森岡賢の他界から8年 日本のエレクトリック・ミュージック史において、圧倒的な異端ぶりをもって、その名を世に知らしめたバンドがSOFT BALLETだった。メンバーは遠藤遼一、藤井麻輝、森岡賢の3名。特にキーボードとダンサーを兼ねた森岡は、ステージでくねくねと身体を動かす独特のパフォーマンスで、観るものに強烈なインパクトを与えた。その森岡がわずか49歳の若さで他界したのは2016年6月3日。あれからもう8年が経つ。
森岡賢の父親は作編曲家の森岡賢一郎。日本のフリーアレンジャーとしては草分け的存在であり、ジャッキー吉川とブルーコメッツ「ブルー・シャトウ」や加山雄三「君といつまでも」などの編曲で知られ、沢田研二、天地真理、伊東ゆかり、小柳ルミ子など、主に渡辺プロダクション所属のシンガーたちの編曲を手がけた巨匠である。森岡賢はその三男として1967年3月15日に東京都港区で誕生した。
もともと父親のシンセサイザーで遊び始めたのが作曲に興味を持つきっかけとなった。中学1年の時に、ゲイリー・ニューマンの来日公演を見に行き、エレクトリック・ミュージックに開眼。その後はウルトラヴォックスなどニューロマンティック系のアーティストに傾倒、高校の頃、新宿のディスコ “ツバキハウス” に出入りするようになり、ここで藤井、遠藤と知り合う。
89年にメジャーデビューしたSOFT BALLETの音楽性 森岡は82年頃よりキーボードプレイヤーとして活動していたが、85年、前述の藤井、遠藤とともに前身バンドであるVOLAJUを結成しており、その後1986年(87年説もあり)SOFT BALLETへと発展する。89年4月、インディーズの太陽レコードからシングル「BODY TO BODY」をリリース。このレーベルは、パンクバンド火の宮(ひのきゅう)のリーダー、サワキカスミ(沢木一三)によって設立され、初期のBUCK-TICKも在籍していた。同年9月25日には、その「BODY TO BODY」とアルバム『EARTH BORN』をアルファレコードからリリースし、メジャーデビューとなる。
VIDEO SOFT BALLETの音楽性は、いわゆる "エレクトリック・ボディ・ミュージック"(EBM)と呼ばれるもの。サンプラーやドラムマシンなど、メインは電子楽器による演奏でダンサブルな音楽である。ニューウェイヴやニューロマンティックよりも暴力的で、かつエロティックな肉体性を感じさせるEBMは、その後インダストリアル・ミュージックの1つとして捉えられるようになる。まだ日本ではこのジャンルへの認識が薄かったこともあるが、彼らの独創性はぶっちぎりで、ある意味 “聴き手を選ぶ" 音楽でもあった。
日本では数少ないテクノバンド SOFT BALLETはポップな作風の森岡とハードでタイトなスタイルの藤井という、個性の異なる2人のコンポーザーがそれぞれに曲を書き、作詞はヴォーカルの遠藤が担うといったスタイル。当時、勃興していたニューウェイヴのサウンドの中からエレクトリックな部分を取り入れ、シンセサイザー音楽とダンスミュージックを融合させた、日本では数少ないテクノバンドであった。
森岡はヴィサージやウルトラヴォックスといったニューロマ系のサウンドからの影響が強く、一方の藤井は幼少期からクラシックとシンセサイザー音楽を聴き続け、冨田勲やクラフトワークなどの音楽を経てノイズ、インダストリアル、ハンマービートといった硬質でバイオレントな音楽を自身の曲作りに取り込んできた。この2人の個性の差が、遠藤の華奢で官能的なボーカルで表現されることにより、SOFT BALLETの世界観は確立されたのである。
ビジュアル面では3名とも、タイトで美しい肉体と、端正な顔立ちを持っており、遠藤と藤井は黒いレザー風の、どこかスペイシーな衣装に身を纏い、森岡は金髪で全身タイツ姿という中性的かつ妖艶なビジュアルで、たまにキーボードを触る以外は、常時くねくね踊りまくる。一方の藤井は、直立不動で客に鋭い視線を投げつけ、のちには顔を隠し、時にガスマスクを付けて演奏することすらあった。ステージ上では自身の印象を消そうとする藤井と、パフォーマーに徹底していた森岡。この2人の個性の差はそのまま2人の音楽性の差でもあったのだ。
森岡賢の個性によるところが大きいファーストインパクト ファーストアルバム『EARTH BORN』における森岡の作曲作品は10曲中6曲。特に「PASSING MOUNTAIN」には、意外なほどポップで分かりやすい電子音楽といった印象を持つ。逆に半年後にリリースされた2作目『DOCUMENT』では、藤井が「ESCAPE」のようなポップな曲も書くようになり、全体としてはビジュアル面も含め、影響を受けているとよく語られていたデペッシュ・モードの雰囲気に最も近い。
VIDEO VIDEO おそらくSOFT BALLETにおける森岡は、音楽面ではポップな楽曲によって大衆的認知を担い、一方では奇抜に見えるパフォーマンスによって人々の目を惹き、まだ日本ではほとんど認知されていなかったエレクトリック・ボディ・ミュージックの世界に聴き手を呼び込む役割があったのだと思われる。実際、テレビの音楽番組で偶然、彼らに出会った者たちは、SOFT BALLETといえばあのくねくねダンス、と記憶しているはずで、それほど強烈なファーストインパクトを残したのは、森岡の個性によるところが大きいはずだ。
オリコン最高8位を記録したアルバム「愛と平和」 ミニアルバム『3(drai)』を挟んでのフルアルバム3作目、91年発表の『愛と平和』では、折からの湾岸戦争をテーマに制作。無機質なデジタルビートの中に耽美性を取り入れている点は変わらず。しかし、コンセプトアルバム的な構成力の高さと、起伏に富んだ楽曲群は、ダークさとポップさのバランスが良く、森岡と藤井の作風も互いに接近している。むしろ森岡のポップ感覚を藤井が整えて、それを作詞という形で遠藤が言語化することでSOFT BALLETの音楽は完成していたように思える。
ことに森岡の書いた「EGO DANCE(EXTENDED VERSION) 」は、このバンドならではの世界観が爆発した1曲。アルバムはオリコン最高8位を記録し、これを置き土産にSOFT BALLETはアルファからビクターへと移籍する。
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コアな音楽ファンには絶賛されたビクター時代のSOFT BALLET ビクター時代のSOFT BALLETは、4作目のフルアルバム『MILLION MIRRORS』が徹底してダークかつハードでインダストリアルな作風へと振り切っており、コアな音楽ファンには絶賛されるも、ライト層が離れてしまう結果を生んだ。要は “わかりにくい" アルバムとなったのだが、5作目『INCUBATE』は逆にポップな作風が戻ってきており、特に「ENGAGING UNIVERSE」「WHITE SHAMAN」といったシングル曲(いずれも森岡作曲)にはその色が濃い。ビクター時代のアルバムはいずれもチャート上位に食い込んでおり、彼らのアーティスティックな表現を支持する層は、確実に多く存在していたのだ。
VIDEO VIDEO SOFT BALLETは95年を以て一度解散、その7年後に再始動し、フルアルバム『SYMBIONT』をワーナーミュージックから発表するが、この際、他のメンバーのビジュアル面のイメージが大きく変化したのに比べ、森岡は髪こそ黒くしたものの、変わらない印象で登場。やはりSOFT BALLETの持つ耽美な世界と肉体性を象徴していたのは森岡だったのである。
森岡賢はその肉体性をもって、ストイックなアート的側面と、ある種の華麗な芸能的側面の両方を有していたように思う。それが幼少期の家庭環境から来るものなのか、あるいは10代の頃の様々な音楽的影響から来るものなのかはわからないが、あの毒々しさと華やかさを兼ね備えた稀代のパフォーマーは、SOFT BALLETという "場" を得て、初めて花開いたのだと思わざるを得ない。
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2024.06.03