連載【佐橋佳幸の40曲】vol.15
ラブ・ストーリーは突然に / 小田和正
作詞:小田和正
作曲:小田和正
編曲:小田和正
J-POP黄金時代の幕開けを告げた「ラブ・ストーリーは突然に」名イントロは佐橋佳幸
1989年にオフコースを解散してから本格的にソロアーティストとしての活動をスタートさせた小田和正。彼が1991年にリリースしたソロ6作目のシングルが「ラブ・ストーリーは突然に」(Oh!Yeah!との両A面)だ。今さら何の説明もいらないだろう。フジテレビ系ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として作られ、シングルチャート初登場1位、年間チャートでも1位。発売からわずか2週でミリオンセラーを達成している。1990年代、J-POP黄金時代の幕開けを告げた不滅の名曲だ。
ドラマ自体も社会現象化する大ヒットを記録。毎週、ドラマ内の印象的な場面で、この曲のイントロ、「♪チャカチャチャーン」が流れた。弾いているのは… これも言うまでもない、佐橋佳幸だ。佐橋の名を知らなくとも、このイントロを聴いたことがない人はいないはず。これはセッションギタリストとしての佐橋にとって名刺代わりともいえるフレーズとなった。
「小田さんはソロ活動を始めた最初の頃はロサンゼルスで録音していたんだけど。僕が初めてお会いしたのは、ちょうど日本での録音がメインになり始めた頃。基本的には打ち込みで作って、どうしても打ち込みでは表現できないギターはギタリストを呼んで、他にも必要な楽器があったらそれもダビングして、あとは歌とコーラスを入れて完パケ… という形が定着してきていたんです。そういうやり方が主流になりつつあった時期。
このあいだ話した、教授(坂本龍一)と同じやり方ですよね。それで、誰かギターいないかなって話になっていたところに、僕が登場したんです」
何かあったら “とりあえずサハシを呼べ” 状態
セッションギタリストとして佐橋が関わってきた人脈からすると、小田との出会いはちょっと意外な印象もある。が、思いがけないところに接点はあった。
「鈴木祥子ちゃんや安藤秀樹くんのマネジメントをしていた上野カンパニーというのが、もともとオフコースのマネージャーだった上野博さんの始めた事務所だったんです。当然のことながら小田さんの事務所ともつながりが深かった。で、ある時、祥子ちゃんの関係者が、小田さんの事務所の人に “今、祥子ちゃんとか安藤くんとかいろいろやってくれている佐橋くんってギタリスト、すごくいいよ” みたいな話をしたらしいんです。それで、じゃあいちど頼んでみようということになって。そしたら、小田さんがすごく気に入ってくれたんです。その頃だとハイ・ファイ・セットの「忘れないわ」とか、マーチン(鈴木雅之)さんの「FIRST LOVE」とか、小田さんのプロデュース作品でもいろいろ僕を重用してくれるようになったんです。何かあったら “とりあえずサハシを呼べ” 状態(笑)」
「そうこうするうちに、“サハシも忙しそうだから、ギターダビングしたい曲が3〜4曲たまったところでまとめて呼んだほうが効率がいいんじゃないか” ってことになった。1曲呼ばれるごとにスケジュール調整して、スタジオでセッティングして、弾いて、片付けて、また別の曲ができたら呼ばれて… じゃなくね。それからは、どんな曲が来ても、何曲ダビングがあっても、小田さんがどんなことを思いついても、すぐ対応できるように最初からスタジオに全部セットアップしてから始めるようになりました。アンプも何種類か、エレキもアコギも全部セットアップしておいて。そうしておけば、たとえば小田さんが “次はやっぱりアコギがいいかな” って言い出しても待たせずにパッと弾けるでしょ」
譜面に《CX》とだけ書いてあった “あの曲” とは?
ある日、いつものように小田に “召喚” された佐橋は、今はなき神奈川・観音崎マリンスタジオへと向かった。リゾートホテル・観音崎京急ホテルに併設された海辺のレコーディングスタジオ。合宿レコーディングにも最高の環境で、数多くの有名アーティストたちに愛されていた名門スタジオだ。当時、小田和正もこのマリンスタジオを日本でのホームグラウンドのひとつとして愛用するひとりだった。
「この日はギターダビングだけなので、スタジオにいたのは僕と小田さんとエンジニアとスタッフだけ。着いた日に2曲くらい弾いて、その夜は隣のホテルに1泊して、翌朝起きたらまたスタジオに行って、さらに2曲くらい弾いて帰る… みたいなスケジュールだった。で、1日目の最後にやったのが譜面に《CX》とだけ書いてあった曲で。これ、何だろうと思っていたら、小田さんが “フジテレビのドラマの主題歌を頼まれて書いた曲なんだよ、だからどうだって話じゃねぇんだけどさ…” って教えてくれたんです。それで “ちょっと下世話なんだよ” とか言いながら聴かせてくれたのが、みなさんご存知の “あの曲” だったんです」
佐橋のプレイは小田の期待に応えた。この曲を録り終え、その日のダビング作業は終了。仕事を終えた一行はホテルに戻って遅い夕食にありついた。
「いい感じで録れてよかったね、お疲れさま… と。みんなでメシ食いながらいろいろしゃべってて。小田さんは飲まないんだけど、“僕ら飲んじゃっていいすか?” ってビールも飲んで(笑)。そうこうするうちに、小田さんが “なんかさぁ… さっきの主題歌のヤツ、ちょっとイントロ弱いかな” とか言い出したの。気に入ってはいるんだけど、何かがちょっとひっかかっているみたいで、さっき録音したカセットを聴きながら首をひねってて」
「で、いったんは “まぁ、とりあえず今日の作業は終わったことだし、明日もういちど考え直そうか…” ということになったの。でも、俺、その時にフッと思いついたことがあって。それで、小田さんに “ちょっと思いついたことがあるんですけど、今からやってみていいですか?” と言って、ゴハンを食べ終わってからそのままスタジオに戻ったんです。翌日もまだセッションがあるから、機材のセッティングはそのままになっていて。とりあえず電源だけ入れてもらって。エンジニアに、ちょっと僕にマルチのトラック1個くださいって言って…」
最後にひとつ開けるのを忘れていたフタが開いたような感じ
ただ、佐橋の思いつきをレコーディングするにはひとつだけ軽い障壁があった。
「僕が思いついたのは、曲の前に何かフレーズを入れたいってことだったんだけど。もともとは演奏の前にカウントが1小節分しか入っていなかったのね。”ワン・ツー・スリー・フォー、ジャーン!” って演奏が始まった。でも、それだと思いついたフレーズを入れづらい。リズムが悪くなっちゃうから。それでカウントをもう1小節分、前に足してもらったの。”ワーン・ツー・ワン・ツー・スリー…” って。打ち込みだったからエンジニアの人がぱぱぱっと編集してくれて。それで3拍目のウラから6連で「♪チャカチャチャーン」って、あれを弾いたんです。そしたら小田さんがすぐ “これだ!” ってなって」
「あとね、楽器弾く人だったらわかると思うんだけど、あの曲、普通にギターをチューニングしてレコードに合わせて弾こうとすると、ピッチが合わないのよ。あの頃はまだテープだったんで、実は、すべて完成した後、最後の最後に小田さんがテープスピードをちょっとだけ速めたんです。完成したのを聴いて “あれ、なんかちょっとピッチが…?” “ごめん、最後にテープの回転数を速くした。そっちのほうが佐橋のイントロもスピード感出るし…” って。なるほど、と思いました。結局ね、あの「♪チャカチャチャーン」が出た瞬間から、小田さん、急に火がついて。どんどんアイディアが出まくって。すごい勢いだったんです。あのフレーズをきっかけに、最後にひとつ開けるのを忘れていたフタが開いたような感じだったのかもしれない」
「すごい勢いといえばね、俺、「♪チャカチャチャーン」がうまくいったのはいいんだけど、その後ちょっと、勢いで好き勝手弾きすぎちゃってさ。2カ所ぐらい違うコード弾いちゃったのよ(笑)。で、普通ならやり直すところなんだけど、小田さんが “ちょっと待てよ、この流れのほうがいいからオケを変えよう” と言って。僕が弾いたギターをそのまま残して、プログラマーの人と一緒にオケのほうのコードを変えてくれたの。それで、あの曲が完成したんです。だから、たしかいちばん最初に弾いた時のコード進行はちょっと違っていたはず。そんな記憶があるんですど」
時代を超える曲が誕生した伝説の夜
昔から、名曲が生まれた瞬間を “降ってきた” と説明するソングライターは多い。が、この曲のイントロの場合、それとはまた少し違うのかもしれない。小田和正が書いたこの曲はもとから名曲としての運命を背負って生まれてきて、しかし、どちらの方角に向かって歩き出せばいいか迷っていた。そんな曲の背中を、佐橋のキャッチーなギターカッティングがぽんと押したような…。
「たしかに。降ってきた、とも違うんだよね。ただ、なんで小田さんは “イントロが弱い” って言ってるんだろうなって、メシ食いながらずっと思ってたんだよね。僕としては、もう十分にいい仕上がりな感じがしていたし。それでも小田さんが何か足りないと感じているのだとしたら、もしかしてドラムフィルみたいなものがイントロの前に入ってないからじゃないか、だったらその代わりを俺がやればいいじゃんって。僕はそう思ったんだろうな、たぶん」
世の中はどんどんデジタル化してゆき、セッションマンの仕事が次々とコンピューターに奪われていった時期。それでも、デジタルでは表現できない音がある。かつて佐橋は、こんなことを話している。
「ミュージシャンってずっと8ビートで乗っていても、その後で3連を感じてたり、16ビートを感じてたり、いろんなリズムを身体の中で感じながら演ってたりすることがあって。僕もそういうタイプ。あの曲(ラブ・ストーリーは突然に)を録音したころは打ち込みの時代だったから、オケはいわゆる四角いビートでしょ。だから、より一層その辺を意識しながら弾いてたのね。4つ打ちのディスコっぽいビートの中、僕は身体の中で3連を感じながら演奏していて。それがアタマの “♪チャカチャ” になったんだと思う」(コンピレーションCD『佐橋佳幸の仕事1985-2015』ライナーノーツより)
ギタリストとして、時代の波に乗りながらもデジタルなビートにはけっして呑みこまれない。佐橋のそんな姿勢がこの曲のプレイにもあらわれているのかもしれない。時代を超える曲が誕生した、まさしく伝説の夜…。
「幸運だったのは1泊とはいえ合宿レコーディングだったこと。東京のスタジオだったら、終わったら楽器も片付けちゃうし、メシ食ってる時に思いついたからってそのままスタジオに戻るわけにはいかない。とにかく、セッティングがそのままだったのがよかった。あと、もうひとつ。これ、そろそろ時効だと思いますから告白しますけど… あれ、飲酒運転なんです」
い、い、飲酒運転?
「ここまでの話でおわかりのように、この時点で僕、もう、ビール飲んじゃってるわけです。なので、ちょっとだけ酔っ払った状態で弾いてる(笑)。すいません。まぁ、まだビールくらいだったからよかったけど。あの時、メシ食った後に焼酎にでも突入していたらもう弾けなかったかも。それも、まぁ、勢いがついてよかったんだな… と思っていただければ。もちろん、このイントロ弾いた後、ホテル戻ってまた飲み直しましたけどね(笑)」
小田和正が模索していたスタイルとか世界観が完成
この曲のヒットにより、小田との縁はますます深くなってゆく。その後も数多くのセッションに参加。やがて佐橋は、小田が代表取締役を務める個人事務所『ファー・イースト・クラブ』に移籍。マネジメント契約を結び、長らく籍を置くことになる。
「この曲あたりからだったと思うけど、小田さん、エンディングをサビのリフレインにして、そこで僕がギターソロを弾きまくってフェードアウトしていく… というスタイルを多用するようになったんですよ。そのパターンでその後いったい何十曲やったかわかんない。レコーディングに行くと、本編ができあがったところで、“じゃサハシ、最後に弾きまくって帰って” って言われるという(笑)。ソロになってからの小田さんが模索していたスタイルとか世界観とかが、ここである意味、完成したのかもしれないですね」
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2024.02.24