1月24日

【1984年の革命】伝説の初代マック「Macintosh 128K」アップルコンピュータから発売!

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アップルコンピュータの伝説のCM「1984」


アメリカの広告史に残る1本のCMがある。

ディストピアを思わせるモノクロームな巨大空間に、1本のチューブ状のトンネル――。その中をスキンヘッドの男たちが機械的に行進している。皆、灰色の囚人服のような装いで、一様に無表情。背後に、何か演説のような声が聞こえる。

そこへ、若い女性アスリートの疾走する姿がカットイン。彼女は、灰色の服の男たちとは対照的に、ブロンドのヘアに白のタンクトップ、赤いハーフパンツと色鮮やか。その手には巨大ハンマーが握られ、背後には追っ手たちが迫る。

灰色の男たちが広い講堂に辿り着く。正面には巨大スクリーン。演説する1人の人物が投影されている。冒頭から聞こえる声の主の正体だ。灰色の男たちは椅子に腰かけ、ただ無表情でスクリーンに見入る。そこへ、先の若い女性が駆け込んでくる。

次第にヒートアップするスクリーン内の演説。まるで、どこかの国の独裁者のようだ。その時、女性アスリートがハンマー投げの要領で回転を始める。追っ手たちが迫る。独裁者のアップ。ハンマーが手から放たれ、スクリーンに飛んでいく。次の瞬間、白い光を放って砕け散る――。

その光と爆風を浴びながら、驚きの表情を見せつつ、身動きしないスキンヘッドの灰色の男たち―― そんな彼らを背景に、明朝体のコピーが画面を覆う。

On January 24th,
(1月24日、)

Apple Computer will introduce
(アップルコンピューターは発表する)

Macintosh.
(―― マッキントッシュを。)

And you'll see why 1984
(そしてあなたは知る。1984年が――)

won't be like “1984”.
(―― 小説『1984』のようにはならないことを。)



アップルコンピュータ(現:アップル)の伝説のCM『1984』である。恐らく、誰もが一度はテレビ番組やYouTubeなどで見たことがあるだろう。それほど有名なCMなのに、アメリカで公式にオンエアされたのは一度切りというのが驚く。

それは、1984年1月22日、米CBSが中継した第18回スーパーボウルのハーフタイムの直後だった。全米で9,000万人が視聴して、放映されるや、問い合わせでCBSとアップルの電話回線がパンクしたらしい。

その日、米3大ネットワークの夕方のニュースは、その奇妙なCM―― 商品を見せず、商品説明もないCMの反響を伝え、全米各地の人々は口々にその感想を語り合った。今日、スーパーボウルのCM枠は高騰を続け、30秒で700万ドル(約9億2,000万円)と言われるが、そのキッカケを作ったのが『1984』である。当時、アップルはCM枠を80万ドルで購入したが、広告代理店の試算によると、その広告効果は500万ドルを下らなかったという。更に、CMは同年のカンヌ国際広告祭のグランプリを受賞した。

CMの世界観は、核戦争後のディストピア


そんな伝説のCMを作ったのは、この2年前に映画『ブレードランナー』を監督した名匠リドリー・スコットである。言うまでもなく、元ネタはジョージ・オーウェルのSF小説『1984』だ。あのCMの世界観は、小説で描かれた核戦争後のディストピアであり、灰色の男たちは、 ”テレスクリーン” なる双方向テレビでその行動を逐一監視され、”ビッグ・ブラザー” に支配された市民である。そう、あのCMで演説していた人物こそ、ビッグ・ブラザーだった。

もちろん、それらは全て比喩である。じゃないと伝説にならない。灰色の男たちの正体は、80年代前半のパーソナルコンピュータ黎明期に、その高価格と難解なインターフェースに悩まされたPCユーザーであり、ディストピアからの解放を図る若い女性アスリートは、PCの民主化を仕掛けるマッキントッシュ自身だった。そして、彼らが倒すべき相手―― ビック・ブラザーとは、当時コンピュータ業界で圧倒的な地位を築いていた巨人「IBM」に他ならない。ちなみに、IBMの愛称は、そのロゴカラーから “ビッグブルー” と呼ばれる。

シンプルで美しいデザイン、市場が大歓迎した初代マッキントッシュ





かくして、CM放映から2日後、アップルから記念すべき “初代マッキントッシュ”――『マッキントッシュ 128K』が発売された。それまで高価格ゆえにビジネス仕様に限られていたPCが、初めて個人でも手が届く2,495ドル(当時のレートで約59万円)に価格が抑えられ、加えて、そのデザインはシンプルで美しく、どこか相棒的なキュートさもあった。市場は大歓迎した。

ヒットの要因はそれだけじゃない。同商品は、初めて “マウス” を採用したのだ。ユーザーは、画面に表示された “ウィンドウ” “メニュー” “アイコン” “ボタン” のグラフィックをマウスで選択すればよく、素人でも直感的に扱えるようになった。そう、今日のパソコンの基本スペックは、この128Kが扉を開けたと言っても過言じゃない。それらの人の視覚や直感に寄り添う操作性を「グラフィカルユーザインタフェース(GUI)」と呼ぶ――。

21歳のスティーブ・ジョブズ、アップルを設立


少々前置きが長くなったが(長すぎる!)、今日、1月24日は、今から40年前の1984年に、パソコンが晴れて “民主化” に至った名機『マッキントッシュ 128K』が登場した記念すべき日にあたる。

話は、少しばかりさかのぼる。

アップルが設立されたのは、1976年4月1日―― カリフォルニア州ロスアルトスである。創業メンバーは21歳のスティーブ・ジョブズと、25歳のスティーブ・ウォズニアック。それにビジネスの指導をしてもらいたいと、ジョブズが引き入れた20も年が離れたロナルド・ウェインの3人だった。オフィスは、ジョブズの実家のガレージに置かれた。

社名の『アップル』は、ジョブズ自身が命名した。後に彼は「当時、自分は果食主義者で、リンゴが完璧な食品だと考えていた」と述懐するが、一方、その名前を最初に聞かされたウォズニアックは、音楽を嗜好するジョブズゆえにビートルズのアップル・レコードから引用したのでは―― と思い、「ビートルズと同名だと、訴訟沙汰にならないか?」と問い返したという。ジョブズは一笑に付した。だが、後にアップルは本当にアップル・レコードと商標を巡って裁判で争いになり、和解金8万ドルを支払った。

ジョブズがアップルを設立した目的は、ウォズニアックが趣味で自作したマイクロコンピュータ『AppleⅠ』を販売するためだった。それは、プロセッサーとメモリを搭載しただけのマザーボード。マニア向けのキットで、客は自分でケースに入れ、キーボードとディスプレイを別に用意する必要があった。ウォズニアックはビジネスに興味は無かったが、自分が新しいコンピュータを創ることには興味があり、ジョブズの誘いに乗った。

世界一不運な男、ロナルド・ウェイン


そんな2人の運命の出会いは、同社の設立からさかのぼること5年前の1971年の夏だった。16歳のジョブズは、友人からウォズニアックを紹介され、2人はすぐに意気投合した。通称 “ウォズ” は6歳でアマチュア無線の免許を取り、アマチュア無線機を自作。13歳の時にはトランジスタを組み合わせて二進加減算機を作り、科学コンクールで優勝した天才だった。友人らは、そんな彼を “ウォズの魔法使い” と呼んだ。

アップル設立から12日後、創業者の1人、ロナルド・ウェインは、ジョブズの野心的な経営方針に不安を抱き、アップルの株式10%の持ち株を800ドルで精算して、会社を去った。彼が残したのは、ニュートンがリンゴの木の下で読書する、アップルの初代ロゴを描いた紙きれ一枚だった。もし、株を手放さずに持ち続けていたら、670億ドル(7兆5,710億円)になっていたことから、ウェインは “世界一不運な男” と呼ばれる。



ターゲットをマニアから一般ユーザーに移した「Apple II」


『AppleⅠ』は、ゾロ目好きなウォズニアックの意向から666ドルに価格が設定され、マニアの間では評判がよかった。最終的に200台ほどが製造されたが、ジョブズは、次のモデルはターゲットをマニアから、これから飛躍的に増えるであろう一般ユーザーに移したいと、相棒に伝えた。そして完成したのが『AppleⅡ』だった。同機は、むき出しの『AppleⅠ』と異なり、基板やキーボード、電源装置などが一体化されたパッケージ商品。ディスプレイを接続すれば、すぐに使えた。翌77年6月に発売すると―― ジョブズの狙い通り、大ヒット。アップルの名は一躍世間に知れ渡り、同社に莫大な利益をもたらした。

それに先駆け、ジョブズはレジス・マッケンナ社のアートディレクター、ロブ・ジャノフに、アップルの新しいロゴマークのデザインを依頼した。先のウェインが描いたものはどうにも古臭かったからだ。そして、上がってきたモノクロのアイデアを見たジョブズは大きく頷いた。ただ1点、間もなく発売される『AppleⅡ』のカラー出力を印象づけるために、複数のカラーを入れてほしいとリクエストした。かくして、あの6色の横縞のリンゴマークが完成する。それは、“ビッグブルー” と称される、単色ロゴの巨人『IBM』を意識したものだった。



シンプルなデザインで、誰もが直感的に扱える大衆的なパソコン「Macintosh 128K」


1979年、ジョブズは10万株のアップル株を破格の安値で譲ることを条件に、情報デザインの権威―― パロアルト研究所(PARC)の見学を許される。同社は、レーザープリンターやマウス、イーサネットなどの開発で世界的に知られる研究所だった。ジョブズはこの見学を通じて、コンピュータの未来はGUI(グラフィカルユーザインターフェース)が握ると確信する。彼は、次なる目標を “シンプルなデザインで、誰もが直感的に扱える大衆的なパソコン” に置いた。

1983年、アップルは組織としての更なる飛躍を狙って、ジョン・スカリーを新たなCEOに迎える。彼はペプシコーラの社長だったが、ジョブズが彼を引き抜く時に発した台詞は、今や伝説となっている。「このまま砂糖水を売って過ごしたいのか? それとも私と一緒に世界を変えたいのか?」

そして―― 迎えた1984年1月24日、ジョブズの思いが込められた『Macintosh 128K』が発売された。それは、徹底した低価格、シンプルで美しいデザイン、そして念願の “グラフィカルユーザインタフェース(GUI)”―― 誰もが直感的に扱える操作性を備え、全く新しいブランド名「マッキントッシュ」が与えられた。新商品は先のCM同様、世間に大きなインパクトを与え、空前の大ヒットを記録した。巨人IBMの背中は、すぐそこに見えるまでに近づいていた。

だが、そんなジョブズがたった1つだけ見落としていたことがあった。奇しくも、同じ1955年生まれのライバル、ビル・ゲイツである。彼の起こしたマイクロソフト社はその時期、GUIを備えた全く新しいOSの開発を進めていた――『Windows』である。

1985年9月、ジョブズは自ら招いたスカリーとの権力闘争に敗れ、アップルを去る。その2ヶ月後の同年11月、マイクロソフトから初代『Windows』が発売される。後に、その革新的なOSは、アップルにとって新たな巨人―― ビッグ・ブラザーとして立ちはだかる。

ビッグ・ブラザーは2人いたのである。

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2024.01.24
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カタリベ
1967年生まれ
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