10月5日

1979年の吉田拓郎:ここで終わり、ここから今日に至る。旅はまだ続く。

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吉田拓郎のライブアルバム「TAKURO TOUR 1979」がリリースされた日
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photo:FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT  

不思議なことに、ポップミュージックの歴史では10年紀(ディケイド)のはじまりや終わりに、象徴的なアーティストが現れたり、象徴的だったアーティストの集大成とみられる作品が出たりする。

数字を楽しむ人間の性がこじつけているだけのことかも知れないが、とりわけ流行の変遷が激しい1980年前後は、その例が顕著だ

1979年、時代の終わりを象徴する作品を残した一人に、吉田拓郎がいる。

『TAKURO TOUR 1979』は、同年公演のうち日本武道館、静岡市民文化会館、そして愛知県篠島(オールナイトコンサート)での音源から編集されたライブアルバムである。LP2枚にEP1枚という豪華仕様。また2ヶ月後には続編のLP『TAKURO TOUR 1979 Vol.2 落陽』も発売され、さらに1990年には、2作品の抱き合わせである3枚組CD『COMPLETE TAKURO TOUR 1979』も発売されている。

当初の収録曲「ペニーレインでバーボン」だけは、今日では不適切だという語句「聾棧敷」が歌詞に出てくる事情から、CD化の段階で未収録となってしまったが(もともと「聾棧敷」とは、歌舞伎小屋の舞台から一番遠いところにある立ち見席の呼称。転じて、大事な話し合いの場から疎外された状況を表す場合に永らく常用された)その1曲を差し引いても、本作群は吉田拓郎の集大成と呼ぶに値する内容だ。


■潰れそうで潰れないボーカル

アルバム2作分で全35曲。往年のヒット曲からステージの定番曲、当時の近作曲、箸休めの小曲まで網羅されている。演奏面は、ホーンセクションやシンセサイザーなどの導入で装飾性が増していて、正直、楽曲本来の雰囲気にそぐわないと思える部分も多少ある。ただしボーカリスト吉田拓郎のほうは、非の打ち所がない。圧巻の名唱を聴くにつれ、細かい部分はどうでもよくなってくるのだ。

80年代を迎えるまでの拓郎は、ある程度意図的にノドを酷使することで、鋭利なハスキーボイスを保持していた印象がある。張り上げるときは、血が噴き出そうなほど荒々しい。一方で穏やかな節になると、どっしりと太く安定している。何故かさっきまでの “傷口” が瞬時に回復するのである。

異常に頑丈だったノドのせいか、はたまた本人も抗えぬ性分なのか、どんなに吠えても叫んでも退廃の世界へ外れてはいかず、市井の人々の胸に帰結する。無頼と人情、その二面性こそが70年代を駆け抜けた彼のボーカルの醍醐味だ。


■人懐っこくも謎めいたメロディ

もう一つ改めて感服する点が、メロディメーカー吉田拓郎である。これについては様々な分野の音楽家が称賛してきたが、皆の見解に共通するのは「得体が知れない」ということ。旧来の歌謡界には明らかになかった “乾き” を発しながらも、洋楽の耳からすると逆に微かな “湿り” を感じる。いわば、西洋と東洋の合わせ鏡のようなメロディを彼は書く。

実に簡潔で流行歌然とした中に、誰が書いたかすぐ分かる “何か” がある。作詞者が、あるいはボーカリストが他の誰であっても同様だ。“何か” は彼が書いてきた大半のメロディに含まれている気がするが、何故か1曲1曲の個性はきちんと瑞々しい。そのあたり、ちょっと矛盾しているから謎は深まる。

譜面上の理屈にも詳しい高名な人々でさえ太刀打ちできぬままの謎解きを、ぼくなんぞが出来るわけがないので深追いはしないけれど、彼を “和製ボブ・ディラン” の筆頭格に数えた時点で答えから遠ざかってしまうことは間違いないと思う。

ちなみに、1979年にはまだ近作だった収録曲「外は白い雪の夜」は、多忙を極めていた松本隆がわずか2時間ほどで長編詞を書きあげたところ、初見の拓郎がギターとラジカセを持ってきて7~8分間の即興でメロディをつけ完成させてしまった曲とのこと。あの珠玉のバラードを、である。日本一の作詞家に「大天才だよ」と言わしめた神話みたいな実話だ。


■「時代の寵児」としての有終の美

吉田拓郎のデビューは、ちょうど1970年。翌年開催の『第3回全日本フォークジャンボリー』(通称:中津川フォークジャンボリー)にて、メインステージでの演奏を予定していた岡林信康が観客の反乱でやむなく撤退したのとは対照的に、サブステージの拓郎がPA不良をものともしない怪作曲「人間なんて」で席巻したことから、このときが70年代のはじまりを示す交代劇だったという史観がある。

フォークの新旗手になるやいなや、反体制なるブランドに固執せず若者の恋心を堂々と歌い、コマーシャルソングの自作自演を引き受け、まるで畑の違う歌手やアイドルにも次々と名曲を書いた。その才能が70年代のうちに枯渇した… などと捉えるのは甚だ浅はかであるが、時代の寵児としての務めをひとまず終えた認識が彼自身にもあったことは、ライブアルバムの端々からそこはかとなく伝わってくる。

拓郎は、いつの頃も後発の才能に対して率直である。人間的評価と音楽的評価を区別しており、彼のことを心より慕うアーティストがそばに来ようとも、安易な誉め言葉は口にしない。

そして才能に惹かれたならば、たとえ自身の音楽性に反する存在であろうとも関係なく公で認めている。10年ほど前、レギュラーラジオ番組の中でこんな発言をしていた。

「自分と似たような音楽をやっている後輩がいっぱい出てくるのは感動も何にもしないんだけど、サザンオールスターズ(1978年デビュー)はまったく違うところからポンッと湧いてきたからさ、気分よかったね。それでよくあちこちで、あのバンドは面白いんじゃないかって言ってたんだよ」

他にYMO、RCサクセション、山下達郎ら、70年代までの流行総体を過去の産物に変えてみせたキーマンたちのことも、彼は好きだと言いきっている。単純にいえば、とにかく音楽が好きな人なのだ。

アルバムの最後(レコード版では付属のEP)に収録された約20分間にわたる「人間なんて」は、中津川の伝説、すなわち “吉田拓郎出現” のセルフオマージュだろう(諸説あるが、中津川では同曲を2時間演ったともいわれている)。また、ギターの弾き語りと観客の大合唱で構成された「落陽(Acoustic Version)」の中には「… ずっと歌うっていう決心が今はっきりついたな、俺は」という、時代の境目に居た彼の凛々しいつぶやきも記録されている。

ここで終わり、ここから今日に至る。旅はまだ続く。

2018.07.02
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  YouTube / 田辺康之


  YouTube / sentimentalh
 

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