共有感満載の80年代洋楽ヒット!ビルボード最高位2位の妙味 vol.49
Party All The Time / Eddie Murphy
俳優・女優が、映画やテレビで大成功をおさめ、人気絶頂の時期に歌手としてデビューする… いつの時代もどんな国でも、そんな構図は時折垣間見られたりする。
80年代において、その最も典型的な成功例といえば、エディ・マーフィに勝るものはいない。そう、80年代47番目に誕生したナンバー2ソングは、エディ・マーフィの「パーティ・オール・ザ・タイム」(85年12月~86年1月3週2位)だ。
エディ・マーフィといえば、80年代に青春時代を過ごした40代後半以上の方ならば、本国アメリカはもちろんのこと、ここ日本でもその絶大な人気ぶりを肌で感じたことだろう。出世作『48時間』(82年)、『大逆転』(83年)を経て、決定打となった『ビバリーヒルズ・コップ』(84年)で爆発的なブレイクを果たしたエディ本人にその意思があったかどうかは不明ではあるが、俳優人気にあやかってレコード会社が歌手としての便乗デビューを促したのは想像に難くない。
得てして他ジャンル業界からのシンガー参入パターンは、大方の場合ごく一部の例外を除いて、技量に難ありなのはご愛敬という感じだが… エディの場合もほぼそのパターンに当てはまっていた。まあ無難にこなしているというレベルのものではあったものの、全米シングルチャートで最高位2位を記録したのは、さすがエディ! 人気はかなり高かったというわけだ。そして「パーティ・オール・ザ・タイム」のヒットには、もうひとつの要因があった。モータウンのファンク番長、リック・ジェームスが作曲・プロデュースを担っていたのだ。
リック・ジェームスといえば、81年のアルバム『ストリート・ソングス』がミリオンセラーを記録。そこに収録されていた「スーパー・フリーク」や「ギヴ・イット・トゥ・ミー・ベイビー」が自身を代表するような大ヒットソングになっており、80年代前半の時点でファンク / ブラックミュージックのシーンにおいてトップに位置するようなアーティストであった。
そんなリックが当時では最先端のデジタルファンク風なサウンドをエディのために用意したのだから、“エディ、歌手としてデビュー” よりも、“リック・ジェームスがエディ・マーフィをプロデュース” の方が、大きくクローズアップされていた印象を抱く。「パーティ・オール・ザ・タイム」のヒット規模はかなり大きかったので、リック投入は大正解だったのかもしれない。
ところでエディ・マーフィは、俳優としてブレイクする前、スタンダップコメディアンとしては結構人気で、コメディアンとしてライブ盤を2枚リリースしていたので、レコードデビューはすでに果たしていた。さらに82年映画『48時間』の頃、実は「ブギー・イン・ユア・バット」という曲で、歌手デビューも果たしていたのだ。これはまったくの鳴かず飛ばず、ヒットには到底至っていなかったので、「パーティ・オール・ザ・タイム」で歌手デビューと思われていたのも無理はない話だったわけだ。
この曲は82年のファーストアルバム『エディ・マーフィ』に収録されている。そして89年に4枚目、93年に5枚目の音楽アルバムを発売していて、実はエディって歌手活動に結構な色気を出していたことがわかる。
2018.04.03
YouTube / EddieMurphyVevo
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