ミック・ジャガーはソロ活動をすると、いつもケチをつけられる。それはおそらく、今も昔も変わらない。そして、そういう人達がミックのソロアルバムを聴いて、「やっぱりストーンズじゃないとさぁ」と言うのは、彼らの本音なのだろう。
でも、それってなんだか最初から答えが決まっているようで、僕はあまりフェアじゃないと感じている。以前、僕がそう言うと、「それじゃ、お前はソロの方が好きなんだな」と言ってくる人がいた。なんだか意地悪な質問だなと思った。
そんな人達も、1988年3月のミック・ジャガー初来日公演には、割と足を運んでたりする。
当時、ミックとキース・リチャーズの仲がこれまでにないほど険悪な状態で、ファンの多くがストーンズ解散を覚悟していた。そんな事情もあり、「ストーンズじゃないから行かない」という選択肢は、かなりシビアだったとは思う。もちろん、2年後にストーンズが初来日を果たすなど想像もつかなかった。
それにソロとはいえ、あのときのミックの来日公演は、音楽ファンの枠を超えたビッグニュースだった。「本当に入国できるのか?」といった段階から世間の関心を集めていたし、ライヴの模様は1時間のダイジェストではあったが、ゴールデンタイムにテレビ放映されている。
そして、僕はといえば、ミック・ジャガーを観られることに只々興奮していた。友人が電話予約で取ってくれたアリーナチケットを眺めながら(奇跡だと思った)、2枚のソロアルバムを繰り返し聴いてはライヴに備える。そんな毎日を過ごしていた。「ひょっとしたらストーンズの曲もいくつか聴けるかもしれない」。そんなこともほんのり夢見ていた。
ミックの日本ツアーは大阪からスタートし、東京公演はその1週間後だった。ニュース番組の中で、ミックがソロナンバーの「スローアウェイ」を歌っているのを観て、この曲がオープニングなのだろうと思ったりした。
そうして迎えたライヴ当日。完成したばかりの東京ドームが大歓声に包まれたとき、聞こえてきたのは重たいオープンGのイントロ…。
ホンキー・トンク・ウィメン!
全身が痺れたとは、まさにこのことだった。ステージの袖からミックが手を叩きながら歩いてきた。そして、小走りをしては止まり、手をかざして観客席を眺めてみせると、この偉大な曲を歌い出したのだ。
メンフィスでジンの匂いを
ぷんぷんさせた
酒場の女王に会った
彼女は俺と寝ようと2階へ誘ったが
そうするには 俺を肩に乗せて
運ばないといけなかった
というのも、俺はお前たちを
忘れるために
飲み過ぎてたんだから
ホンキー・トンクの女達
ホンキー・トンク・ブルースを
聴かせてくれよ
本当に最高だった。今も脳裏に焼きついていて、思い出すたびに興奮が蘇ってくる。こんなかっこいいオープニングは、そうそうあるものではない。
そこからはストーンズナンバーのオンパレードだ。2~3曲聴ければ嬉しいと思っていた僕の予想を大幅に覆し、この日演奏された22曲のうち、ストーンズナンバーは16曲にものぼった。それらの圧倒的な輝き、強靭な生命力に、僕はただひれ伏すしかなかった。
とりわけ大好きな「ビースト・オブ・バーデン」を聴けたのは、切なさを含んだ優しい想い出として心に残っている。
1973年にミックの入国ビザが下りず、ザ・ローリング・ストーンズの来日公演が中止になっている。もしかすると、ミックはまだストーンズのライヴを観たことのない日本のファンのために、このようなセットリストを組んでくれたのかもしれない。
後日、音楽雑誌や新聞にライヴ評が掲載された。僕が読んだ記事はどれも「さすがミック・ジャガー! 大スターにふさわしい貫禄ステージ!」といった内容だったが、同様にどの記事にも「禁断の間に突っ込んでくるドラム」とか「流れるようなギターソロに違和感」といったことが書かれていた。おそらく、それも彼らの本音なのだろう。
言いたいことはわかる。でも、僕は少し淋しかった。もしミックがストーンズの曲を演奏しなければ、こんなことは言われなかったかもしれない。いや、それでも言われたのだろうか。
結局、このときも最初から答えは決まっていたのだろう。彼らはストーンズでなければ不満なのだ。だから言わずにはいられないし、口にすることで自分の自尊心を満たしているのだと思った。
だから、「そんな音楽ファンにはならないぞ」と僕は心に誓った。18歳のときだ。
歳を重ねると、自分の中にも彼らと同じような気持ちがあることに気づく。でも、それは耳が固くなり、心に壁ができている証拠だ。その度に僕はあのときのことを思い出し、自戒する。そうはありたくないと、今でも思っている。
2018.07.26
YouTube / APAMsChannel
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