『扉の冬』でレコードデビュー。キャラメル・ママ(細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫)の全面参加でレコーディングされ、細野晴臣はプロデューサーとしてもクレジットされている。

全曲彼女自身の楽曲で構成された『扉の冬』は、コンパクトでストイックな空気感に包まれた、まさに吉田美奈子ならではの世界観を貫いたアルバムだった。けっして大ヒットしたわけではなかったけれど、このアルバムに衝撃を受けた音楽ファンは少なくなかったし、彼らによって『扉の冬』は、歴史的な名盤として語り継がれている。

もうひとつ言えそうだと思うのは、『扉の冬』は、この時代に根強くあった女性アーティストに対する偏見を、言葉ではなく、音楽の質によって覆してみせた作品だったということだ。とにかく、彼女は、当時のミュージシャンたちにも一目置かれる存在だった。

大きな方向転換、1977年のアルバム「TWILIGHT ZONE」


『扉の冬』は、今聴いても画期的なアルバムだと思う。しかし、1975年に発表された『MINAKO』で彼女は、他の作家の提供曲やカバー曲を取り上げるなど、スタイルをガラリと変えたゴージャスでポップなアプローチを見せた。「夢で逢えたら」(作詞・作曲:大瀧詠一)も収められている1976年の『FLAPPER』でもポップ路線は継承されていたが、翌1977年のアルバム『TWILIGHT ZONE』で、彼女は大きく方向転換を行う。このアルバムでは、『扉の冬』のようにすべて彼女自身の楽曲で構成され、サウンド的にもゴスペル、ソウル色を強く感じさせるものになっていた。そして、なによりも自分の目指す音楽に対するストイックな姿勢が強く感じられる作品だった。

ここから吉田美奈子は1983年まで、コンスタントにアルバムを発表していく。これらの作品は、どちらかと言えば “通好み” という受け取り方をされていった。しかし、コンテンポラリーなソウルテイストを真摯に追求しつつ、クオリティの高さとオリジナリティによって、多くの若いミュージシャンに刺激を与え、その後の日本の音楽シーンにひとつの道筋を示していったんじゃないかと思う。その意味で、90年代以降に大きく盛り上がるソウルシーンの先駆けとしての意味も大きかったという気がする。

そんな吉田美奈子だが、1983年のライヴアルバム『IN MORTION』を最後に、レコード会社との契約を解除してフリーとなった。この時期、外からはアーティスト活動があまり見えなくなっていたが、ブランクというわけではなかった。彼女は80年代初頭からプロデュースや楽曲提供などの活動を活発化させており、この間にも飯島真理のセカンドアルバム『BLANCHE』(1983年)のプロデュースや、中森明菜、西條秀樹などの楽曲プロデュースをはじめ、より自由なスタンスで多彩な活動を積極的に行っていたのだ。

作品全体を包むゴージャスな静謐さ、自主制作盤「BELLS」


こうした時期の吉田美奈子が、自らのために書き溜めていた楽曲を音源化したのが『BELLS』だった。収録されている6曲。1曲目の「WIND」からラストの「DREAMING」まで、全体をゴージャスな静謐さともいうべき空気感が全体を包んでいる。

楽器編成もアレンジもけっして派手ではない。しかし、ひとつひとつの音の粒立ち、そして中低音を生かしたヴォーカル、そして多重録音されたコーラスなど、それぞれのパートがしっかりとした存在感を持ちながら、ひとつのゴスペル的テイストに満ちた音楽として結集している。まさに、唯一無二のハートフルな音楽がここにはあった。

改めてアルバムを聴き直しながら、これだけのクオリティの音楽を自主制作盤としてリリースする。そのこと自体が音楽のリリースの在り方に対するメッセージだったのかなとも思った。この時点では、第一線アーティストが自主製作盤をつくることはけっして一般的ではなかった。しかし、その後しばらくして、レコード会社から作品をリリースすることの意味が問い直される時代がやってくる。『BELLS』は、そんな時代を予告する作品でもあったのだ。

吉田美奈子は1989年に、彼女ならではの音楽性にさらに磨きをかけたアルバム『DARK CRYSTAL』を発表し、本格的アーティスト活動をまた活性化させていった。そんな彼女にとって、『BELLS』は、デビューアルバム『扉の冬』とはまた別の形での自己確認をおこなう作品だったのだと思う。そして、そのストイックさのなかから伝わってくるプライベートな匂いが、このアルバムをまさに “珠玉の作品” にしてしるのだ。

ちなみに、『BELLS』は、2002年および2014年に1曲、「もみの木」という曲を追加した形で再発売された。

2020.09.18
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カタリベ
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