唯一無二の存在として輝き続けているピンク・レディーの楽曲 2026年8月25日にデビュー50周年を迎えたピンク・レディー。彼女たちの楽曲は半世紀を経た今も色褪せることなく、新たなファンを獲得し続けている。往時を知らない若いアーティストが多数参加したトリビュートプロジェクトが成立したのは何よりの証と言えるだろう。“ピンク・レディー” の名付け親にして、デビュー曲「ペッパー警部」以降、ほとんどの楽曲の作曲・編曲を手がけた都倉俊一へのインタビュー。後編では当時のスタジオワークやサウンドに関する話、そして時代を超えて愛される楽曲の条件などについて語ってもらう。
―― 前編ではゴールデンコンビと言われた阿久悠さんとの創作に関するお話を中心に伺いました。お二人がそれぞれのおもちゃ箱からアイデアを取り出し、既成概念にとらわれない曲づくりをされたからこそ、ピンク・レディーは唯一無二の存在として輝き続けているのだと思います。
都倉俊一(以下:都倉):僕と阿久さんは常に新しいことに挑戦してきましたけど、だからといって良い結果がいつも出るとは限らない。残念ながらヒットに結びつかなかった作品もあります。
衣装や歌う姿を想像しながら作った「カルメン ’77」 ―― ピンク・レディーに関しては右肩上がりにセールスが上昇。サードシングルの「カルメン ’77」(1977年3月)以降も奇想天外な世界観とキャッチーなメロディ、そして土居甫さんによる振り付けで、さらにブームが加速していきました。都倉先生のサウンドも1作ごとに変化して、“今度はこう来たか!” とワクワクしたものです。
都倉:前編でもお話ししたとおり、僕にはやりたいサウンドがたくさんありましたから、それをいかに応用するかを考えていました。「ペッパー警部」ではブラスロックを意識したと言いましたけど、その色を最も強く打ち出したのが「カルメン ’77」です。頭の中で彼女たちの衣装や歌う姿を想像しながら作った曲ですが、いざレコーディングとなったとき、トランペットの羽鳥幸次さんが ”都倉さん、これはしんどいですよ” と。確かにイントロで音符が踊りまくっているので、息継ぐ暇がない(笑)。何回も吹いてもらって、ようやくOKが出たときはブラスセクション全員が疲労困憊でした。
VIDEO ―― スタンドマイクを前に腰を振って踊り始める2人の姿が目に浮かぶイントロですが、オケ録りでそんなご苦労があったとは。ミュージシャンが熱を込めて演奏していたからこそ、伝わるものがあったのでしょうね。
都倉:僕のスタジオではいつもトップミュージシャンを集めていましたが、当時の歌番組はカラオケを使わず、ビッグバンドが演奏していました。ですから、ビッグバンドの方たちも相当苦労されたようです。でも売れっ子となった彼女たちが毎週のように出演するので、1ヶ月もしたら皆さん上達してね。それはピンク・レディーの2人もそう。この頃になると忙しくて、歌入れではメロディと歌い方を教えるくらいでしたけれども、歌番組に出るうちにどんどんうまくなっていきました。
―― サウンド面の取り組みをもう少しお聞かせください。
都倉:「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)はファンクですね。エレキギターで作曲しましたが、ああいう後ノリの楽曲って、あの時代はあまりなかったんです。今で言うラップパートもありますが、僕がサウンド的にやりたかったことは「ウォンテッド」でひと区切り。そのあとの「UFO」(1977年12月)や「サウスポー」(1978年3月)ではテーマ性を優先して、場面に合わせて作る感じでした。言ってみればひとつのミュージカルを作る発想。ピンク・レディーの2人は我々が作り上げたミュージカルの主役で、フィクションの世界のヒロインを演じてくれました。「モンスター」(1978年6月)以降はアレンジ技術を駆使する世界に入っていきましたね。
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ミイとケイのリアルな気持ちを考えて作った「マンデー・モナリザ・クラブ」 ―― その後もヒットを重ねていくピンク・レディーですが、1979年より米国進出を本格化。全編英語詞の「KISS IN THE DARK」(日本発売:1979年9月)が全米ビルボードで最高37位のヒットを記録します。その頃に都倉先生と阿久さんが書かれたのが「マンデー・モナリザ・クラブ」(1979年9月)でした。
都倉:阿久さんと話をして、従来のあざといというか、分かりやすい世界から、“大人になったピンク・レディー” を見せようとした曲です。それまでの楽曲はヒロインの中に実在のミイとケイはいなかったけれども、「マンデー・モナリザ・クラブ」は2人のリアルな気持ちを考えて作った歌。こういう世界も僕がやりたかったことでした。
―― ピンク・レディーは阿久さんが休筆宣言をした1979年で阿久・都倉コンビを離れ、その後はさまざまな作家と組んでいくことになります。お二人が再び彼女たちに提供したのは解散直前のシングル「OH!」(1981年3月)でした。
都倉:「OH!」は詞先での制作でした。長い間、ピンク・レディーとして我々が作る世界を演じてきてくれたミイとケイへの感謝を込めて阿久さんと作った、2人のためのはなむけの歌です。先日のトリビュートコンサートでは一青窈さんが見事な歌唱を聴かせてくれて、“我ながらいい曲を書いたな”と思いましたね(笑)。
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ピンク・レディーのレコーディングに参加したトップミュージシャンたち ―― 実力派が揃ったステージでしたが、特に一青さんは会場全体を惹きつける圧巻のパフォーマンスで、楽曲の素晴らしさを改めて感じました。ところで、先ほど羽鳥幸次さんのお名前が出ましたが、ピンク・レディーのレコ―ディングに参加したスタジオミュージシャンを確認させてください。以前、エンジニアの山口照雄さんからは、このような顔ぶれだったと伺いました。
・ドラム / 宗台春男
・ギター / 津村泰彦
・ベース / 初期が武部秀明、途中から金田一昌吾
・キーボード / 前半が羽田健太郎、後半が井上鑑
・パーカッション / 川原直実
・ブラス / 羽鳥幸次グループ
・トロンボーン / チャンピオングループ
・ストリングス / 多ストリングス
・コーラス / 前半が伊集加代中心のシンガーズ・スリー、後半がEVE
都倉:そうですね。時代によって多少、顔ぶれは変わりますが、僕のセッションではピンク・レディーに限らず、どの歌手であろうと同じメンバーでやっていました。
―― 先生が信頼を寄せるミュージシャンをインペグ屋さん(*インスペクターに由来。レコーディングやライブで、ディレクターやプロデューサーの要望に応じて演奏家を斡旋・コーディネイトする業者)が手配していたと。
都倉:そういうことです。アメリカで言えばTOTOのメンバーのようなトリプルスケール(基本報酬の3倍のギャラが支払われること)級のトップミュージシャンたちですよ。日本にはユニオン(組合)がないので、そういう規定はなかったけれども、プロジェクトがいい転がり方をしてくると、いいミュージシャンが集まってくれる。自分が関わった曲がヒットすれば “あれは俺が演奏している” というモチベーションが高まりますし、売れているプロジェクトはギャラも上がっていきますからね。山本リンダのセッションに参加したメンバーは彼女のツアーにも同行して、かなりの報酬を得ていました。
一旦完成した「サウスポー」を2日間で別の曲に作り直す ―― ミュージシャンにしてみれば、ヒットメーカーの都倉先生のセッションからお声がかかれば最優先で参加していたことが窺えます。ちなみに阿久さんがスタジオに来られることはあったのでしょうか。
都倉:いや、それはなかったですね。阿久さんはピンク・レディーのプロジェクトが始まった頃、宇佐美(静岡県伊東市)に引っ越したから、歌詞をファックスで送ってくるんです。東京にもオフィスがあったので、ピアノやスキャットでメロディを入れたオケができると、その音源を入れたテープを阿久さんに渡して、歌詞ができたら歌入れをする。大体そういう流れでしたね。
―― 以前、ピンク・レディーのディレクターだった飯田久彦さんにお話を伺ったとき、“都倉さんはピアノでメロディを考えて譜面を書く。そして作曲をしながら、同時にアレンジも考えているのです。こういう作り方があるのかと感嘆しました” とおっしゃっていました。
都倉:飯田さんの依頼で、一旦完成した「サウスポー」を別の曲に作り直したときは2日でオケまで完成させました(苦笑)。当時のピンク・レディーの新曲は桁違いの枚数をプレスしなくてはならなかったので、工場がスケジュールを空けて待っている。発売日を延期することはできなかったんです。
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編集やミックス、マスタリングまで、すべてサービスでやっていた ―― お話を聞いていると、先生は作品のテーマや世界観を阿久さんと決めたあとは、作曲、編曲、ミイさんとケイさんへの歌唱指導とボーカルディレクションまで関わっていたことが分かります。ほかの歌手も並行して担当しつつ、『スタ誕』への出演も続けていたわけですから、相当お忙しかったのではないですか。
都倉:ちょうどデジタルマルチトラックテープ(*1978年に3M社が32チャンネルのデジタルマスタリングシステムを開発。アナログ磁気テープの限界だったヒスノイズや音質劣化を劇的に改善した)という画期的な技術が登場した頃で、僕は編集やミックス、マスタリングまでやっていました。だから冗談で “阿久さんと同じ印税はおかしい” と言っていたんです(笑)
――今ならプロデュース印税が発生するところですね。
都倉:プロデューサーという職種が脚光を浴びたのは1990年代ですが、1970年代はそういう概念すらなくて、すべて作曲家がサービスでやっていた。レトロスペクトで考えると、だいぶ稼ぎ損ねましたね(笑)
腕利きのミュージシャンたちが面白がって演奏してくれた ―― デジタルの話題が出ましたが、当時は録音できるチャンネル数がどんどん増えていく一方、シンセサイザーの登場などで、スタジオワークの環境が激変したと聞いたことがあります。
都倉:1970年から1980年代半ばくらいまでの15年間は音楽制作が多元化して、大きく発展した時期だったんじゃないかな。電子楽器もどんどん増えていったしね。松武秀樹くんは今ではもう大御所ですけど、あの頃はスタジオによく出入りしていて、“こういう音はどうですか” と。高額の機材に投資していたので、使ってもらわないことには回収できないわけですよ。僕自身、新しいことが好きだから、かなり早い段階でいろんな音を試しましたね。
―― エンジニアの山口照雄さんによると「S・O・S」の冒頭で鳴るモールス信号は、ビクタースタジオが導入したばかりのアープ(ARP)というアナログシンセサイザーで作った音だとか。先生が面白い音を探していたので提案したところ採用されたとおっしゃっていました。
都倉:そうそう(笑)。「UFO」のイントロのピピピッという音は、当時愛用していたアナログシンセのミニモーグ。「サウスポー」ではドラムの宗台(春男)くんが持ってきた初代のシンセドラムを使っています。前編でお話しした僕のおもちゃ箱には新しい楽器で遊ぶという選択肢もあったので、シンセドラムはピョンピョン飛ぶ感じが面白くて、ずいぶん使いました。でもあの時代は生のリズム隊だったから、今の打ち込みとは違うんです。今聴いてもノリがいいのは、腕利きのミュージシャンたちが面白がって演奏してくれたからでしょうね。
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ピンク・レディーの2人がどう動くかまで考えながら作ったイントロ ―― そういった遊び心がサウンドにも詰め込まれていたからでしょうか。ピンク・レディーの楽曲はイントロからキャッチーで印象に残るものばかりです。
都倉:僕はまず “どういうイントロで始めるか” から考えるんです。イントロでどういう楽器を使って、どういうサウンドにするか。ブラスロックなのか、ビーチ・ボーイズなのか。そして歌番組での歌唱を意識して、どういう入り方にするか、ピンク・レディーの2人がどう動くかまで考えながら作っていました。
―― 作曲と編曲を同時に行なう先生ならではの作り方ですね。
都倉:メロディだけ作って、イントロやサウンドづくりは編曲家に任せている先輩作曲家たちからは “都倉くんは大変だね” とよく言われましたよ(笑)。それくらいアレンジは楽曲制作において大事な要素なのに、日本では長らくアレンジャーに対する印税がありませんでした。
―― いわゆる買い取り式で、1曲あたりの固定報酬が原則のようですね。
都倉:それはおかしいだろうということで、僕がJASRAC(日本音楽著作権協会 / 都倉氏は評議員、理事、会長を歴任)にいたとき、ずいぶん闘ってカラオケ使用料の一部を分配する仕組みを作りました。それでもいまだにアレンジには著作権が発生しない、これは今後の課題ですね。
音楽というのは理屈じゃない ―― 都倉先生が阿久さん、土居さんとともに創り上げたピンク・レディーの楽曲は現在も多くの人によって歌い、踊り継がれています。当時、歌謡曲は一過性のもので残らないと見る向きもありましたが、先生はどう受け止めていますか。
都倉:何が残るかなんて、考えたこともなかったですよ。そもそも音楽というのは理屈じゃないしね。でもいいメロディであれば、何かしら感じてくれる人がいるわけです。最近は日本のシティポップが海外でも聴かれていますが、その背景には誰でも自由に楽曲にアクセスできるようになった環境がある。インターネットの功罪の “功” の部分で、今の時代、自分が “いいな” と感じた音楽であれば、それがどこの国でいつ生まれたものかは関係なくなりました。僕が作曲した「私のハートはストップモーション」(桑江知子 / 1979年)がイギリスの喫茶店で流れたりしていますからね。阿久さんが言っていた “受け手との化学反応” が今は世界じゅうで起きているんです。
―― サブスクと動画サイトの普及が音楽の聴き方を変えました。
都倉:僕は昨年2月、UAE(アラブ首長国連邦)のアブダビで開催された音楽祭で表彰されたのですが、それは文化庁長官としてではなく、シティポップ的なアクセスが多数あったことが認められたものでした。今まで一度も行ったことがない国でしたが、現地の音楽ファンが主催者に僕を推薦してくれたことがきっかけだったようです。
歌のないインストゥルメンタルでも、メロディが良ければ人の心に届く ―― 最近は欧米だけでなく、アジアや中東でも日本の音楽が注目されているようです。
都倉:僕が松崎しげるさんに書いた「私の歌」(1976年)は韓国で人気があるんです。それは日韓共同のオーディション番組で初代女王となった福田未来さんが歌ってくれたことがきっかけでね。その影響で松崎しげるさんも韓国で人気を集めるようになりました。
―― 「私の歌」はそれこそピンク・レディーのデビューと同時期にリリースされた50年前の楽曲。松崎しげる版「マイ・ウェイ」とも言うべきメロディアスなバラードです。
都倉:近年の韓国はK-POPと呼ばれるダンスミュージックが主流でしたが、現地の人たちと話をしていると、そろそろ限界という見方もある。もともとは演歌というか、メロディの国ですから、「私の歌」が注目された状況を見ても、これからはライトポップやバラードも出てくるのではないかと思いますね。
―― 長らくヒップホップやEDMなどリズム主体の音楽がチャートを賑わせる傾向がありましたが、時代は巡るものですし、そろそろ揺り戻しがあるかもしれません。
都倉:高中正義さんの海外ツアーも大人気で15,000人を動員したそうですが、彼がギターでメロディを弾くと、お客さんがそれに合わせて歌っている。歌のないインストゥルメンタルでも、メロディが良ければ人の心に届くんですよ。
―― シティポップブームを機に日本の音楽への関心が高まり、どこで火がつくか分からない、面白い時代になりました。
都倉:本当にそう思います。だからこれからは火がつくのを待つだけでなく、戦略的に仕掛けていくことも必要になる。僕が文化庁にいたときに作ったCEIPA(カルチャー アンド エンタテインメント産業振興会)はまさにそういうことをするための団体なんです。日本には素晴らしい楽曲がたくさんあるわけですから、業界が一丸となってグローバル化やデジタル化に対応して、本邦のアーティストや音楽の海外展開が促進されることを期待していますし、私自身もお手伝いができればと考えています。
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2026.09.07