1978年のヒット曲、山口百恵「プレイバックPart2」
思えば、天邪鬼な小学生だった。
ロンドンから2階建てバスが地元のお祭りにやってきた時は一目散に1階に乗り込み、中国の姉妹都市からパンダが動物園に贈られた際は一人レッサーパンダの檻を目指した。
時に1978年、山口百恵の「プレイバックPart2」がヒットした時も、当時小学5年生の僕は、「いや、Part1のほうが上だね」と友人たちに吹聴して回った。もちろん、「プレイバックPart1」なんて曲はなかったし、昭和の小学生にそれ以上詮索する能力もなかった。
しかし、その数ヶ月後、事件は起きる。ある日、友人のS君がこっそり僕に耳打ちしたのだ。
「山口百恵のプレイバックPart1、あれ、いいな」
耳を疑った。いや、そもそも、そんな話をしたことすら忘れていた。
「プレイバック…… Part1?」
「そう、Part1」
「…… 聴いたの?」
「うん、姉貴のを」
嘘から出たまこと、本当にあった「プレイバックPart1」
放課後、僕はS君の家にお邪魔した。彼には4つ上の中学生のお姉さんがいて、山口百恵の大ファンだとか。そのお姉さんが買った山口百恵の新譜のアルバムの中に、「プレイバックPart1」が入っていたという。
まさか本当に「プレイバックPart1」があるなんて…
「勝手に部屋に入ったのがバレたら怒られるけん、なんも触るなよ」
「わかった」
ドキドキした。女子の部屋に入るのなんて、クラスの女子の誕生日会に招かれて以来だ。壁には山口百恵のポスターが貼られ、レコード棚には10数枚のレコード。壁際にステレオの装置があった。そう、当時のステレオは装置だったのだ。
友人は慣れた手つきでレコード棚から目当てのLPを探し出し、ステレオの一番上のレコードプレイヤーのフタを開け、セッティングした。針をしずしずと落とす。チリチリ…… と針の摩擦音。
あれは真夏の出来事でした
今から話すけど もらい泣きなど
しないでくださいね
驚いた。その曲はいきなりサビから始まった。いいわ、この曲! 正直、想像していたのより、ずっといい。すごく盛り上がる曲だ。
もちろん、僕はおくびにもそんな感情は見せない。聴き慣れた曲に再会したように、懐かし気な顔を浮かべる。
「…… だろ?」
「うん、姉貴も好きだって」
僕は友人の家を後にした。俗に “嘘から出たまこと” と言うが、まさか本当に「プレイバックPart1」があるなんて――。
1980年10月5日、日本武道館での「ファイナルコンサート」
話はそれから2年ほど飛ぶ。僕は中学生になっていた。
時に、1980年10月5日―― そう、40年前の今日だ。TBSで山口百恵の『ファイナルコンサート』の中継特番があった。最後に、白いマイクをステージに置いて立ち去る、あの伝説のコンサートである。
当然、テレビっ子の僕はテレビにかじりつくように見た。
番組冒頭、日本武道館の外観が映し出される。そこへ、白いタキシード姿の久米宏さんがフレームイン。当時は『ザ・ベストテン』の全盛期である。
「皆さん今晩は、久米宏です」
いつも通りの活舌のいい、やや早口の久米さんの喋りで始まる。
「昭和50年代の芸能の歴史、そして風俗といったことを考える時に、山口百恵という名前は欠かせない名前になっています」
このオープニングの挨拶の中で、やたら久米さんは「風俗」という単語を口にする。もちろん、それは “世相” や “流行” と言った意味合いだが、思春期真っ盛りの中学生には、別の意味に聞こえてしまう。
武道館の前には大型モニターが置かれ、中に入れなかった人々が食い入るように見ている。そう、既にコンサートは始まっていたのだ。開演は18時10分。番組は19時半からだったので、既に1時間以上が経過していた。
「それでは、山口百恵、最後のステージへ、カメラを切り替えたいと思います」久米さんの締めの言葉でカメラがステージに切り替わる。
TBSの疑似生中継、総合演出は「ザ・ベストテン」の山田修爾
「まずは、この曲。プレイバック!」
山口百恵さんの勇ましい掛け声で前奏が始まる。ご存知、「プレイバックPart2」だ。中継の冒頭を飾るに相応しい曲。それにしても、やけにタイミングがいい。後で知ったことだが、これは録画だった。種を明かせば、この日、TBSはカメラを回しつつ、同時作業でテレビ向けにヒット曲を抜き出して編集し、疑似生中継していたのだ。
そんな編集のお陰で、馴染みのヒットソングが続く。「絶体絶命」、「イミテイション・ゴールド」、「愛の嵐」、「横須賀ストーリー」、「ひと夏の経験」、「禁じられた遊び」、「冬の色」、「湖の決心」、「春風のいたずら」、「青い果実」、「としごろ」―― 可愛らしいデビュー曲を歌う大人びた山口百恵はちょっと面白い。
これも後で知ったことだが、当初、このファイナルコンサートは、山口百恵の最新アルバムの『メビウス・ゲーム』の曲目を中心に構成される予定だったという。同アルバムはシングルの「ロックンロール・ウィドウ」を含む大人びた曲目で構成される。「ファイナルコンサートくらい、自分がやりたいようにさせてほしい」――それが百恵の願いだった。
だが、これに異を唱える人物が現れる。『ザ・ベストテン』の山田修爾プロデューサーだ。彼は百恵直々にファイナルコンサートの総合演出に指名されていたのだ。
アルバム曲ではなく、デビュー曲からのシングル編成で!
「いや、百恵さん、それは違う。最後だからこそ、ファンの皆さんへの感謝の意を込めて、デビュー曲からのシングル編成にすべきだ」
当初、百恵はこの申し出を断る。そこで、山田プロデューサーは奥の手として、「いい日旅立ち」を作った谷村新司さんを介して説得する。結果的にこれでファイナルコンサートが伝説になったのだから、山田プロデューサーの判断は正しかった。
番組は何度かCMを挟み、気が付けば衣装が変わっていた。真っ白なドレス。まるでウェディングドレスのようだ。そう、ここへ来て、遂に生中継に追いついたのだ。残すは1曲、「さよならの向う側」である。感極まって涙にくれる百恵――。そして曲が終わり、彼女は白いマイクを床に置いて、立ち去った。
20時34分、コンサート終了。客電が灯る。客席からアンコールの声が聞こえるが、無情にも終了を告げる館内アナウンスが流れる。だが、番組はあと15分も時間が余っている。予定より早めにコンサートが終わったのだ。
「本当に、さよならコンサートが終わってしまいました……」
客席にいた久米宏さんが喋りだす。なんと、彼はここからアドリブで10分近くも喋り続ける。天才のなせる業だった。そして番組はもう一度、ラストシーンをリピートして、終了した。
なんと「プレイバックPart2」の前に「プレイバックPart1」が…
話はこれで終わらない。
それから10数年が経過する。ある日、僕は山口百恵のファイナルコンサートを収めたライブビデオの「完全版」に出会った。それまでも何度も同ライブビデオは発売されてはいたが、どれも編集されたもので、ノーカットの全曲入りはその時が初めてだった。
早速購入し、家に帰ってビデオデッキで再生した。驚いた。かつてTBSのテレビ中継で見た際に冒頭で流れた「プレイバックPart2」の前に、なんと「プレイバックPart1」が歌われていたのだ。
あれは真夏の出来事でした
今から話すけど もらい泣きなど
しないでくださいね
その瞬間、僕はこう叫んだ。
「いいわ、この曲!」
そう、小学5年の時にS君のお姉さんの部屋で初めて聴いたあの日の記憶が、プレイバックされたのである。
※2017年10月5日に掲載された記事をアップデート
2020.10.05