日本の音楽シーンに新たな改革をもたらした吉田拓郎
4月5日は吉田拓郎の誕生日。1970年に「イメージの詩」でレコードデビューした吉田拓郎は、それまでは体制批判のニュアンスをもつアンダーグラウンドのジャンルとされていたフォークソングを一気にメジャーなムーブメントにしてみせ、その後のニューミュージックの流れを導いたアーティストだ。
吉田拓郎は「結婚しようよ」「旅の宿」(共に1972年)などの大ヒットでフォークをポピュラーにしただけではなく、日本の音楽シーンにいくつもの新たな改革をもたらしている。
たとえば自分たちが主体となって各地のイベンターとスケジュールを調整して全国を廻るコンサートツアーというライブのやり方も吉田拓郎がパイオニアだった。またシンガーソングライターが歌謡曲畑の歌手に楽曲を提供するようになったのも吉田拓郎が森進一に提供した「襟裳岬」(1974年)が先駆けだった。
この他にもアーティスト主導によるレコード会社フォーライフの設立(1975年)、オールナイトの大型野外コンサート『吉田拓郎・かぐや姫 コンサートインつま恋1975』(1975年8月2~3日)など、吉田拓郎が切り拓いてその後一般的になっていった事例は数多くある。
過去の自分に決別して始まった80年代の吉田拓郎
70年代における存在感が強烈だっただけに、80年代の吉田拓郎にはあまり強い印象を感じなかったという人もいるかもしれない。しかし、この時期の吉田拓郎の活動にも非常に興味深いものがあるのだ。
吉田拓郎の80年代は、過去の自分への決別という形でスタートした。というのも1979年の大晦日に日本青年館で行われたコンサート『Hello 80’s Good-bye 70’s SUPER JAM』のステージ上で、彼は過去の歌に決別すると宣言をしたのだ。しかし、この宣言はけっして吉田拓郎がイメージチェンジをするということではなかったのだと思う。
そのデビュー以来の活躍のイメージがきわめて強かったために “フォークのプリンス” 的もてはやされ方をしたけれど、もともと彼は生粋のフォーク人間というよりも、もっと幅広くロックやR&Bの影響を受けてきたという。だから、彼は早くからフォークギターだけでなくエレキギターも弾いていたし、初期のライブアルバム『よしだたくろう LIVE ’73』でも、ソウルショウを思わせるサウンドやタイトなロックサウンドを聴くことができる。
つまり、吉田拓郎の “過去の歌を捨てる” という宣言は、吉田拓郎=フォークというリスナー側の固定概念に対する決別宣言でもあったのではないだろうか。
アルバム「Shangri-la」で初の海外レコーディング
吉田拓郎は、自分のサウンドへのこだわりを確かめるように1980年に初の海外レコーディングを行ったアルバム『Shangri-la』を発表した。ロサンゼルスのShangri-laスタジオでレコーディングされ、プロデューサー、アレンジャーとしてメンフィス・ソウルの立役者であるブッカー・T・ジョーンズを迎えて制作されたこのソウルフルなアルバムは、吉田拓郎をフォーク歌手として見ていた人にとっては異色作と映っただろう。けれど、彼がもともとR&Bに傾倒していたことを考えれば、このアルバムは彼にとって自分の原点のひとつを確認する作品でもあったんじゃないかと思う。
おなじ1980年に吉田拓郎はもう1枚のアルバム『アジアの片隅で』を発表している。こちらは前作から一変して国内でレコーディングされており、アルバム全体から感じるテイストも『Shangri-la』とは違って、それまでの吉田拓郎サウンドに近い印象がある。けれど、前作が “音の角度” から自分の原点を確認するアルバムだったとすれば、こちらは “なにを歌うのかという角度” から自分の現在地を確認する作品だったのではないか。とくにアルバムタイトル曲でもある「アジアの片隅で」(作詞:岡本おさみ)は12分超という大作で、そこに込められているメッセージにもシリアスなものがある。
『Shangri-la』と『アジアの片隅で』は一見、相反する作品のようにも見える。けれど、この二つの世界の距離にどう切り込むのかが吉田拓郎だけでなく、日本の音楽表現が抱えている大きな課題でもあるのだと思う。1980年代の吉田拓郎は、その大きな課題に果敢に挑戦していったのではないか。
1981年に発表されたアルバム『無人島で…。』では、過半数の歌詞を松本隆が手掛けているが、1曲以外の編曲を自分で手掛けている。そしてそのサウンドは『Shangri-la』と『アジアの片隅で』のテイストとを融和させようとしているようにも感じられる。そして、このアルバムをきっかけに吉田拓郎は30代の自分の音楽性の追求に向かっていったように見える。
自分のサウンドにコンピューターを生かす可能性に積極的にアプローチ
1982年、吉田拓郎は1977年以来就任していたフォーライフ・レコードの社長を辞任して、音楽活動に専念する姿勢を示した。そして翌83年には『マラソン』『情熱』と2枚のアルバムを発表しているが、2枚とも全曲彼自身が作詞・作曲だけでなく編曲も手掛けている。この時期の彼は、自らコンピューターでサウンドを構築し、それをベースにスタジオミュージシャンでレコーディングするというレコーディング・スタイルをとっていたようだ。
80年代初頭、コンピューターサウンドはテクノポップに象徴されるデジタルポップミュージックとして脚光を浴びていた。しかし、この時期にコンピューターによるサウンドづくりにアプローチしていたのは彼らだけではなかった。一見デジタルポップからは遠いセンシティブな音楽をつくってきたアーティストにも、コンピューターがこれからの音楽づくりに欠かせないアイテムであることを予感して、自分のサウンドにコンピューターを生かす可能性に積極的にアプローチする先見性を持った人もいた。
吉田拓郎もそうしたアーティストの1人で、彼が1984年に発表した『FOREVER YOUNG』は、そうした80年代前半の音楽的アプローチの到達点というべき作品だ。
テーマにしたのは、自分の実年齢ならではの心の揺れ?
70年代の吉田拓郎が、閉塞していく時代のなかで鬱屈しながらも夢を見失うまいとする若者の想いをテーマに歌っていたとすれば、『マラソン』『情熱』『FOREVER YOUNG』と続くアルバムには、30代後半から40代にさしかかるという “大人” のなかにある、いわば青春の残り火である葛藤や衝動と向き合いつつ、その “想い” が人生の後半になにをもたらそうとしているのかという、まさに自分の実年齢ならではの心の揺れをテーマにしていたという気がする。
それは、吉田拓郎の音楽に向かうスタンスが変わったということではない。彼のソングライティングの姿勢、そして生み出される楽曲の音楽性も基本的には変わっていない。けれど、その楽曲には彼が直面している人生の局面の違いが、アルバムの手触りの違いを生み出しているということだ。
同じ恋への衝動を歌ったとしても、20代と30代とでは置かれた立場も、周囲の目も違う。とくに吉田拓郎のように、本人と楽曲の距離がきわめて近いシンガーソングライターの場合は、そのニュアンスの違いもストレートに伝わってくる。だからこそ、大人の心に潜む “想い” を説得力ある作品として成立させるには、サウンドもそれにふさわしいものである必要がある。
その意味で『FOREVER YOUNG』は、40代に向かう年代のシンガーソングライターとしての誠実なアプローチから生まれた “リアルな世界” を提示した作品なのだと感じられる。
瀬尾一三、加藤和彦を迎えて貫く“吉田拓郎の音楽への誠実さ”
1980年代後半に入ると、彼はさらに次の時代の自分を射程に入れて作品を制作していく。1985年に、瀬尾一三に全面的に編曲を託したアルバム『俺が愛した馬鹿』、さらに1986年には加藤和彦をプロデューサーに迎えニューヨークでレコーディングされた『サマルカンド・ブルー』を発表した。
瀬尾一三はライブを中心に吉田拓郎のサウンドアレンジを手掛けているし、加藤和彦は初期のアルバム『人間なんて』をバックアップしていたから、異色の顔合わせというわけでもない。けれど、彼らにサウンドづくりを託すことで、『俺が愛した馬鹿』と『サマルカンド・ブルー』は、パーソナルなアプローチでつくりあげた『FOREVER YOUNG』の世界を客観的に見直し、さらに新たな色彩を与える役割を果たしていったという気がする。
そしてこれらのアルバムを経て、80年代末期のには再び作詞・作曲・編曲を自分自身で行ったアルバム『MUCH BETTER』(1988年)、『ひまわり』(1989年)を発表し、40代の吉田拓郎のリアルの表現へのアプローチに向かっていく。こうした姿勢こそが、デビュー時から貫かれている吉田拓郎の音楽への誠実さなのだと思う。
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2024.04.05