ジャンク フジヤマの存在を最初に知ったのは2009年。15年以上前のある日、サービスが始まって間もないYouTubeにアップされた1本のライブ映像が音楽マニアの間で話題となった。“山下達郎そっくりの声で歌えるすごい若者がいる” と。彼の名こそ、ジャンク フジヤマ。そんな風評をものともせず、独自の美学を磨きながら精力的な活動を続けてきた彼のニューアルバム『Horizon』が4月23日にリリースされる。自らの立ち位置を “孤高” と表現する彼に、これまでのキャリアについて、昨今のシティポップブームについて、そして今作『Horizon』について、ざっくばらんに話を伺った。

メジャーリーガーのなかに立つ草野球選手
ジャンク フジヤマ(以下:ジャンク):今のように世の中でシティポップという言葉が当たり前に使われるまで、本当に時間がかかりましたよね。最初にインディーズでアルバムを出したのが2009年でした。こうしてメジャーのレコード会社からリリースできるようになるまでも、とても長い道のりでしたから。
ーー それまでバンドで活動していた彼が初めてソロ名義でリリースしたアルバムが『A color』。これがポンタの愛称で知られる伝説のドラマー、村上秀一の手に渡り、彼の号令によってたちまちライブイベントが開かれた。
ジャンク:“メンバーは俺が集めるから。で、どうする?(坂本)龍一を呼ぶか?" と。これはさすがに冗談半分だったろうとは思いますが(笑)、本当にスペシャルなメンバーでバックバンドを組んでいただきました。ポンタさん以外は前日のリハーサルが初対面。周りは全員本物のベテランばかり。もうやるしかないです。あれこれ考えている余裕などありませんでした。
ーー 坂本龍一こそ来なかったが、ベーシストには岡沢章が招集された。達郎マニアならここで鳥肌が立つだろう。村上と岡沢のコンビは、言わずと知れた1978年のライブアルバム『IT'S A POPPIN' TIME』のリズム隊である。彼の歌声に惚れ込んだ村上は、本気で当時を超える演奏を目指していた。
ジャンク:メジャーリーガーたちが集まっている野球チームのなかに、いきなり草野球選手が入ってきて、しかも先発ピッチャーで4番を打たされているような状態ですよ。一番真ん中に立っている人間が誰だかわからない。そんなスタートでした。
ーー それが2009年のこと。豪華なメンバーをバックにステージで「LOVE SPACE」のカバーを堂々と歌い切る姿がYouTubeで拡散された。当時の動画はすでに見られなくなっているが、その時の印象はいまでも鮮明に残っている。
ジャンク:リハーサルの後にドラムセットを片付けながらポンタさんとゆっくり話しができるタイミングがあって、そこで改めて僕の想いをいろいろとお伝えしたんです。僕はサウンドメイクから歌詞の世界観まで、シティポップに強い影響を受けてきた。だから僕も自分の大好きなシティポップをやりたい。ポンタさんは "そうか。わかった" と、それだけ。
ーー ミュージシャンである前にファンであればこそ、実際に当時の現場でシティポップのサウンドを作り上げた張本人たちをバックに従えて歌うことの重みは人一番感じていたはず。ステージでの緊張はいかばかりであったか。
ジャンク:いや、それが全然なんとも思わなかった。こんなチャンスはなかなかないぞという変な自信みたいなものが大きかったし、それにポンタさんが "お前はそれでいい" と言ってくださっているのだから、思い切ってやるしかない。ステージに立った瞬間の気持ちはいまでも覚えていますよ。"後ろを振り返ってる暇はない。もうここから引き返すことはできないんだ" と。
僕という存在を通した壮大な実験
ーー 同世代のミュージシャン仲間からは、いきなりいくつもの段階を飛び越えて夢のステージに立つことになった彼の幸運に驚くと同時に、いきなりベテラン勢と共演して彼が潰れてしまうのではないかと心配する声もあったという。しかしそれを持ち前の度胸と先人たちへの愛で乗り切った彼は、活発な活動を続けていく。
ジャンク:初めてポンタさんとリハーサルをご一緒したとき、ポンタさんはスネアを3つ用意されていたんですよ。それで実際に叩いてみて、"どれがいい?" と。急に聞かれたものだから、もしかして、"これはテストなのか?" と一瞬思ったのですが、"いや違う。ポンタさんはそんな風に人を試したりする筈もない。そこは素直に好きか嫌いかを言えばいいだけだろう" と思い直して、"じゃあ、真ん中のやつでお願いします" と正直に言いました。いま思うと、僕がどういう感覚のサウンドを求めているのかを、スネアの音で探ってたんでしょうね。ポンタさんも数々の伝説をお持ちの方でしたが、僕自身は怖気付くこともなく、いつも楽しくご一緒させていただきました。その後も何枚も作品を作ることができて、それは本当に貴重な機会、経験でした。
ーー いまでこそ、シティポップのオリジネーターたちへのリスペクトを明確に表明する若いミュージシャンは後を絶たないが、ジャンク フジヤマはその世代の最初の存在だったように思う。
ジャンク:みなさんが僕のバックで演奏しながら何を思い、どんなサウンドを作りだすのか? 僕という存在を通したある種の壮大な実験みたいなものでした。よく考えれば、90年代のJ-POPや渋谷系の時代にも、確実に影響を受けていらっしゃる先輩のミュージシャンはいたと思います。でも、受けた影響をそのまま出すということはしていなかった。だから僕の場合はそれも含めての壮大な実験なんですね。当事者の方を含めたみなさんにサポートしていただけるのなら、思いっきりやってしまおう。その瞬間、そこに自分が立って歌えるうれしさ、重み、そういういろんなものを噛み締めながら歌う。それが僕の駆け出しの頃でした。
コロナ禍を経た制作スタイルの一新
ーー 村上はジャンク フジヤマのバックバンドとして “ファンタジスタ” を結成し、より一層サポートに力を入れることになった。「YOUR EYES」など、達郎作品の英語詞でも知られるアラン・オデイの代表作「Undercover Angel」をカバーするなど彼の独特なスタンスを活かしていく一方で、デビュー当初から作り続けてきたオリジナル曲にも磨きをかけていく。ほどなくして “シティポップ界の新星” としてメジャーデビュー。海外からの逆輸入でシティポップのサウンドが大きく見直されるようになり、ようやく時代が追いついたかのように見えた。しかし、ここで彼は大きな方針転換を迫られることになる。
ジャンク:同業者のみなさんは同じ状況だったと思いますが、僕もコロナ禍で活動を縮小せざるを得なかったことが大きかったですね。ポンタさんとはライブの予定があったのですがそれも叶わず。しかもそれはポンタさんが亡くなる直前のことでしたから、それは悔やんでも悔やみきれなかった。そこから試行錯誤が始まったわけです。僕もここで新たな動きをしなければいけないぞと。
ーー “新たな動き" というのはもちろん、村上に代わる新しいドラマーを探すこと。駆け出しのインディーズ時代を第1期、メジャーデビュー後を第2期とするなら、オリジナルアルバムとしては2013年の『JUNK SCAPE』以来7年ぶりとなった2020年のアルバム『Happiness』からが彼の第3期といえるだろう。彼よりも7歳も若いクリエイター・神谷樹(たつき)とのコンビによってプログラミングを中心とした楽曲制作にシフトするなど、サウンドの幅がこれまでにないほど広がった。
ジャンク:自分にあうドラマーが見つかれば、そこから自然に発展してリズムセクション、サウンドが出来あがります。代わりの誰かにポンタさんと同じことをやってもらおうとは最初から思っていませんでした。みんなそれぞれ違う音楽を聴いて育ってきて、リズムの感覚は人の数だけありますから。
コンスタントに作品作りが出来るようになったのは、神谷くんと知り合えたおかげですね。コロナ禍にプログラミングで制作した『Happiness』の楽曲をライブでやろうとなったときに集めたメンバーが中心となって、“island etc.”(アイランドエトセトラ)というバンドになりました。僕よりも若い人たちと一緒になってアレンジや作曲を一緒に組み立てるというのはそれまでとはまったく違う作業で、そこにもまた試行錯誤があったわけです。
ーー それまで大ベテランとの共演しながら作品作りを続けてきた彼の制作スタイルの一新は、表面的なサウンドの変化以上に大きなものだったそうだ。
後編では新たな制作体制によってもたらされたものや、15年以上にわたるキャリアを経た心境の変化など、最新作『Horizon』のことも含めてさらに詳しく語っていただいた。
Information
▶ ニューアルバム『Horizon』2025/4/23 リリース
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2025.04.20